さよならの記憶写真館

 中学二年生の初夏の日。美術室から逃げ出した私は、祠の前でただ震えていた。
 あの視線が怖くて、あの狭い空間の息苦しさが辛くて、無言の圧力に押し潰されてしまいそうで。
 もう、明日なんて来なければ良いのに。
 ひたすらに願いながら、沈みゆく夕陽から目を逸らし現実逃避していた。

『……花梨?』
 その声に顔を上げると、目の前には学生服を着ている男子が立っていて、男子が苦手な私は一瞬身を引いてしまった。
 だけど私を名前で呼ぶ相手にもう一度だけしっかり眺めると、学生服は袖を折り込まれていてブカブカで、猫っ毛のある髪が柔らかく揺れ、私を真っ直ぐに見つめる柔らかな瞳は変わっていなかった。
 ずっとずっと、会いたかった人。

『ゆ……うた……?』
 咄嗟に出た声は、途切れ途切れで濁っていて、大きく息を吸うふりをして鼻を啜る。
 小学校を卒業して一年。改めて顔を合わせた。

『うん……。久しぶり……だね』
 目に光る涙を見ないようにしてくれているのか、優太は「見て! 今日の夕陽も綺麗だよ」と空を見上げていて、その間に私は制服の袖で、さりげなさを装い涙を拭う。
 
 心の支えだった夕陽はまだそこに居てくれて、私たちを優しく照らしてくれた。

『……もしかしてお母さんから……、何か聞いた?』
『あ……。いや、別に……。たまたま、だよ』
 嘘吐く時は、どこまでも歯切れが悪くなる。
 その声は低く変わっているのに、中身は変わってないな。

『ごめんなさい。優太にまで、迷惑かけたね……』
『何か、あったの?』
 優太の方に顔を向けると、成長によって面長になった顔は大人びていて、大きく丸かった目も柔らかさだけでなく強さを感じ取れる。
 そんな頼り甲斐のある大好きな人に、今の状況を話せたらどれだけ楽か。
 でも鼻がツンと痛くて、目が熱くて、喉がヒリついて。呼吸も鼓動も速くて、声が出せない私は、ただ息を吐くことしか出来なかった。

 助けて、助けて、助けて……。
 心は悲鳴を上げ続けているのに。

『……なんでもないよ。それより早く帰らないと。おばさんにまで迷惑かけちゃう』
 勢いをつけて立ち上がり、スカートに付いた砂をパッと払い、優太に笑顔を向けて、石段に向かって歩き始める。
 学校で使っている、何をされてもへっちゃらな私を演じる笑顔の仮面。
 家に帰ったら構想を盗ったんだって認めて、明日はみんなの前で「ごめんなさい」って謝れば良いんだ。
 これからは由衣の言うこと聞いて怒らせないようにして、ただ笑い続けていれば明日が来ることに怯えなくて済むから。
 私は自分の作品を守ることより、平穏な日常を選んだ。
 どこまでも弱いから、闘う勇気がないから。

『あ、もしもし、母さん? 花梨、見つかったよ。おばさんに安心してって伝えて。それでさ、久しぶりだし少しゆっくり帰って良いかな?』
 え?
 足を止めて振り返ると、優太は携帯でおばさんと話して私にニコッと笑いかけてくれる。
 呆気なく剥がされた仮面の下には、情けないほどに歪んだ私の素顔が晒されていた。

『前にさ、ここからの日暮れを一緒に見ようと話してたの覚えててくれてる?』
『……えっ?』
『あ、いや。いつの話だよって感じだよな?』
 泳ぐ目に、パタパタと動く手。
 本当に変わらないなと、安らぎすら感じてしまう

『大きくなったら一緒に見ようと、私が幼稚園を卒園する時に手を繋ぎながら約束したよね?』
 口元が僅かに緩むも、約束した頃みたいに無邪気に笑えなくて、私はもう本心から笑えなくなってしまったのかもしれない。
 でもね、あの約束を覚えていてくれたことに思わず声が出るぐらいには、私の心はまだ死んでいなくて。凍り付く寸前だった私を救ってくれたのは、優太だった。

『もう俺たち、大きくなったよ。だからさ、見ていこうよ』
 私の手に伸びる優太の手は、影としてしっかり写し出されていて、スッと引っ込めたのも見えてしまった。
 気軽に手を繋いで遊んでいた幼少期とは、もう違う。
 そうゆうことだろう。

『え、でも……』
 五月下旬の日没時間は十九時ぐらいで、さすがにと思ったけど、優太はあの祠に向かって「しばらく居させてください、白猫様」とか手を合わせ始めるし、だから気持ちが楽になって、何を話すわけでもなく一緒に夕陽を眺めていた。
 茜色の夕陽は時折揺れたかと思えば滲んで見え、その景色すら美しいと嘆くほどに夕陽はやはり綺麗で、私はこの風景を一生忘れることはないだろう。

『やっぱり秘密基地からの夕陽は、より綺麗だね』
『……うん、とっても』
 地上で夕陽を眺めていても方角的に住宅地と重なって途中までしか見えないけど、少し高さがあるこの小山からならその先にある湖からの日暮れが見える。
 そんなこと、知らなかったな。

 日が暮れて、夜の帳が下りる頃。
 小山とそこに繋がる石段には街灯がなく、携帯の光を頼りに一段ずつ階段を降りる。
 スッと出してくれた学生服の袖を掴み、二人でゆっくり下ったあの時間。
 二人で並んで歩く、街灯に照らされた夜の道。
 優太はこっちをチラチラ見るけど何も聞いてこなくて、私を家まで送り届けてくれた。
 何も聞かずに。
 だけど私は、ありがとうすら言えなかった。