文子の話を要すれば、こうだ。
紬路たちが女学校を卒業した頃、宮中は御代替わりの繁忙に追われていた。
文子の父は、民部省筋の参議であり、財の流れや商家との折衝へ目を配る職務にあったが、娘の評判を聞きつけて非公式に頼まれたようだ。
人事も改まる混乱の中で、文子はそうして駆り出された。
新帝が御即位あそばされる祝いに添える辻占。
あるいは、凶を早めに避けるための備え。
その程度の目配りの筈だった。
だが、新帝の御代の相の中に、ある筈のないものが混じった。
紬路の相がほんの少し観えたのである。
それは文子にとっても、驚愕以外の何物でもなかったらしい。
今、三人は蘭に鍵を借り、七ツ純喫茶の二階へ移っていた。
下は昼食繁忙時間に差しかかっている。
客の笑い騒めきも、猫耳の女給たちが立ち働く気配も、次第に慌ただしさを増し、外席で込み入った話を続けるには不向きだったのだ。
「いい? 観えた処までを言うから、忘れないように書き留めて」
「はーい!」
文子の声には、僅かな硬さがあった。
対する志乃は、文机の前でいそいそと手帳を開いている。
表紙の題箋には、いつの間に書いたのか「破滅回避覚書」とあった。
紬路は、何とも言えない顔でそれを見た。
志乃の筆跡だけが、やけに勢いよく跳ねている。
「……その題は何なの」
「大事なことは題からでしょ!」
志乃が鉛筆を立てるように握り直す。
文子は言いたいことを呑み込むように、ひとつ瞬いた。
「――その前に、まず前提を揃えるわね」
無理に正さないあたり、志乃の扱いに慣れている。
小さく息を整え、文子は紬路へ向き直った。
「新帝がまだ東宮でいらした頃から添われていた方は、践祚と共に一の位の女御さまとなられた。つまり、皇后さまよ。此処まで、いい?」
「うん。例によって、また右大臣家よね」
志乃が鉛筆を掲げ、弾むように応じる。
文子は順を追うように、静かに頷いた。
右大臣家は、前の帝と今上、その両方の外戚である。
けれど、いずれの御代にも生まれたのは姫宮ばかりだった。
男子に恵まれぬことは、右大臣家にとって積年の憂いである。
その上、三代続けて后を出すとなれば、さすがに外聞も悪い。
左大臣家にも内大臣家にも姫はなく、各摂家にも、それぞれ東宮妃を早々に立后させられぬ事情があった。
「少し前に、新帝の典侍の席は埋まってしまったのよ」
尚侍と典侍は、帝の御前に最も近く仕える女官である。
御璽や文書、伝達を扱い、その言葉一つが政に触れる。
ただの女官ではなく、家柄と才覚、そして帝の信がなければ就けぬ高位の席だった。
「これで新帝の典侍も、女御さま方の座も、有力な姫君たちに占められた。殆ど右大臣家にね。……けれど、かつて観た折には」
文子はそこで一度言葉を切り、紬路の方を見た。
「紬路。そこは、あなたの席だったの」
文子の声には情を挟まず、目の前の事実だけを選び取る怜悧な響きがあった。
「うん。昼の内廷に仕える姫と、夜の御帳台に召される姫。紬路は昼の方だったってことよね」
昼の姫。
夜の姫。
志乃は殊もなげに言った。
今は、紬路自身の行く末に関わる話である。
いくら親しい友人の言葉でも、聞き流すには生々しかった。
紬路は黙ったまま、志乃の二の腕へそっと触れる。
それ以上は言わないで、と。
言葉にせずとも伝わったらしい。
「あー……紅茶、頼んでくる! 三人分!」
そう言うなり、志乃は階下へ駆けて行ってしまった。
残された気まずさだけが、二階の部屋に薄く漂う。
「……もう。些とも令嬢らしくないんだから。言い様というものがあるわ」
文子は階段の方を見やり、呆れたように息を吐いた。
その声に本気で咎める響きはない。
紬路たちが女学校を卒業した頃、宮中は御代替わりの繁忙に追われていた。
文子の父は、民部省筋の参議であり、財の流れや商家との折衝へ目を配る職務にあったが、娘の評判を聞きつけて非公式に頼まれたようだ。
人事も改まる混乱の中で、文子はそうして駆り出された。
新帝が御即位あそばされる祝いに添える辻占。
あるいは、凶を早めに避けるための備え。
その程度の目配りの筈だった。
だが、新帝の御代の相の中に、ある筈のないものが混じった。
紬路の相がほんの少し観えたのである。
それは文子にとっても、驚愕以外の何物でもなかったらしい。
今、三人は蘭に鍵を借り、七ツ純喫茶の二階へ移っていた。
下は昼食繁忙時間に差しかかっている。
客の笑い騒めきも、猫耳の女給たちが立ち働く気配も、次第に慌ただしさを増し、外席で込み入った話を続けるには不向きだったのだ。
「いい? 観えた処までを言うから、忘れないように書き留めて」
「はーい!」
文子の声には、僅かな硬さがあった。
対する志乃は、文机の前でいそいそと手帳を開いている。
表紙の題箋には、いつの間に書いたのか「破滅回避覚書」とあった。
紬路は、何とも言えない顔でそれを見た。
志乃の筆跡だけが、やけに勢いよく跳ねている。
「……その題は何なの」
「大事なことは題からでしょ!」
志乃が鉛筆を立てるように握り直す。
文子は言いたいことを呑み込むように、ひとつ瞬いた。
「――その前に、まず前提を揃えるわね」
無理に正さないあたり、志乃の扱いに慣れている。
小さく息を整え、文子は紬路へ向き直った。
「新帝がまだ東宮でいらした頃から添われていた方は、践祚と共に一の位の女御さまとなられた。つまり、皇后さまよ。此処まで、いい?」
「うん。例によって、また右大臣家よね」
志乃が鉛筆を掲げ、弾むように応じる。
文子は順を追うように、静かに頷いた。
右大臣家は、前の帝と今上、その両方の外戚である。
けれど、いずれの御代にも生まれたのは姫宮ばかりだった。
男子に恵まれぬことは、右大臣家にとって積年の憂いである。
その上、三代続けて后を出すとなれば、さすがに外聞も悪い。
左大臣家にも内大臣家にも姫はなく、各摂家にも、それぞれ東宮妃を早々に立后させられぬ事情があった。
「少し前に、新帝の典侍の席は埋まってしまったのよ」
尚侍と典侍は、帝の御前に最も近く仕える女官である。
御璽や文書、伝達を扱い、その言葉一つが政に触れる。
ただの女官ではなく、家柄と才覚、そして帝の信がなければ就けぬ高位の席だった。
「これで新帝の典侍も、女御さま方の座も、有力な姫君たちに占められた。殆ど右大臣家にね。……けれど、かつて観た折には」
文子はそこで一度言葉を切り、紬路の方を見た。
「紬路。そこは、あなたの席だったの」
文子の声には情を挟まず、目の前の事実だけを選び取る怜悧な響きがあった。
「うん。昼の内廷に仕える姫と、夜の御帳台に召される姫。紬路は昼の方だったってことよね」
昼の姫。
夜の姫。
志乃は殊もなげに言った。
今は、紬路自身の行く末に関わる話である。
いくら親しい友人の言葉でも、聞き流すには生々しかった。
紬路は黙ったまま、志乃の二の腕へそっと触れる。
それ以上は言わないで、と。
言葉にせずとも伝わったらしい。
「あー……紅茶、頼んでくる! 三人分!」
そう言うなり、志乃は階下へ駆けて行ってしまった。
残された気まずさだけが、二階の部屋に薄く漂う。
「……もう。些とも令嬢らしくないんだから。言い様というものがあるわ」
文子は階段の方を見やり、呆れたように息を吐いた。
その声に本気で咎める響きはない。



