さよならの記憶写真館

 チリン、チリン。
『時間だニャ』
 その声が聞こえた途端に体がクラっとして、右手に痛みが走る。
 どうやら倒れそうになった体を支えようと反射的に手が伸びたようで、美術室の机に手を付いていた。
 久しぶりに聞くクロちゃんの声と鈴の音に、私はようやく本来の目的を思い起こした。
 あ、そっか。私、そのために戻ってきたんだった。

 ここは盗作の濡れ衣により美術部員全てに敵意を向けられている、中学二年生の五月十二日の放課後。由衣の計らいで、みんなで絵を描くことになっていた。
 刺さる視線、ボソボソと呟かれる陰口、嫌悪を隠しきれていない歪んだ表情。
 過去の私はこの集団の圧に耐えられず美術室から飛び出してあの祠に行ってしまったけど、それは出来ない。
 だって、過去を修正しにここまで来たのだから。

 パチっと瞬きをしたかと思ったら、それを繰り返していて。体が勝手に呼吸をしたらいつの間にか自分のタイミングに合っていて、握っていた鉛筆は私が力を抜いたことにより転がり落ちてしまった。
 いつもは体が勝手に動いてくれるけど今は足が一歩も動かなくて、だけど体が震える感覚は鮮明に伝わってきて、心臓の鼓動が痛いぐらいに鳴り響いていた。

 今まで私は、過去の私目線でこの世界を見ていた。
 視界だって同じだし、音も、匂いも、暑さ寒さも、体と心の痛みさえも共有してきた。
 だけど、今までは関与出来ないのだからどこか他人事で、テレビを越しに自分の人生を見ている、どこか傍観者だった。
 でも、今は違う。
 この刺さるような視線に、窒息しそうな重い空気。
 それは全て私に向けられたもので、それを真正面から受けている。
 こんなの、手が震えるに決まってる。逃げるに決まってる。
 大人になった私ですら、怖いのだから。

 でも私は、ここに居る。過去の人生では美術室を飛び出したことにより顧問の多岐先生が母に連絡して、騒ぎが大きくなってしまったから。
 ……お母さんとお父さんに、心配かけたくなかった。

 由衣に視線を向けると明らかに口元が緩んでいて、ああ、これが本音だったんだなって嫌ってぐらいに伝わってくる。

 ねえ、みんな聞いて! 私は人の構成を盗ることなんかしないよ。
 空はね、私にとっての宝物なの。そんな大切な景色、人の構成を盗るなんて絶対にしない。
 それなら、白紙で出展した方がマシだよ!

 中学生だった時、何度も何度も頭の中で繰り返した言葉。
 お願い、みんな分かって。私はそんな卑怯な人間じゃない。絵を描くことは私の人生そのもの。だって、将来の夢は……。
  そう、叫びたかった。

『花梨、分かってると思うけどニャ』
 ……うん、分かってる。だってこれは、私が修正したいの未練じゃないものね。
 記憶写真には写し出されていないから修正はしてくれず、未来が余計に歪になるかもしれない。
 だから、これは変えてはいけない。どれだけ、理不尽でも。

 ……もう、やだ。
 心の奥から聞こえてくる、悲痛な叫び。
 この声って……。

『十四歳の花梨だニャ。入れ替わりの間、記憶共有が必要だから、意識はあるニャ』
 そう、なんだ。
 てっきり、自分の体が乗っ取られているとパニックになるのを防ぐため、過去の私には眠ってもらってるんだと思ってた。

『それはこっちでなんとかするから、心配しなくて良いからニャア』
 ありがとう。お願いね。
 そう告げ、次は過去の私にそっと語りかける。

 ごめんね、我慢して。
 もうとっくに限界を迎えている心に、そんな残酷なことしか告げられなかった。

 結局、過去の私と同様に、デッサンは出来なかった。
 私自身は、死ぬ三年前までは毎日描いていたし、中学生の自分より描けるのは自負している。
 ……だからこそ分かる。本当に描けないんだ。