昼下がりの店先は、客足が一息ついたところだった。
紬路は一足早く仮絵羽の見本を秋物に差し替えながら、帳場にいる瑠衣へ声を掛けた。
「ねえ、瑠衣。ちょっと折り入って相談があるの」
帳面に筆を走らせていた瑠衣が、ずれた片眼鏡を指先で直しながら顔を上げる。
瑠衣はもともと学者肌できっかり几帳面なところもあり、紬路にはさっぱりわからぬ金の流れも、たちまち呑み込んでしまった。今では帳場のことは殆ど任せきりである。
「支払いの相談でしたら――」
「そういうのではないの。もっと厄介」
紬路は店先に積んであった幾巻もの洋紗の絹綬の端を指先で揃え、乱れた房を撫でつけるふりをした。ついでに暖簾の裾を引き直し、通行人へ聞かせぬよう、声を僅かに落とす。
「佐伯翁にね、貿易の仕入れ先を広げるために、舞踏会に出て欲しいと言われたの」
瑠衣の鉛筆が、帳面の上でぴたりと止まる。
銀縁の片眼鏡の奥で、理知的な目がゆるりと上がった。
「舞踏会?」
「えぇ。渡来の香料や化粧品を扱うのに、異人商館やその奥方との伝手が要るのですって。この程、舞踏会なるものが催されるそうで、華族女子の初披露も今年からは其方になるそうなの」
「なるほどねえ。とても興味深いお話ですわね」
瑠衣は頬杖をついて、面白そうに目を細めた。
高い天井に枝燭台の灯が幾重にも映え、磨き上げられた床には洋靴の踵が軽やかな音を散らす。洋館の大広間を、白い手袋の男たちと踝まで覆う洋礼装の女たちが、音楽に合わせて花のように巡る――舞踏会とはそのような場だ。
「で、断りましたの? 紬路さまはもう社交の場には近付かず、親しいお友達とだけ交際なさるおつもりでしょう?」
「……断れると思う? 御隠居さまと来たら、もう半分決めたようなお顔でいらしたもの」
「紬路さまのご知己の華族令嬢がたも、皆さまご出席なさるのではなくて?」
「えぇ……たぶん、そうでしょうね」
女学校を卒業して以来、紬路の大納言家没落の噂に興じ、口さがない噂を流してきた娘たち。
その顔ぶれとも、再び相まみえることになる。
しかも商談という、彼女たちにとっては賤しく、好奇の目をそそる理由を提げて。
紬路は小さくため息をつき、傍の羽箒を手に取って、棚の端から埃を払い始めた。
「踊りなんて小さい頃、先生に続いて鏡稽古をしたきりだけど、仕入れのためと思うしか……」
紬路は、口にしながら自分で自分を励ましているような気がした。
羽箒を持つ手は、いつしか掃除のそれではなく、舞の所作へとすり替わっている。
右へ、左へ――本来は塵を払うべきところを、妙に優雅に捌いてしまっている。
「瑠衣は、舞踏会の辺りに詳しい筈でしょ」
「その言い方、雑ですわァ。……妾、居留地生まれではございませんのよ」
瑠衣は肩を竦め、仕様がないお嬢様ですわね、といった体で笑った。
「これから度々留守を頼めるかしら? 練習も兼ねて、あまり店に居られなくなりそうなの」
瑠衣は、じっと紬路の言葉に耳を傾けている。
「出席するなら、きちんと踊れないと恥をかくでしょう? ……何だったら、七ツ蔵の番頭か女給を、交代の留守番に回してもいいそうよ」
「全くもって問題ありませんわ」
瑠衣は、ふふと笑いながら、ずれた片眼鏡を指先で直した。
事も無げな口ぶりであり、その顔には、頼られることを満更でもないと思う気配があった。瑠衣は和泉姉妹の母代わりのような存在なのである。
「……どんな踊りをさせられますの?」
「それがね……左回りの円舞曲も念のためって仰って。わたくし、自分向きかどうかすら、さっぱり判りませんの。運動神経は割合悪くないほうと思うけれど」
紬路は今度こそ困ったように眉根を寄せた。
異国の音楽に合わせて人前で回るなど、どうしても現実のこととして思えない。
「ほほほ。紬路さまはきっと、帳簿や洋語より直ぐにご上達なさいますわ」
瑠衣は、笑い飛ばして明るく請け合った。
紬路の手は、尚も思案するように、羽箒を扇に見立てて宙を舞っている。
翌日、六条別邸へは直接、三条の和泉家へ迎えの電気自動車が寄越された。
佐伯翁は本邸を長男に譲り、華族にしては珍しく右京に住まわれていた。
付添役の直橘を伴い、着いて程なく客間へと通される。
障子は外されて広く取られ、畳の上には異国の蓄音機まで据えられていた。
即席の稽古場のようである。
こうして異国の品が置かれていても、翁の屋敷そのものは奥まで全て和式なのだろうと、紬路は思った。
「まあ、可憐なお嬢さま」
紬路を迎えたのは、栗色の髪をきりりと結い上げた異人の女だった。
流暢な言葉で名乗り、裾を乱さぬよう優雅に膝を折るような礼。すらりとした長身に、動きやすそうな洋装がよく似合う。
「舞踏の手ほどきをいたします、よろしくお願いいたします」
いかにも教師らしく、仕草の一つまで無駄なく整っている。
車中で窮屈に思えて外してしまった手袋が、今になって気にかかる。
紬路は思わず背を伸ばした。
「……どうぞ気負わず。最初は立ち方からでございます。拍は洋語で取らせていただいておりますので、ご容赦を」
「えぇ、よろしくお願いします」
紬路は、さすがに拍くらいは覚えている筈よ、と素早く記憶を確認する。
作法を丸きり何も分からぬと思われるのは、異国の階位でいえば伯爵に当たる和泉家の娘として、癪であった。
そのとき、広間の向こうの扉が静かに開いた。
入って来たのは、若い青年だった。
ありふれた黒の燕尾服である筈なのに、不思議と人目を引く。
――否、近付いて来るにつれて、紬路の洗練された目にも畝織は細やかで、下襟の張りも申し分のない仕立てだと判った。
その歩みは悠然として一分の隙もなく、磨き上げられた板敷の廊下に落ちる足音まで美しいと思えるほど、身のこなしが研ぎ澄まされている。
紬路は思わず、袖口から白い手袋の端までを目で追った。どこかで見たような気もするのに直ぐには思い出せない。
ただ、こういう男は市井には滅多に居ない――それだけは、はっきりと判る。
舞踏の教師は微笑み、青年を振り返った。
「練習のお相手を務めてくださいます方です。男性パートの方が必要ですからね。とてもお上手よ、ご安心なさって」
青年は何も言わず、ただ唇を引き結んで目を離さず一礼した。
その仕草があまりにも端正で、紬路は慌てて軽く伏礼を返す。
女学校で礼法を習って以来のことだったが、意外にも身体はまだ覚えていた。
「……どこかでお会いしたかしら?」
彼は、ほんの少し眉を下げた。
端正な顔立ちだけに、その変化は妙に痛々しく映る。
――覚えられていて当然と信じていた者が、不意に足を取られた。そんな小さな綻びに見えた。
「あなたに覚えていただけなかったのですね」
如何にも傷ついたように言ってみせてから、直ぐに気を取り直したように口許を緩める。
だが、その笑みは一拍遅れた。
作られたものだと、紬路にも知れた。
紬路は心の内で、そっと首を傾げる。
この青年に、そこまでの自負を抱かせる覚えはない。
すると次の瞬間、何か無邪気な悪巧みか仕返しでも思いついたように、その面差しがふっと華やいだ。
「あなたの五ツ蔵の、つつ屋ですよ」
静かに告げられた屋号に、間が落ちる。
紬路にとって贔屓筋の客の名は忘れてよいものではい。
本当にお客様だったかしら、まさかそんな筈は――。
「お名前は?」
青年は虚を突かれたように、ほんの一拍だけ間を置いた。
「東……東風」
「変わったお名前ですのね。覚えていない筈はないのに」
「名乗りませんでしたから」
思わずそのまま口にしてから、少し不用意だったかしらと紬路は反省する。
相手の非をなぞるような言い方は、本来ならば避けるべきだ。
けれど青年は気を悪くした風もなく、むしろ可笑しそうに目を細めた。
咎めるでもなく、ただその無遠慮さを面白がるように。
「額が足りなかったのかな」
「額?」
突然、別の話題に変えられて、紬路は戸惑った。
「店で使った額です。……あれでは、あなたの記憶に残るには足りなかったのでしょう」
先程から一寸した揶揄いを思いついたような気配さえある。さらりとした言い様で、不思議と無礼には聞こえなかった。
しかし、身のこなしの端々に隠しようのない何かを滲ませているのは確実だ。
「覚えていただくために、もっと通いましょう」
そう言うなり、青年は紬路の剥きだしの手を取った。
あまりに自然な所作で、引く間もない。
いつの間にか青年も白い手袋を外していたらしい。
触れた指先はひやりとして――それが、じわりと熱を帯びてゆく。指の腹が、確かめるように僅かに動く。
逃がさぬでもなく、けれど離しもせぬ。
その曖昧な触れ方に、紬路の呼吸が一拍遅れた。
そのまま手は、つと目の高さまで持ち上げられる。
瞬間、――甲へ口づけられる、と紬路は身を強張らせた。
けれど彼の唇は触れる寸前で留まり、ほんの少し温かい吐息だけが密やかに落ちた。
「……っ」
「いずれ、あなたに太客と言わせてみせますよ」
紬路は息を呑んだ。
こんな風に手を取られるのも、まして口づけの振りを受けるのも初めてで、舞踏会の心配など、一瞬で何処かへ飛んでしまった。


