ローファーで走る雪道は時折滑るけど、それで転けてしまったけど、私はひたすらに走り続ける。
この刺さるような寒さも、膝を擦り剥きヒリヒリとした痛みも、優太の苦しみに比べたら全然だから。
優太ごめんね、私、何も分かってなかったね。
ずっと側にいてくれたのに、助けてもらったのに。本当に私は。
携帯の灯りで石段を照らして登っていくと馴染みの祠があり、その前には白い人影があった。
「優太!」
積もってある雪を払おうと頭や肩に触れていくも、優太は一切反応せず俯いたままだった。
「優太! ねえ、大丈夫!」
体を大きく揺すぶるとピクッとなって、顔をゆっくり上げてきた。
「……花梨?」
寝ていたのか、意識が遠くなっていたのかは分からないけど、顔も、手も、真っ赤だった。
「待って!」
私を避けるように歩き出した体はフラフラで、思わず手を掴むと氷のように冷たかった。
ねえ、待って! 何時間、ここにいたの!
これほど冷え込んでも、身動き一つ取らないなんて!
「え……、って言うか、何でこんな格好してんの!」
足を止めた優太はコートを脱いだかと思えば、雪を払い私にそっと掛けてくれた。
「あ、でも」
コートを返そうとするけど「いいから」と言って頑なに受け取ってくれなくて、自分より相手を想う性格は全然変わってなかった。
だけど背を向けて、こっちを一切見てくれなくて。
それは私が優太を避けたから、こうなっているのだろう。それは当然、避けられていると思っているのだから。
「こないだはごめんなさい! 顔の傷、気にしてくれただけだって分かってるから!」
振り返った優太の顔はどこか朗らかで、やはり私の拒絶が苦しめてしまっていたのだと伝わってくる。
ごめんなさい。優太を追い込んだのは私だった。
誤解は解けたけど変わらずに苦しそうな表情をしていて、今にも泣きそうな顔をしているのに唇を噛み締めていて。
どうしたの? と聞きたい。
でも、きっと答えられないだろう。
あの時の私もそうだった。自分が部活で嫌われている存在だなんて知られたくなくて、今起きていることを口にするのも辛くて。だから、私は。
「話、聞いてくれないかな?」
私の声に頷いてくれた優太と、祠の前で二人で並んで座る。子どもの頃みたいに。
「私ね、学校に馴染めてなくて、美術部でも嫌われて、ずっと無視されてたんだ……」
「……え? 花梨……が?」
中学生の頃、言いたくなかった恥を淡々と話していく。絶対知られたくなかった、大好きな優太に。
「ずっと自分のこと嫌いだった。相手に合わせて、無理に笑って、空気が悪くならないようって言いなりになって。自分の尊厳をめちゃくちゃに壊されても取り繕ろって適当に謝って、大切な作品守ろうとしなくて。……髪まで切ろうとして!」
「何で、髪を?」
「切るの嫌がったら、また悪口を言われるようになってさ。だったら、もう良いやって……」
『花梨の長い髪、好きだよ』
年長の頃、ショートヘアが似合う澪を眺めながら思わず「切ろうかなぁ」呟いていたら、優太がそう言ってくれた。
まあ、優太からしたらただの一言だったろうけど、私は意識的に髪を伸ばしてケアに力を入れていた。嬉しくて、忘れられなくて。
……薬の副作用で抜け落ちるまで、ずっと。
絵だって、そうだった。
幼稚園の頃、誰とも話さずスケッチブック片手に絵ばっか書いている私を笑う子たちは多かったけど、優太は上手だと褒めてくれて、それが私の支えだった。
中学二年生の初夏、優太と再会した私は自分の絵を貫いていた。
また構想を盗ったと言われないように先に描く絵をみんなの前で宣言して、被害者ぶってると陰口を叩かれてもひたすらに絵を描き続けていた。
私は宣言通り、茜色の夕陽を描きコンクールに応募した。
でも構想を盗ったと言われたあの夕陽と同じじゃない。あの日、優太と一緒に見たあの夕陽。涙で滲んだ、ぼやけた夕陽を描いたの。
それが三年生最後に描いた作品で、念願だったコンクールに受賞した。
私だけでは無理だった。優太がいてくれたからだったんだよ。
確かに、修正後である今の方が生きやすかった。
適当に謝ったら許されて、言いなりになったら一人にならなくてすんで。無視されることも、悪口を言われることもない。ただ笑ってピエロを演じていたら、それだけで平穏な学校生活を送れていた。これが大人の対応だと思っていた。だけど。
絵を描くことは、私にとっての生きる理由。なのに、それを軽く扱う自分に嫌悪するようになった。
何、笑ってるの? どうして言い返さないの? 悪いことしてないのに、なんで謝ってるの?
十四歳の私から聞こえる心の声は、「私なんか大っ嫌い」、「何、ヘラヘラ笑ってんの? 気持ち悪い」、「もう消えてしまいたい」、という苦しみの言葉ばかりで、どれほど自分に対して憎悪しているのか伝わってくるものばかりだった。
私は、過去の自分の方が好きだった。
闘った末に待っていたのは虚無の世界だったけど、一つだけ私の心に残っていた。自分への思いだ。
私の絵は私が守る。その信念を通し、闘った自分を少しだけ肯定出来て、だからあの夕陽の絵を描けたんだよ。
私が私を少しだけ好きになれたのは、決して屈しなかったから。
そんな私になれたのは、一人じゃないって優太が教えてくれたから。いつもそばにいてくれたから。
今、私が優太に話したことは、どこまでも支離滅裂で、要領を得なくて。私が未来から来ているなんて優太からしたら知るはずもないから、なおさら言っている意味が分からないだろう。
だけど、どうしてなんだろう。話を聞いていた優太の目から一筋の涙が流れていて、どんどんと溢れていく。
思わず手を握りしめるとやっぱり冷たくて、悴んでいて。卒園の時以降に繋いだ手は大きくて、それだけの時間が過ぎていったのだと感じられる。
「花梨……。俺さ、なんか分かんなくて……。時々、お前、誰なんだよ? とか、思うこと……あって……。自分に……」
これが、優太の心にあった叫び。
「って、何言ってるんだよって話だよな。ごめん、意味分かんなくて。俺も、訳わかんなくなってて……」
分かるよ。
大人になった私が、いきなりそんなこと言われても分からなかったと思う。
だけど人生を振り返る中で、この年頃の苦しみを知った。
相手を怒らせないために笑って、集団で馴染むために偽りの自分を作って、本当は傷付いているのに何でもないふうに装う。
そうしていくうちに理想の自分を作り上げてしまって、私はこうゆう性格だったと思い込みながら演じてしまう。
心の中で「この人は誰?」と思っているのに、気付かないフリをしながら。
その違和感を忘れて大人になって、それが本来の自分だと思っていたら苦しいよね?
弱さを出せないのが自分。
我慢するのが自分。
そう思っていたから優太は、私の療養生活支える苦しさを誰にも相談出来ず、一人で背負い込んでしまったんだよね。
そのことに気付けたのは中学生の私に戻れたから。
記憶写真が辛かったあの頃を見せてくれたのは、私にそれを気付かせようとしてくれたからだったんだね。
人生の終わりが見えた時、私はずっと悔いていた。
あの日、優太と再会しなければ良かった。あんな問題ぐらい簡単に解決出来るし、我慢しても良かったって。
だけど振り返ればとにかく苦しい日々で、消えたいと願ってしまったぐらいに私の心は限界を迎えていた。
だって、この先の未来が見えなかったんだから。
過去を振り返れば、辛かった中学時代なんて一瞬だったけど、この時を一生懸命に生きていた私にはこの時が全てだった。
そんな私を支えてくれたのは優太だったのに、再会しなければ良かったなんて思ったりして。
自分の大切なものは、自分じゃないと守れない。
私が私を肯定出来なくて、どうするの。
私は自分の絵の世界を作って、守っていくから。
……髪も、絶対に切らないから。
「優太は一人じゃないよ。おじさんも、おばさんも、澪も、居るじゃない? みんな優太の味方なんだから」
あの時、私が言ってもらいたかった言葉。
優太が側に居てくれて、そう伝えてくれているような気がしていたんだ。
「優太の苦しい気持ちや、悲しい気持ち。言葉にして伝えて良いんだよ。本当の自分を出して良いんだよ。優太が一人で抱えている方が、みんな辛いから」
私の余命宣告を受けて、それでも苦しみを吐き出すことも、涙を見せることもなかった優太。
死が近い私の前で、母を亡くすであろう娘たちの前で、気丈に振舞っていて弱音なんか一言も吐けなかったのだろう。
「……花梨は? 花梨は側に居てくれる?」
「え……?」
私を見つめる目はあまりにも真っ直ぐで、だからこそ胸が締め付けられていく。
「私は……」
私はね、今から十七年後に死ぬ運命なんだよ。だからこそ。
「うん。絶対に優太を一人にしないよ」
悴む手を互いに握り合い、顔を合わせれば泣きながら笑い合っていて、まるで子どもの頃に戻ったみたい。
本当はずっと一緒にいたい。今まで話せなかったこといっぱい話し合って、優太のことを知りたい。
だけど、無理なんだよね。私は優太のこと一人にしてしまうから、だから……。
ピキッ。
今までにない大きな亀裂音が響く中で、プツンと視界の先が真っ暗になった私は、体が裂けるような痛みの中で意識が途絶えていった。
この刺さるような寒さも、膝を擦り剥きヒリヒリとした痛みも、優太の苦しみに比べたら全然だから。
優太ごめんね、私、何も分かってなかったね。
ずっと側にいてくれたのに、助けてもらったのに。本当に私は。
携帯の灯りで石段を照らして登っていくと馴染みの祠があり、その前には白い人影があった。
「優太!」
積もってある雪を払おうと頭や肩に触れていくも、優太は一切反応せず俯いたままだった。
「優太! ねえ、大丈夫!」
体を大きく揺すぶるとピクッとなって、顔をゆっくり上げてきた。
「……花梨?」
寝ていたのか、意識が遠くなっていたのかは分からないけど、顔も、手も、真っ赤だった。
「待って!」
私を避けるように歩き出した体はフラフラで、思わず手を掴むと氷のように冷たかった。
ねえ、待って! 何時間、ここにいたの!
これほど冷え込んでも、身動き一つ取らないなんて!
「え……、って言うか、何でこんな格好してんの!」
足を止めた優太はコートを脱いだかと思えば、雪を払い私にそっと掛けてくれた。
「あ、でも」
コートを返そうとするけど「いいから」と言って頑なに受け取ってくれなくて、自分より相手を想う性格は全然変わってなかった。
だけど背を向けて、こっちを一切見てくれなくて。
それは私が優太を避けたから、こうなっているのだろう。それは当然、避けられていると思っているのだから。
「こないだはごめんなさい! 顔の傷、気にしてくれただけだって分かってるから!」
振り返った優太の顔はどこか朗らかで、やはり私の拒絶が苦しめてしまっていたのだと伝わってくる。
ごめんなさい。優太を追い込んだのは私だった。
誤解は解けたけど変わらずに苦しそうな表情をしていて、今にも泣きそうな顔をしているのに唇を噛み締めていて。
どうしたの? と聞きたい。
でも、きっと答えられないだろう。
あの時の私もそうだった。自分が部活で嫌われている存在だなんて知られたくなくて、今起きていることを口にするのも辛くて。だから、私は。
「話、聞いてくれないかな?」
私の声に頷いてくれた優太と、祠の前で二人で並んで座る。子どもの頃みたいに。
「私ね、学校に馴染めてなくて、美術部でも嫌われて、ずっと無視されてたんだ……」
「……え? 花梨……が?」
中学生の頃、言いたくなかった恥を淡々と話していく。絶対知られたくなかった、大好きな優太に。
「ずっと自分のこと嫌いだった。相手に合わせて、無理に笑って、空気が悪くならないようって言いなりになって。自分の尊厳をめちゃくちゃに壊されても取り繕ろって適当に謝って、大切な作品守ろうとしなくて。……髪まで切ろうとして!」
「何で、髪を?」
「切るの嫌がったら、また悪口を言われるようになってさ。だったら、もう良いやって……」
『花梨の長い髪、好きだよ』
年長の頃、ショートヘアが似合う澪を眺めながら思わず「切ろうかなぁ」呟いていたら、優太がそう言ってくれた。
まあ、優太からしたらただの一言だったろうけど、私は意識的に髪を伸ばしてケアに力を入れていた。嬉しくて、忘れられなくて。
……薬の副作用で抜け落ちるまで、ずっと。
絵だって、そうだった。
幼稚園の頃、誰とも話さずスケッチブック片手に絵ばっか書いている私を笑う子たちは多かったけど、優太は上手だと褒めてくれて、それが私の支えだった。
中学二年生の初夏、優太と再会した私は自分の絵を貫いていた。
また構想を盗ったと言われないように先に描く絵をみんなの前で宣言して、被害者ぶってると陰口を叩かれてもひたすらに絵を描き続けていた。
私は宣言通り、茜色の夕陽を描きコンクールに応募した。
でも構想を盗ったと言われたあの夕陽と同じじゃない。あの日、優太と一緒に見たあの夕陽。涙で滲んだ、ぼやけた夕陽を描いたの。
それが三年生最後に描いた作品で、念願だったコンクールに受賞した。
私だけでは無理だった。優太がいてくれたからだったんだよ。
確かに、修正後である今の方が生きやすかった。
適当に謝ったら許されて、言いなりになったら一人にならなくてすんで。無視されることも、悪口を言われることもない。ただ笑ってピエロを演じていたら、それだけで平穏な学校生活を送れていた。これが大人の対応だと思っていた。だけど。
絵を描くことは、私にとっての生きる理由。なのに、それを軽く扱う自分に嫌悪するようになった。
何、笑ってるの? どうして言い返さないの? 悪いことしてないのに、なんで謝ってるの?
十四歳の私から聞こえる心の声は、「私なんか大っ嫌い」、「何、ヘラヘラ笑ってんの? 気持ち悪い」、「もう消えてしまいたい」、という苦しみの言葉ばかりで、どれほど自分に対して憎悪しているのか伝わってくるものばかりだった。
私は、過去の自分の方が好きだった。
闘った末に待っていたのは虚無の世界だったけど、一つだけ私の心に残っていた。自分への思いだ。
私の絵は私が守る。その信念を通し、闘った自分を少しだけ肯定出来て、だからあの夕陽の絵を描けたんだよ。
私が私を少しだけ好きになれたのは、決して屈しなかったから。
そんな私になれたのは、一人じゃないって優太が教えてくれたから。いつもそばにいてくれたから。
今、私が優太に話したことは、どこまでも支離滅裂で、要領を得なくて。私が未来から来ているなんて優太からしたら知るはずもないから、なおさら言っている意味が分からないだろう。
だけど、どうしてなんだろう。話を聞いていた優太の目から一筋の涙が流れていて、どんどんと溢れていく。
思わず手を握りしめるとやっぱり冷たくて、悴んでいて。卒園の時以降に繋いだ手は大きくて、それだけの時間が過ぎていったのだと感じられる。
「花梨……。俺さ、なんか分かんなくて……。時々、お前、誰なんだよ? とか、思うこと……あって……。自分に……」
これが、優太の心にあった叫び。
「って、何言ってるんだよって話だよな。ごめん、意味分かんなくて。俺も、訳わかんなくなってて……」
分かるよ。
大人になった私が、いきなりそんなこと言われても分からなかったと思う。
だけど人生を振り返る中で、この年頃の苦しみを知った。
相手を怒らせないために笑って、集団で馴染むために偽りの自分を作って、本当は傷付いているのに何でもないふうに装う。
そうしていくうちに理想の自分を作り上げてしまって、私はこうゆう性格だったと思い込みながら演じてしまう。
心の中で「この人は誰?」と思っているのに、気付かないフリをしながら。
その違和感を忘れて大人になって、それが本来の自分だと思っていたら苦しいよね?
弱さを出せないのが自分。
我慢するのが自分。
そう思っていたから優太は、私の療養生活支える苦しさを誰にも相談出来ず、一人で背負い込んでしまったんだよね。
そのことに気付けたのは中学生の私に戻れたから。
記憶写真が辛かったあの頃を見せてくれたのは、私にそれを気付かせようとしてくれたからだったんだね。
人生の終わりが見えた時、私はずっと悔いていた。
あの日、優太と再会しなければ良かった。あんな問題ぐらい簡単に解決出来るし、我慢しても良かったって。
だけど振り返ればとにかく苦しい日々で、消えたいと願ってしまったぐらいに私の心は限界を迎えていた。
だって、この先の未来が見えなかったんだから。
過去を振り返れば、辛かった中学時代なんて一瞬だったけど、この時を一生懸命に生きていた私にはこの時が全てだった。
そんな私を支えてくれたのは優太だったのに、再会しなければ良かったなんて思ったりして。
自分の大切なものは、自分じゃないと守れない。
私が私を肯定出来なくて、どうするの。
私は自分の絵の世界を作って、守っていくから。
……髪も、絶対に切らないから。
「優太は一人じゃないよ。おじさんも、おばさんも、澪も、居るじゃない? みんな優太の味方なんだから」
あの時、私が言ってもらいたかった言葉。
優太が側に居てくれて、そう伝えてくれているような気がしていたんだ。
「優太の苦しい気持ちや、悲しい気持ち。言葉にして伝えて良いんだよ。本当の自分を出して良いんだよ。優太が一人で抱えている方が、みんな辛いから」
私の余命宣告を受けて、それでも苦しみを吐き出すことも、涙を見せることもなかった優太。
死が近い私の前で、母を亡くすであろう娘たちの前で、気丈に振舞っていて弱音なんか一言も吐けなかったのだろう。
「……花梨は? 花梨は側に居てくれる?」
「え……?」
私を見つめる目はあまりにも真っ直ぐで、だからこそ胸が締め付けられていく。
「私は……」
私はね、今から十七年後に死ぬ運命なんだよ。だからこそ。
「うん。絶対に優太を一人にしないよ」
悴む手を互いに握り合い、顔を合わせれば泣きながら笑い合っていて、まるで子どもの頃に戻ったみたい。
本当はずっと一緒にいたい。今まで話せなかったこといっぱい話し合って、優太のことを知りたい。
だけど、無理なんだよね。私は優太のこと一人にしてしまうから、だから……。
ピキッ。
今までにない大きな亀裂音が響く中で、プツンと視界の先が真っ暗になった私は、体が裂けるような痛みの中で意識が途絶えていった。



