その日、紬路は畳紙を検品しながら、行き交う女たちの帯や髪飾りに、以前よりもあからさまな流行の匂いが混じるのを感じていた。
女も職を持ち、日に日に装いを華やかにしていく。
華族令嬢の生まれでなくとも、買い物を楽しむ者は増えていた。
これが右京が体現する時代の変遷ですのね――と、紬路は思う。
だが、ふと、誰かに見られているような気がして、紬路は顔を上げた。
途切れた客足の向こうから、喉の奥で転がすような笑いが届く。
「まあァ。やっぱり、あなたでしたのね」
立っていた人物を見て、紬路の指先が止まった。
撫子だった。女学校時代の同級だが、仲は良くない。
撫子は帯揚げや襦袢にまで透け感のあるからみ織を重ね、白藍の絽の着物を涼しげに纏っていた。地には小さな撫子と桔梗が白く散り、襟の刺繍半襟から逆山形の玉の肌が覗いている。
夏帯は銀糸を織り込んだ淡い鼠色で、帯留めには小さな白蝶貝が綺羅めいていた。
いかにも上等な品で全身を包んでいる。
その後ろには取り巻きらしい娘が二人、持扇を口許へ当てて立っている。うっすら笑みを浮かべているのに、目にはまるで生気がない。
撫子が身じろぐ度、糸で引かれるように僅かに首を巡らせるさまは、どう見ても尋常ではなかった。
だが、その中心に立つ撫子の笑みもまた、どこか張りついて見えた。
娘たちの目が自分から逸れぬか、呼吸のような間まで揃そろっているか――そんなこと許りを無意識に確認しているような目つきだった。
「お久しゅうございますわね、紬路さん」
口ではそう言いながら、目には再会の喜びなど一欠けらもない。
値踏みする翳りばかりが、薄く、冷たく乗っている。
洋装であることが、急に悔やまれた。
正式な和装であれば、今、この都に紬路の右に出る者は居ない筈なのに。
「……撫子さん。右京へいらっしゃるとは存じませんでした」
「ええ、近頃この辺りが面白いと聞きましたの。蔵屋敷街も、随分様変わりしたのでしょう? 商人と奉公人ばかりの住む湿地と聞いていたのに、今ではまるで見世物小屋のようですのね」
女学校時代の同級の誰かから、漏れ聞いて来たに違いない。
くす、と撫子が笑う。
すると、背後に控えていた娘たちまでが、魅入られたように口元を綻ばせた。
同じ拍子、同じ角度、同じような愉悦。
ぞっとするほど、操り人形じみている。
「聖なる乙姫の撫子さまが、わざわざお越し下さったのよ」
取り巻きの一人が告げた。
しかし、その言いぶりは称揚の形を取りながら、どこか中身が空ろだった。
「罪人の娘が開く見世蔵にまで」
別の娘が続けた。
言葉の毒に比べて、表情だけが妙に晴れやかだった。
自分の意志で口にしているのではなく、ただ撫子の機嫌に沿うように言葉を並べているだけに見える。
「ありがたく思うべきよね」
二人は、同じ拍子で言葉を重ねた。
笑みの角度まで揃っている様子が人形じみて気味が悪い。
悪意があるのか、ただ撫子の望む形をなぞっているのか。
紬路はしかし、黙っていることにした。
ここで言い返せば、相手は待っていましたとばかりに騒ぎ立てるだろう。
店先で揉め事を起こすわけにはいかない。この場で守るべきものは、自分の面目ではなく、店そのものだった。
撫子はそんな紬路の沈黙を、尚更愉快そうに眺めた。
「でも、成程と思いましたわ。華族の娘が店先に立つというなら、皆さま見にいらっしゃる筈ですもの。ふふ」
「……何をおっしゃりたいの」
「あら、別段大したことでは。……珍しいことですわね、と申し上げているだけですわ」
撫子はそう言って、店先に置かれた紅差しの箱へ指先を伸ばした。
しかし、触れる間際になって汚れものにでも触れる危機とでもいうように、さっと手を引く。その躊躇いは、いかにも作りものめいた演技に見えた。
男の目を惹くための棒紅を扱うこの店ごと、紬路までをも下賤な商いに身を置く女と実演しているのだ。
「かつては東宮妃候補とまで言われた娘が、今はこうして人目に晒されている。……皆さまがお話の種になさっている訳ですわねえ」
言うなり、大仰に持扇を広げてみせる。
わざと含みを持たせた言い方で、誰か伝えに聞いて出向いたと匂わせているのだ。
紬路の内側で、冷たいものがきゅっと縮む。
だが、指先は反物の上に置いたまま、動かさなかった。
扇とは、本来、やんごとない姫君の姿をむやみに人目へ触れさせぬためのもの。
御簾も几帳も屏風も、みな同じである。
その当て擦りを、紬路が解さぬはずもなかった。
女学校の頃、紬路にそうした噂があったことは確かだ。
家格、血筋、他の縁談の筋――そうしたものを並べ立てて。
だが、それも今となっては遠い話だ。
かつては誇りであった筈の記憶が、今の紬路には、思い出す度に胸へ引っかかる小さな棘となっていた。
桜花の宴のことなど、もう志乃と文子の前で耳にするのも厭わしい。
それでも華族令嬢の矜持として、親友にも姉にも悟られぬよう顔色一つ変えずに来たのだ。
――撫子などの前で、表情一つ崩してやるものか。
だが、紬路は沈黙する外はなかった。
それを見て、撫子は我が意を得たりとばかりに目を細める。
「お気の毒ですこと。高い処へ上がりかけた方ほど、落っこちるとよく目立ちますのねえ」
「撫子さん」
紬路は低く言うも、撫子が止める気配はない。
調子づいたと見え、畳みかけるように続ける。
「卑賤な町の人々にまで頭を下げお気に召すよう、愛想を尽くして暮らしておいでなのかしら。お可哀想に。あァ、判りましたわ! お父さまが罷免なされて、お家が破産しておしまいになりましたのね!? ……それとも、特別な異能もないし、お姉さまに追い出されてしまったの?」
見世蔵には居住できるよう最初から設計されたものが多いのは確かだ。
付き従う娘たちは、言葉もなく肩を寄せ合った。
うっとりとした面差しのまま撫子が次に何を望むのか、扇の上から目だけを覗かせて待っている。
「ねえ、紬路さん。こうして店先に立って、見知らぬ殿方のお相手までなさるのでしょう? 女が品を見せて、お声をかけて、にこやかに笑って。人目を惹いて、その心を留め、お金をいただくのですもの。……何が違うのかしら。親元から離れ、上がればお部屋もあるみたいですし…」
後ろの娘たちが、まあァ、と芝居がかって目を見開く。
その反応まで、初めから演出が用意されていたように見えた。
撫子は扇を唇へ当てたまま、ひどく美しく微笑した。
「そのうち、春を販ぐことにも慣れておしまいになるのかしらね。――かつては東宮さまのお相手とも目されていた方なのにねえ」
通りの騒めきが急に遠のいた気がした。
東宮は、春宮とも書く。
侮辱としてあまりにも不敬で露骨な仄めかしだった。
紬路の頬から血の気が引く。
しかも店先で、往来に面した場所で言い返せない立場の紬路に対し、平然とそれを口にする下劣さに、怒りさえすぐには追いつかない。そうでなければ、こんな悪趣味な女に――
撫子は、勝ったと思ったのだろう。
紬路が立ち尽くすのを見て、一層優雅に首を傾げた。
「厭ですわ、そんな顔をなさらないで。わたくし、心配して差し上げているのよ。――女が家の外で身を立てようとすると、その方面しかありませんものね。皆さん、そう勘繰っていらっしゃるのよ。それを、教えて差し上げただけなの」
その瞬間、紬路の内側で、何かが音を立てて破れた。
異能を目方に量られて家へ入るだけの女が、何を言う。
嫁ぐという名目で家から家へ差し出されるのと、どれほど違うというの。
それは本当に自分の意思で切り拓いて選び取ったものか。
――冷たい怒りだった。
「お引き取りください」
自分でも驚くほど、整った言葉だった。
撫子が目を瞬く。
「まあァ、怖い」
「ここは店先です。お買い物でないなら、他のお客様のご迷惑になります」
「……わたくしに指図なさるの」
「えぇ。お客さまではありませんもの」
言い切った瞬間、取り巻きたちの笑みが揃って固まった。
撫子の扇だけが、唇の前でぴたりと止まる。
華族令嬢としてではない。
この店を預かる者として、紬路はそこに立っていた。
屈辱を受ける謂れはない。
厭味の応酬など、殊更に不得手という訳でもない。
女学校で鍛えられ、やろうと思えばいくらでもできた。
ただ、店先だった、それだけのことだ。
道ゆく往来には客の目があり、品物があり、つつ屋の名がある。
それだけのことで、紬路は言葉を呑んでいた。
「お金がないって不幸ね。どなたか賤しい商人の、お妾にでもなられたの? こんな店を与えられるなんて。三条のお屋敷とは随分と離れて囲われていらっしゃるのね」
「わたくしはただ、此処で働いておりますから…帰ってよ」
撫子の眉がぴくりと動く。
働く、という言葉は、華族の娘が決して自ら口にするものではなかった。
「商いは、見世物ではございません。まして、あなたの仰るような者と一緒にされる筋合いもないわ」
「……っ」
「品を人に渡し、その対価を頂く。名を懸けて、責めを負って、それで漸く成る仕事です。――ご存じないなら踏みにじらないで」
撫子の顔から笑みが薄れた。
取り巻きたちの表情も、判子を押したように揃って無表情の能面を貼り付け、動きを失っている。
「お帰りください。あなたは品を見に来たのではなく、人を傷つけに来ただけです」
紬路は更に一歩も引かなかった。
沈黙が落ちる。
暫くの間、誰も口を開かなかった。
やがて撫子は、背後の者へわずかに顎を引いて合図を送る。
「……まあ、そろそろ失礼いたしますわ。これ以上長居しては、鄙女の感覚が移りそうですもの」
去り際の撫子は、言葉ほどには悠然としていなかった。
最後に此方へ向けた一瞥だけ、妙に鋭く、怯えたものを含んでいた。
まるで、自分の方こそ何か見抜かれたのではないかと疑っているように。
紬路は、疲れて芯の痺れた頭でその場に立ち尽くしていた。
何も考えず、ただ時間だけが過ぎていく。
と、往来の向こうで車夫の声がし、何処かの店から硝子戸の閉まる音がした。
もう店じまいの刻限なのだろう。
此れに託つけて、今日は店を閉めてしまおうかと考える。
その見世蔵の脇、立てかけた戸の陰に、一人、黙したまま成り行きを見つめていた男がいた。
ただの通りすがりとは思えぬ、身分ある風情である。
人目を避けるように身を置くことはできても、一度見付かってしまえば、その立ち姿から滲む気配までは隠しようがない。


