◇◆オマケ『俺だけの宝石箱』◆◇
——11月1日
いつもなら同じ制服を着た人で溢れかえっている通学路に、今は俺一人しかいない。なぜなら俺がいつもより早めに登校してるから。
くわぁっとあくびを噛み締める。
早朝なのもあり、冬の始まりを知らせる冷たい風が一本道を突き抜ける。髪がふわりと揺れ、一瞬だけ視界が開けた。手でササッと前髪を整える。
昨日の反省を活かし羽織ってきたブレザーのポケットに両手を突っ込んだ。
(ほんとに司は来てんのかよ)
俺がこんなに早く学校に向かっている理由は、昨日の夜、司から送られてきたメールが原因だ。
『明日、少し早めに学校来て』
なぜ、という疑問はなかった。
(イタズラ、思ってたより効いてるなぁ)
苦笑しながら『わかった』と返信しておく。
今日はハロウィン、司は俺にイタズラする気満々だったらしい。たまたま母親にお菓子を持たされていた俺は、司のイタズラをたまたま回避。逆にお菓子を持っていなかった司にイタズラをしてやった。
——キスのお預け。
それは、司にとって苦痛でしかなかったらしい。
別れてからメールの通知は止まらず、『明日覚えとけよ!』なんてどこぞの悪党だとツッコミたくなる返信まであった。
だからまあ、覚悟はしている。
明日、俺は仕返しをされるんだろう。
それがどんなものか想像もできないけれど、司は俺に対して酷いことはしないという信頼があった。
だから特に重く考えず、なんならどんな仕返しをされるのか予想しながら眠りについたのだが……。
いざ当日になると、少し怖くなってきた。
司は俺に対して酷いことはしないが、碌でもないことはする。
ハロウィンに合わせて「仮装して!」とか言ってきそうだ。もうハロウィン終わってるけどな。アイツはそんな細かいこと気にしない性だから。
(やばい、本当にそんな感じな気がしてきた……)
足がズンと重くなった。学校までは後少し。
その時、ピコンと明るく籠もった音が鞄から聞こえてきた。しぶしぶポケットから手を出し、鞄を漁る。
「あ、司からだ」
桐崎司と表示された通知をタップすると一瞬でトーク画面へ飛ぶ。
『着いた!靴箱の前で待ってるから』
「ちゃんと来てる〜……」
いつもは予鈴の少し前に教室に滑り込んで来るくせに、こういう時は早く起きるんだから。
いや、そういえば夏公演のオーディションの時も毎朝ちゃんと起きて一緒に練習してたっけ。やるときはやるんだよな、アイツ……。
ため息を吐き、『もう少しで着く』と返信しておく。すると、またすぐにスマホが振動した。『グッ!』と親指を立てたイヌのスタンプが返される。
もう、行くしかない。
何をされるかは知らんが、もうドンと来いだ。変なことじゃなければ何でもいい。この際、全部真顔でこなしてやるよ!
変な決意と共に、俺は駆け足で学校へ向かった。
〜司Side〜
まだほとんど空っぽな靴箱の前で皐月を待つ。
『もう少しで着く』と連絡が来て十分、そろそろ来る頃だろうか。ジッと立っているから流石に指先が冷えてきた。その場で軽く足踏みすると、ズボンの左ポケットがカチャリと鳴った。
「皐月、まだかなー」
小さな呟きは、カラッと乾いた空気の中に静かに溶けていく。
(そろそろ待ちくたびれたんだけど。電話してみようかな)
スマホを操作していると、前からタッタッと足音が聞こえてきた。視線を上げると、門をくぐり走ってくる皐月がいた。
「皐月!」
「ごめん司、遅くなった」
「全然。走ってこなくてもよかったのに」
「だって、待ってるって言うから……」
息を切らした皐月が目の前にやってきた。背中を丸め、膝に手を当てている。俺はそんな皐月の背中を優しく撫でた。
「おーよしよし、大丈夫か〜?」
「子ども扱いやめろ。……んで、なにすんだ?」
息が整ったらしい皐月は、パパっと上履きに履き替えていた。俺はポケットから鍵を取り出し、リングを指にはめクルクルと回しながら皐月に見せる。
「一旦移動しましょうか」
鍵と、口調を変えた俺に皐月はキュッと唇を噛み締めた。俺の意図がわからず警戒しているのだろう。しかしすぐに「わかった」と頷き、俺の後ろを素直に着いてきた。
本校舎からどんどん離れていく。
渡り廊下を歩いた先にあるのは、改装工事後使われなくなった旧校舎——西校舎だけだ。ここまで来たら、皐月はどこへ向かっているのかわかったらしい。
「もしかして、旧3-A教室か?」
「あたり〜! 練習するって言って顧問に鍵借りてきた。前のオーディションの成果もあって、結構信頼してもらってるんだよね、俺。簡単に借りれたよ」
旧3-A教室——夏公演の主演オーディションの自主練をするために、俺が顧問から借りてた教室だ。ここで一週間皐月と二人きりで、みっちり演技の練習をした。
ボランティア部であり、実は元天才子役でもあった皐月の協力のおかげで、最初は『超棒読み演技』と言われていた俺の演技は短期間でメキメキ上達した。その甲斐あって、主演は逃したものの一年生で主要キャラの一人に選んでもらえた。
その成果を、演劇部の顧問は思っていた以上に評価してくれている。
朝、「練習するので鍵貸してください」とお願いしに行くと、「熱心だな〜」と感心しながら鍵を渡してくれた。「期待しているぞ」というお言葉付きで。
俺は少し申し訳なく思いつつ、ありがたく鍵を頂戴した。
そんなことを話していると、旧3-A教室に着いた。
鍵を差し、クルッと回す。久しぶりに来た旧3-Aは少し埃を被っていた。が、初めて来た時ほどではない。そこまで気にすることもなく、俺と皐月は教室に入った。
皐月が扉を閉めたところで、俺はカチャッと鍵を閉める。皐月は驚いたように俺と鍵を見比べた。
「司、鍵……」
「一応、な。流石にこの時間に西校舎に来るやつなんて居ないだろうけど」
俺は皐月の両肩を掴み、壁に当てる。
皐月の鞄がゴトンと床に落ちた。
壁と俺に挟まれた皐月は、いよいよ焦りだしたらしい。
俺の腕を掴み、引き離そうとする。が、正直に言ってしまうと、弱い。ピクリとも動かない俺の腕に対し、皐月の腕はプルプルと震えている。
「こんの、馬鹿力がっ……!」
「皐月が俺に力で勝てたことないでしょ」
「くそっ! 何するつもりだよ!」
「なんだと思う?」
「わかんないから、聞いてるんですけどっ……!」
(わかってなかったのか)
昨日の会話とメールでのやり取りでもう気付いていると思っていたのだが、皐月は何もわかってなかったらしい。
俺は皐月の右肩から手を離し、親指でそっと彼の唇を撫でた。ピクリと、皐月の指先から力が抜ける。
昨日皐月にされたのと同じように——いや、それよりもゆっくりと。唇の皺一本すら逃さないよう、ゆっくりじっくりとなぞっていく。
いつの間にか皐月は耳の先まで真っ赤に染まり、頰は熱を持っていた。
「わかった?」
「あ……」
皐月の声が揺れる。よくやく、わかったらしい。
俺が何を望んでいるのか。自分がこれから何をされるのか。
「皐月、俺昨日我慢したよ。煽られてお預けにされて、あのまま追いかけて無理やりキスしたい気持ちを抑え込んで、ちゃんと今日まで待ったよ」
「お、おう、そうだな。良い子、良い子だったから——」
まるで犬を褒めて撫でようとするみたいに、両手を俺の髪に向かって伸ばしてくる。
——違う。俺がしてほしいのは、褒めてもらうことじゃない。
右手は唇に添えたまま、こちらに伸ばされた皐月の細い両手首を左手でまとめて掴む。
「皐月、キスしていい?」
俺の問いかけに、皐月は迷ったように口をモニョモニョと動かした。しばらくして、覚悟を決めたように口を開く。
「その……いいけど、お手やわらかにッ——!?」
言い終える前に、俺は皐月の唇に齧り付いた。
唇と手首から離し、皐月の頭と腰に手を回す。皐月は自由になった手で、俺のブレザーを縋り付くように握った。
しばらくすると、皐月がドンドンと俺の胸を手の平で叩いてきた。
(これ、本当に苦しい時のやつだ)
口を離すと、皐月は大きく息を吸いながら床に崩れ落ちた。俺もしゃがんで、皐月と視線を合わせる。
「つかさ、お前っ……」
「ごめん、苦しかったな。大丈夫か?」
「だいじょうぶに、見えるかよっ……!」
皐月は肩で息をしながらこちらを見上げている。きっと重い前髪の奥で、俺のことを睨んでいるのだろう。
俺は皐月の前髪をクシャッと掻き上げた。
——宝石箱から宝石が零れ落ちた。
現れた皐月の大きな瞳は潤んでいて、目尻から一筋の雫が流れた。普通なら心配したりだとか、泣かせたことに罪悪感を覚えるのだろうが、俺はただただその美しさに見惚れていた。
(そういえば、『春舞』の時も泣きの演技が話題になってたっけ)
元々天才子役と名高かった萩原月を国民的スターに押し上げた名作——『春に舞え』
数々の名シーンの中でも特に『泣きの演技』に注目が集まり、称賛されていた。
連日特集が組まれ、画面越しで何度も見た彼の涙。
姉たちにねだり、何度も何度も録画を巻き戻して見た、彼の涙。
真ん丸な瞳から零れる涙は、まるでダイヤモンドのようだった。
その瞳が、涙が。当時の美しさを一片も失わず、なんなら成長し更に輝きを増して、今俺の目の前にある。
そんな奇跡が、あってもいいのだろうか。
指でそっと涙を拭うと、皐月が反射的に目をつむった。そのせいでまたポロポロと涙が溢れていく。
(もったいないな……)
このキラキラと輝く宝石を、俺だけの物にできたら——そんなどうしようもない欲がふつふつと湧きだっていく。
「皐月、目開けて。こっちを見て」
——見て、俺を見て。その瞳に俺だけを映して。
その思いが通じたように、皐月はゆっくりと瞼を開く。バッチリと目が合って思わず息を呑んだ。
皐月の色素の薄い茶色の瞳には、俺の姿だけがくっきりと反射していた。
(今、皐月の瞳には俺しか映っていない)
宝石箱のように輝く瞳が、こちらを真っ直ぐ射抜いている。
そのことに胸が歓喜に震える。
嬉しくて、気持ちが昂ぶって制御出来なくて、俺は皐月の瞼にキスを落とした。
そのまま強く、皐月の身体を抱きしめる。
「好き。……好きだよ、皐月。本当に、どうしようもないくらい」
「……うん、俺も好きだよ」
顔を俺の胸元にうずめ、ブレザーに吸収された皐月の声は、それでも俺の耳にしっかりと届いた。
皐月がゆっくりと顔を上げ、俺を見あげてくる。
しばらく見つめ合って、またそっと唇を合わせた。
早朝の学校の、人通りのない旧校舎。
物音一つしない空間。
まるで、世界に俺ら二人だけしかいないように思えた。
◇◇◇
しばらくすると、窓の外からざわざわと人の声が聞こえるようになってきた。そろそろ皆が登校してくる時間だろう。皐月もチラチラと時計を確認している。
「……じゃ、そろそろ行くか」
床に落ちたままだった鞄を拾い立ち上がる皐月の腕を、しゃがんだまま咄嗟に掴む。
「待った!」
「なんだよ。そろそろ行かないと遅刻するだろ」
「そうなんだけど……。でも、もうちょっと待って」
「は? なんでだよ」
皐月が顔をしかめる。俺は皐月の鋭い視線を無視して理由を話した。
「そんな可愛い顔のまま教室に戻せない。もうちょっと落ち着いてから、な」
俺の言葉に、皐月の顔がカーっと赤く染まっていく。
ほら、その可愛い顔。
そのまま教室に行かせるわけないだろ。
よっと立ち上がり、皐月の長く重い前髪をそっと下ろす。するとあっという間に目が覆われて、見えなくなった。手櫛で軽く整えてやれば、いつもの織宮皐月になる。そのことに酷く安心した自分がいた。
——織宮皐月の瞳を知るのは、俺だけでいい。
——この宝石箱のような美しい瞳に映るのは、俺だけでいいんだ。
そんな独占欲が、グルグルと胸の中で渦巻く。
そんなことを知って知らずか、皐月は俺を見つめて「どう? もう大丈夫そう?」なんて可愛く聞いてくる。
「うん、もう大丈夫かな。行こっか」
皐月の手を引き、旧3-A教室から出る。
鍵を閉めて、本校舎にある俺たちのクラスに向かって歩き出した。
繋いだ指先に力を込めると、「痛い」と言って怒られた。慌てて繋いだ指を緩める。
「ごめんごめん、ちょっと力入っちゃって」
「握られてる方の気持ちも考えろよな、馬鹿力」
「わかってる。ほんとごめん」
「……そこまで謝らなくていい」
ぷいっと顔を背ける皐月が、もう可愛くて仕方がない。
今日の皐月はどうしてこうも可愛いのだろうか。また教室に引き込んで抱きしめてキスをしたくなってくる。まあそんなことはできないので、グッと我慢する。
「皐月、こっち向いて」
「ん? なんだ?」
俺が呼ぶと、皐月が素直にこちらを見る。
重い前髪に阻まれて、その先は一切見えなかった。
「……んーん、なんでも!」
「なんだよ……」
皐月が唇を尖らせ不思議そうにこちらを見上げている。
けれど、俺にはわかる。
たとえ見えなくても、その瞳が俺のことをジッと見つめていることを。
願わくば、この瞳が一生俺のことを映してくれますように。
【完】
——11月1日
いつもなら同じ制服を着た人で溢れかえっている通学路に、今は俺一人しかいない。なぜなら俺がいつもより早めに登校してるから。
くわぁっとあくびを噛み締める。
早朝なのもあり、冬の始まりを知らせる冷たい風が一本道を突き抜ける。髪がふわりと揺れ、一瞬だけ視界が開けた。手でササッと前髪を整える。
昨日の反省を活かし羽織ってきたブレザーのポケットに両手を突っ込んだ。
(ほんとに司は来てんのかよ)
俺がこんなに早く学校に向かっている理由は、昨日の夜、司から送られてきたメールが原因だ。
『明日、少し早めに学校来て』
なぜ、という疑問はなかった。
(イタズラ、思ってたより効いてるなぁ)
苦笑しながら『わかった』と返信しておく。
今日はハロウィン、司は俺にイタズラする気満々だったらしい。たまたま母親にお菓子を持たされていた俺は、司のイタズラをたまたま回避。逆にお菓子を持っていなかった司にイタズラをしてやった。
——キスのお預け。
それは、司にとって苦痛でしかなかったらしい。
別れてからメールの通知は止まらず、『明日覚えとけよ!』なんてどこぞの悪党だとツッコミたくなる返信まであった。
だからまあ、覚悟はしている。
明日、俺は仕返しをされるんだろう。
それがどんなものか想像もできないけれど、司は俺に対して酷いことはしないという信頼があった。
だから特に重く考えず、なんならどんな仕返しをされるのか予想しながら眠りについたのだが……。
いざ当日になると、少し怖くなってきた。
司は俺に対して酷いことはしないが、碌でもないことはする。
ハロウィンに合わせて「仮装して!」とか言ってきそうだ。もうハロウィン終わってるけどな。アイツはそんな細かいこと気にしない性だから。
(やばい、本当にそんな感じな気がしてきた……)
足がズンと重くなった。学校までは後少し。
その時、ピコンと明るく籠もった音が鞄から聞こえてきた。しぶしぶポケットから手を出し、鞄を漁る。
「あ、司からだ」
桐崎司と表示された通知をタップすると一瞬でトーク画面へ飛ぶ。
『着いた!靴箱の前で待ってるから』
「ちゃんと来てる〜……」
いつもは予鈴の少し前に教室に滑り込んで来るくせに、こういう時は早く起きるんだから。
いや、そういえば夏公演のオーディションの時も毎朝ちゃんと起きて一緒に練習してたっけ。やるときはやるんだよな、アイツ……。
ため息を吐き、『もう少しで着く』と返信しておく。すると、またすぐにスマホが振動した。『グッ!』と親指を立てたイヌのスタンプが返される。
もう、行くしかない。
何をされるかは知らんが、もうドンと来いだ。変なことじゃなければ何でもいい。この際、全部真顔でこなしてやるよ!
変な決意と共に、俺は駆け足で学校へ向かった。
〜司Side〜
まだほとんど空っぽな靴箱の前で皐月を待つ。
『もう少しで着く』と連絡が来て十分、そろそろ来る頃だろうか。ジッと立っているから流石に指先が冷えてきた。その場で軽く足踏みすると、ズボンの左ポケットがカチャリと鳴った。
「皐月、まだかなー」
小さな呟きは、カラッと乾いた空気の中に静かに溶けていく。
(そろそろ待ちくたびれたんだけど。電話してみようかな)
スマホを操作していると、前からタッタッと足音が聞こえてきた。視線を上げると、門をくぐり走ってくる皐月がいた。
「皐月!」
「ごめん司、遅くなった」
「全然。走ってこなくてもよかったのに」
「だって、待ってるって言うから……」
息を切らした皐月が目の前にやってきた。背中を丸め、膝に手を当てている。俺はそんな皐月の背中を優しく撫でた。
「おーよしよし、大丈夫か〜?」
「子ども扱いやめろ。……んで、なにすんだ?」
息が整ったらしい皐月は、パパっと上履きに履き替えていた。俺はポケットから鍵を取り出し、リングを指にはめクルクルと回しながら皐月に見せる。
「一旦移動しましょうか」
鍵と、口調を変えた俺に皐月はキュッと唇を噛み締めた。俺の意図がわからず警戒しているのだろう。しかしすぐに「わかった」と頷き、俺の後ろを素直に着いてきた。
本校舎からどんどん離れていく。
渡り廊下を歩いた先にあるのは、改装工事後使われなくなった旧校舎——西校舎だけだ。ここまで来たら、皐月はどこへ向かっているのかわかったらしい。
「もしかして、旧3-A教室か?」
「あたり〜! 練習するって言って顧問に鍵借りてきた。前のオーディションの成果もあって、結構信頼してもらってるんだよね、俺。簡単に借りれたよ」
旧3-A教室——夏公演の主演オーディションの自主練をするために、俺が顧問から借りてた教室だ。ここで一週間皐月と二人きりで、みっちり演技の練習をした。
ボランティア部であり、実は元天才子役でもあった皐月の協力のおかげで、最初は『超棒読み演技』と言われていた俺の演技は短期間でメキメキ上達した。その甲斐あって、主演は逃したものの一年生で主要キャラの一人に選んでもらえた。
その成果を、演劇部の顧問は思っていた以上に評価してくれている。
朝、「練習するので鍵貸してください」とお願いしに行くと、「熱心だな〜」と感心しながら鍵を渡してくれた。「期待しているぞ」というお言葉付きで。
俺は少し申し訳なく思いつつ、ありがたく鍵を頂戴した。
そんなことを話していると、旧3-A教室に着いた。
鍵を差し、クルッと回す。久しぶりに来た旧3-Aは少し埃を被っていた。が、初めて来た時ほどではない。そこまで気にすることもなく、俺と皐月は教室に入った。
皐月が扉を閉めたところで、俺はカチャッと鍵を閉める。皐月は驚いたように俺と鍵を見比べた。
「司、鍵……」
「一応、な。流石にこの時間に西校舎に来るやつなんて居ないだろうけど」
俺は皐月の両肩を掴み、壁に当てる。
皐月の鞄がゴトンと床に落ちた。
壁と俺に挟まれた皐月は、いよいよ焦りだしたらしい。
俺の腕を掴み、引き離そうとする。が、正直に言ってしまうと、弱い。ピクリとも動かない俺の腕に対し、皐月の腕はプルプルと震えている。
「こんの、馬鹿力がっ……!」
「皐月が俺に力で勝てたことないでしょ」
「くそっ! 何するつもりだよ!」
「なんだと思う?」
「わかんないから、聞いてるんですけどっ……!」
(わかってなかったのか)
昨日の会話とメールでのやり取りでもう気付いていると思っていたのだが、皐月は何もわかってなかったらしい。
俺は皐月の右肩から手を離し、親指でそっと彼の唇を撫でた。ピクリと、皐月の指先から力が抜ける。
昨日皐月にされたのと同じように——いや、それよりもゆっくりと。唇の皺一本すら逃さないよう、ゆっくりじっくりとなぞっていく。
いつの間にか皐月は耳の先まで真っ赤に染まり、頰は熱を持っていた。
「わかった?」
「あ……」
皐月の声が揺れる。よくやく、わかったらしい。
俺が何を望んでいるのか。自分がこれから何をされるのか。
「皐月、俺昨日我慢したよ。煽られてお預けにされて、あのまま追いかけて無理やりキスしたい気持ちを抑え込んで、ちゃんと今日まで待ったよ」
「お、おう、そうだな。良い子、良い子だったから——」
まるで犬を褒めて撫でようとするみたいに、両手を俺の髪に向かって伸ばしてくる。
——違う。俺がしてほしいのは、褒めてもらうことじゃない。
右手は唇に添えたまま、こちらに伸ばされた皐月の細い両手首を左手でまとめて掴む。
「皐月、キスしていい?」
俺の問いかけに、皐月は迷ったように口をモニョモニョと動かした。しばらくして、覚悟を決めたように口を開く。
「その……いいけど、お手やわらかにッ——!?」
言い終える前に、俺は皐月の唇に齧り付いた。
唇と手首から離し、皐月の頭と腰に手を回す。皐月は自由になった手で、俺のブレザーを縋り付くように握った。
しばらくすると、皐月がドンドンと俺の胸を手の平で叩いてきた。
(これ、本当に苦しい時のやつだ)
口を離すと、皐月は大きく息を吸いながら床に崩れ落ちた。俺もしゃがんで、皐月と視線を合わせる。
「つかさ、お前っ……」
「ごめん、苦しかったな。大丈夫か?」
「だいじょうぶに、見えるかよっ……!」
皐月は肩で息をしながらこちらを見上げている。きっと重い前髪の奥で、俺のことを睨んでいるのだろう。
俺は皐月の前髪をクシャッと掻き上げた。
——宝石箱から宝石が零れ落ちた。
現れた皐月の大きな瞳は潤んでいて、目尻から一筋の雫が流れた。普通なら心配したりだとか、泣かせたことに罪悪感を覚えるのだろうが、俺はただただその美しさに見惚れていた。
(そういえば、『春舞』の時も泣きの演技が話題になってたっけ)
元々天才子役と名高かった萩原月を国民的スターに押し上げた名作——『春に舞え』
数々の名シーンの中でも特に『泣きの演技』に注目が集まり、称賛されていた。
連日特集が組まれ、画面越しで何度も見た彼の涙。
姉たちにねだり、何度も何度も録画を巻き戻して見た、彼の涙。
真ん丸な瞳から零れる涙は、まるでダイヤモンドのようだった。
その瞳が、涙が。当時の美しさを一片も失わず、なんなら成長し更に輝きを増して、今俺の目の前にある。
そんな奇跡が、あってもいいのだろうか。
指でそっと涙を拭うと、皐月が反射的に目をつむった。そのせいでまたポロポロと涙が溢れていく。
(もったいないな……)
このキラキラと輝く宝石を、俺だけの物にできたら——そんなどうしようもない欲がふつふつと湧きだっていく。
「皐月、目開けて。こっちを見て」
——見て、俺を見て。その瞳に俺だけを映して。
その思いが通じたように、皐月はゆっくりと瞼を開く。バッチリと目が合って思わず息を呑んだ。
皐月の色素の薄い茶色の瞳には、俺の姿だけがくっきりと反射していた。
(今、皐月の瞳には俺しか映っていない)
宝石箱のように輝く瞳が、こちらを真っ直ぐ射抜いている。
そのことに胸が歓喜に震える。
嬉しくて、気持ちが昂ぶって制御出来なくて、俺は皐月の瞼にキスを落とした。
そのまま強く、皐月の身体を抱きしめる。
「好き。……好きだよ、皐月。本当に、どうしようもないくらい」
「……うん、俺も好きだよ」
顔を俺の胸元にうずめ、ブレザーに吸収された皐月の声は、それでも俺の耳にしっかりと届いた。
皐月がゆっくりと顔を上げ、俺を見あげてくる。
しばらく見つめ合って、またそっと唇を合わせた。
早朝の学校の、人通りのない旧校舎。
物音一つしない空間。
まるで、世界に俺ら二人だけしかいないように思えた。
◇◇◇
しばらくすると、窓の外からざわざわと人の声が聞こえるようになってきた。そろそろ皆が登校してくる時間だろう。皐月もチラチラと時計を確認している。
「……じゃ、そろそろ行くか」
床に落ちたままだった鞄を拾い立ち上がる皐月の腕を、しゃがんだまま咄嗟に掴む。
「待った!」
「なんだよ。そろそろ行かないと遅刻するだろ」
「そうなんだけど……。でも、もうちょっと待って」
「は? なんでだよ」
皐月が顔をしかめる。俺は皐月の鋭い視線を無視して理由を話した。
「そんな可愛い顔のまま教室に戻せない。もうちょっと落ち着いてから、な」
俺の言葉に、皐月の顔がカーっと赤く染まっていく。
ほら、その可愛い顔。
そのまま教室に行かせるわけないだろ。
よっと立ち上がり、皐月の長く重い前髪をそっと下ろす。するとあっという間に目が覆われて、見えなくなった。手櫛で軽く整えてやれば、いつもの織宮皐月になる。そのことに酷く安心した自分がいた。
——織宮皐月の瞳を知るのは、俺だけでいい。
——この宝石箱のような美しい瞳に映るのは、俺だけでいいんだ。
そんな独占欲が、グルグルと胸の中で渦巻く。
そんなことを知って知らずか、皐月は俺を見つめて「どう? もう大丈夫そう?」なんて可愛く聞いてくる。
「うん、もう大丈夫かな。行こっか」
皐月の手を引き、旧3-A教室から出る。
鍵を閉めて、本校舎にある俺たちのクラスに向かって歩き出した。
繋いだ指先に力を込めると、「痛い」と言って怒られた。慌てて繋いだ指を緩める。
「ごめんごめん、ちょっと力入っちゃって」
「握られてる方の気持ちも考えろよな、馬鹿力」
「わかってる。ほんとごめん」
「……そこまで謝らなくていい」
ぷいっと顔を背ける皐月が、もう可愛くて仕方がない。
今日の皐月はどうしてこうも可愛いのだろうか。また教室に引き込んで抱きしめてキスをしたくなってくる。まあそんなことはできないので、グッと我慢する。
「皐月、こっち向いて」
「ん? なんだ?」
俺が呼ぶと、皐月が素直にこちらを見る。
重い前髪に阻まれて、その先は一切見えなかった。
「……んーん、なんでも!」
「なんだよ……」
皐月が唇を尖らせ不思議そうにこちらを見上げている。
けれど、俺にはわかる。
たとえ見えなくても、その瞳が俺のことをジッと見つめていることを。
願わくば、この瞳が一生俺のことを映してくれますように。
【完】



