「花梨」
「あ、お父さん。お母さんは?」
「寝たから」
ふうっと溜息を吐く父の背中は母同様に小さくて、丸くなっている。
うちの両親は少し遅めの出産だったから、三十前の娘に対し、両親は既に七十前。
しかもお父さんは足腰が年々弱くなってきていて、お母さんを支えて歩くなんて危なかっただろうに。
「……ごめんなさい」
これ以上の言葉は出てこなかった。
父はその世代の人だからか、口下手で自分から話してくることはない人だった。
だからか、父と私が二人きりになると会話が続かない。
相手を気遣える澪なら、父と上手く話して盛り上がってしまう。
明るい母なら、父と私が黙り込んでしまっても互いに話を振ってくれて会話になるように私達を繋いでくれる。
母は、父と私を繋いでくれる架け橋のような人だった。
そんなことに今更気付くのは、母が今までその役を担ってくれていたからだろう。
「……なあ、花梨」
珍しく私に話しかけてきた父は、真っ直ぐな目でこちらを見据えている。
父にはいつまでも大きくいてほしい。
そんな思いから老いた姿を直視出来なかった私だったけど、この時ばかりはと逸らしていた視線を戻していた。
ふわふわの白髪に、目や頬にある多数の皺。
曲がった背中をなんとか伸ばして歩いている姿はどこか危なっかしく、外出は常に母が側にいるらしい。
父は迷惑かけるからと外出を拒否したけどそれを許さないのは母で、あちこちに出掛けるようにしてくれていたからこそ、父は今も元気にいてくれるのだろう。
「……この病気はな、早期発見が難しいそうだ。だから、手遅れになりやすいと聞いたことがあった」
女性特有の疾患に、卵巣と口に出せないのがどこまでも父らしい。
どうして卵巣癌の予後を知っているのかと思ったけど、後に父の同僚の奥さんが卵巣癌で亡くなっていたと知った。
父は憔悴しきっていた同僚に心を痛めていたらしいけど、どこか癌のことは他人事で、身近な人がなるとは思っていなかったと漏らしていた。まさか娘が……って。
「……花梨、この子はな。きっと母親に病気を教えようと来てくれた子なんだ。ちゃんと分かってくれるから……、だから……」
父の光る瞳に目がピリッとヒリついた私は、思わず目を逸らしてしまった。
「……あ。椿が心配だから、帰るね……」
詰まる喉からなんとか声を出して、駆け足で慣れ親しんだ玄関から外に出て行く。
目を擦って空を見上げれば、一面に星が広がっていて、キラキラと輝いている。
父の涙を初めて見た。
父は元より寡黙で、感情を表に出ない人で、何か言うことがある時は母を通して意思表示する人だった。
澪が上京したいと懇願した時は何も言わなかったけど、母から淋しがっていたと聞いたし。私が絵の勉強をしたいとか、優太と結婚するとか、妊娠したとか。話しをした時は「そうか」としか言わなかったけど、後に母より詳しく話を聞いていたらしく、嬉しそうだったと話してくれた。
孫が生まれたらもう釘付けで、抱っこしたら顔なんて緩みっぱなしで、二人目が出来たと言ったらもう……。
ごめんなさい。お父さん、お母さん。
こんな姿、誰にも見せられないと、私は住宅街から一人歩き出す。
あの祠に行きたい。どうしようもない私を温かく迎えてくれる、あの場所へ。
スマホの灯りを頼りに、約十年振りに石段を登っていくけど、あの頃よりガタがきているようで、一歩ずつ前に進むとポロポロと石の欠片が落ちていく。
……妊娠中の現在、こんな危ない石段を登るわけにはいかない。
分かっているのに足は止まらなくて、今思うと自暴自棄になっていたんだと思う。
自分が癌になったという大きな衝撃、転移の可能性があるのに子宮と卵巣を体内に残しておく恐怖、後で手術を受ければ良かったと激しく後悔するかもしれない未来。
でもだからって、既に胎動を感じているのに、それは……できない。
だから、石段が壊れてしまえばいいと思った。
死んでしまったら癌に怯えることも、自分の命と我が子の命を天秤にかける必要もなくなることも、嫌な自分を見なくて済むし、……誰も酷いこと言わなくてよくなるもんね。
だけど石段は崩れることはなくて、私を祠に連れてきてくれた。
「……えっ?」
初めは暗闇だから見間違えたのかと思った。
スマホのライトを向けてゆっくり近付くと、それは見間違えではないと分かる。
祠は、跡形もなく崩れていた。
それを見た途端、私は思わずしゃがみ込んでしまった。
最後の綱が切れて、苦しい思いが一気に溢れて、声を上げて泣いてしまった。
どうして誰も理解してくれないの?
どうして一緒に頑張ろうと、手を差し伸べてくれないの?
お母さんまで。
私、間違ったことしてる?
逆なら怒られるのも分かるけど、私は子どもを産もうとしてるんだよ? 責任を果たそうとしているの。
なのに、反対される意味が分からない。
私だって、怖いんだよ! こうしている間に転移してしまったらって。
なのに、どうしてこんな不安な気持ちを理解してくれないの?
妊娠の報告をした時、椿の時同様に喜んでくれたお母さんとお父さん。
だけど、状況は変わってしまった。
強くて、優しくて、いつも私たち姉妹の味方だったお母さん。
『花梨が思う通りにしたらいいの』
いつも周りに何を思われているかが不安で、だからこそ周りに合わせてしまう私に、お母さんが言ってくれた言葉。
だけどそんなお母さんが、一番の敵になってしまったような気がした。
私の、それこそ人生最大のわがままだと思い通そうとした意思を、真正面から全否定してきた。
……もう分からないよ。絶対の味方が理解してくれないなんて。
もう全てが嫌だ。消えてしまいたい。
顔を上げれば空には広がる星々に、雲によって隠れようとしている満月のような丸い月。
待って、私も連れてって!
そう思い手を伸ばすと、暗闇で触れる温かなもの。
「……っ!」
驚きで尻もちを付きそうになる私の手を強く握り、立ち上がらせてくれたのは優太だった。
「えっ、椿は?」
「お義父さんに見てもらってるから。帰ろう」
手を握り、石段を一段ずつ降りていく。
私は中学生の頃から、何も変わっていない。
嫌なことがあるとこの祠に来て消えたいと願い、そんな私を優太が迎えにきてくれる。
本当、いつまでも子どもだね、私は。
それ以降、優太は何も言わなかった。
私のこと、どうでも良いから何も言わないのかと、どこまでも捻くれた考えがあったけど、今なら違うと分かる。
私を追い詰めない為だ。
出産を反対したら、私は何をするか分からない状態だった。
これこそ、どこかに逃げてしまうかもしれない。最悪の場合は子どもと……、とか考えたのかもしれない。
だからこそ優太は、自分の判断が正しいのかが分からなかったから無気力になってしまったのだろう。
全て私のせいだった。優太を追い込んだのは。
癌になってショックだったのは当事者だけじゃなくて、家族も同様。そんなことにも気付かないぐらい、私は自分勝手だった。
「あ、お父さん。お母さんは?」
「寝たから」
ふうっと溜息を吐く父の背中は母同様に小さくて、丸くなっている。
うちの両親は少し遅めの出産だったから、三十前の娘に対し、両親は既に七十前。
しかもお父さんは足腰が年々弱くなってきていて、お母さんを支えて歩くなんて危なかっただろうに。
「……ごめんなさい」
これ以上の言葉は出てこなかった。
父はその世代の人だからか、口下手で自分から話してくることはない人だった。
だからか、父と私が二人きりになると会話が続かない。
相手を気遣える澪なら、父と上手く話して盛り上がってしまう。
明るい母なら、父と私が黙り込んでしまっても互いに話を振ってくれて会話になるように私達を繋いでくれる。
母は、父と私を繋いでくれる架け橋のような人だった。
そんなことに今更気付くのは、母が今までその役を担ってくれていたからだろう。
「……なあ、花梨」
珍しく私に話しかけてきた父は、真っ直ぐな目でこちらを見据えている。
父にはいつまでも大きくいてほしい。
そんな思いから老いた姿を直視出来なかった私だったけど、この時ばかりはと逸らしていた視線を戻していた。
ふわふわの白髪に、目や頬にある多数の皺。
曲がった背中をなんとか伸ばして歩いている姿はどこか危なっかしく、外出は常に母が側にいるらしい。
父は迷惑かけるからと外出を拒否したけどそれを許さないのは母で、あちこちに出掛けるようにしてくれていたからこそ、父は今も元気にいてくれるのだろう。
「……この病気はな、早期発見が難しいそうだ。だから、手遅れになりやすいと聞いたことがあった」
女性特有の疾患に、卵巣と口に出せないのがどこまでも父らしい。
どうして卵巣癌の予後を知っているのかと思ったけど、後に父の同僚の奥さんが卵巣癌で亡くなっていたと知った。
父は憔悴しきっていた同僚に心を痛めていたらしいけど、どこか癌のことは他人事で、身近な人がなるとは思っていなかったと漏らしていた。まさか娘が……って。
「……花梨、この子はな。きっと母親に病気を教えようと来てくれた子なんだ。ちゃんと分かってくれるから……、だから……」
父の光る瞳に目がピリッとヒリついた私は、思わず目を逸らしてしまった。
「……あ。椿が心配だから、帰るね……」
詰まる喉からなんとか声を出して、駆け足で慣れ親しんだ玄関から外に出て行く。
目を擦って空を見上げれば、一面に星が広がっていて、キラキラと輝いている。
父の涙を初めて見た。
父は元より寡黙で、感情を表に出ない人で、何か言うことがある時は母を通して意思表示する人だった。
澪が上京したいと懇願した時は何も言わなかったけど、母から淋しがっていたと聞いたし。私が絵の勉強をしたいとか、優太と結婚するとか、妊娠したとか。話しをした時は「そうか」としか言わなかったけど、後に母より詳しく話を聞いていたらしく、嬉しそうだったと話してくれた。
孫が生まれたらもう釘付けで、抱っこしたら顔なんて緩みっぱなしで、二人目が出来たと言ったらもう……。
ごめんなさい。お父さん、お母さん。
こんな姿、誰にも見せられないと、私は住宅街から一人歩き出す。
あの祠に行きたい。どうしようもない私を温かく迎えてくれる、あの場所へ。
スマホの灯りを頼りに、約十年振りに石段を登っていくけど、あの頃よりガタがきているようで、一歩ずつ前に進むとポロポロと石の欠片が落ちていく。
……妊娠中の現在、こんな危ない石段を登るわけにはいかない。
分かっているのに足は止まらなくて、今思うと自暴自棄になっていたんだと思う。
自分が癌になったという大きな衝撃、転移の可能性があるのに子宮と卵巣を体内に残しておく恐怖、後で手術を受ければ良かったと激しく後悔するかもしれない未来。
でもだからって、既に胎動を感じているのに、それは……できない。
だから、石段が壊れてしまえばいいと思った。
死んでしまったら癌に怯えることも、自分の命と我が子の命を天秤にかける必要もなくなることも、嫌な自分を見なくて済むし、……誰も酷いこと言わなくてよくなるもんね。
だけど石段は崩れることはなくて、私を祠に連れてきてくれた。
「……えっ?」
初めは暗闇だから見間違えたのかと思った。
スマホのライトを向けてゆっくり近付くと、それは見間違えではないと分かる。
祠は、跡形もなく崩れていた。
それを見た途端、私は思わずしゃがみ込んでしまった。
最後の綱が切れて、苦しい思いが一気に溢れて、声を上げて泣いてしまった。
どうして誰も理解してくれないの?
どうして一緒に頑張ろうと、手を差し伸べてくれないの?
お母さんまで。
私、間違ったことしてる?
逆なら怒られるのも分かるけど、私は子どもを産もうとしてるんだよ? 責任を果たそうとしているの。
なのに、反対される意味が分からない。
私だって、怖いんだよ! こうしている間に転移してしまったらって。
なのに、どうしてこんな不安な気持ちを理解してくれないの?
妊娠の報告をした時、椿の時同様に喜んでくれたお母さんとお父さん。
だけど、状況は変わってしまった。
強くて、優しくて、いつも私たち姉妹の味方だったお母さん。
『花梨が思う通りにしたらいいの』
いつも周りに何を思われているかが不安で、だからこそ周りに合わせてしまう私に、お母さんが言ってくれた言葉。
だけどそんなお母さんが、一番の敵になってしまったような気がした。
私の、それこそ人生最大のわがままだと思い通そうとした意思を、真正面から全否定してきた。
……もう分からないよ。絶対の味方が理解してくれないなんて。
もう全てが嫌だ。消えてしまいたい。
顔を上げれば空には広がる星々に、雲によって隠れようとしている満月のような丸い月。
待って、私も連れてって!
そう思い手を伸ばすと、暗闇で触れる温かなもの。
「……っ!」
驚きで尻もちを付きそうになる私の手を強く握り、立ち上がらせてくれたのは優太だった。
「えっ、椿は?」
「お義父さんに見てもらってるから。帰ろう」
手を握り、石段を一段ずつ降りていく。
私は中学生の頃から、何も変わっていない。
嫌なことがあるとこの祠に来て消えたいと願い、そんな私を優太が迎えにきてくれる。
本当、いつまでも子どもだね、私は。
それ以降、優太は何も言わなかった。
私のこと、どうでも良いから何も言わないのかと、どこまでも捻くれた考えがあったけど、今なら違うと分かる。
私を追い詰めない為だ。
出産を反対したら、私は何をするか分からない状態だった。
これこそ、どこかに逃げてしまうかもしれない。最悪の場合は子どもと……、とか考えたのかもしれない。
だからこそ優太は、自分の判断が正しいのかが分からなかったから無気力になってしまったのだろう。
全て私のせいだった。優太を追い込んだのは。
癌になってショックだったのは当事者だけじゃなくて、家族も同様。そんなことにも気付かないぐらい、私は自分勝手だった。



