このまま和泉邸に籠もっていても、行く末など高が知れている。
行かず後家になるか、誰かの側室になるのが関の山だ。
父の官位に引き上げられる当てもない。
華族の娘なら持つ筈の異能もない。
そんな娘のもとへ、まともな婿が望んで来よう筈もなかった。
「いやいや待って。ていうか此処、霊的にも強いからね? 流れがあるの。良縁を引き寄せるっていうか」
「志乃。今は、其処じゃない」
好きな事柄となると、志乃はすぐ早口になる。
今も言い足りない顔で、次の言葉を探していた。
「流れ……ね」
文子は、言葉の置き場所を探すように視線を伏せる。
その睫毛の陰には、早くから何かを察していた者の翳りがあった。
言うべきか、伏せるべきか。
その境にある躊躇いだ。
「……紬路」
顔を上げた友人の目に、もう迷いはなかった。
口にすれば紬路を傷付けるかもしれないとしても。
けれど紬路もまた、それを最初から望んでいたのかもしれない。
ただ慰めて欲しくて、今日の席を設けたのではない。
誰かに、自分の置かれている窮状を話したかったのだ。
「自分が今、何から外れているのか――判ってる?」
咄嗟には返事ができなかった。
外れている。
その言葉が、思いの外、深く刺さった。
選ばれない、ではない。
届かない、でもない。
初めからそこにある枠の外へ、押し出されている。
そう言われたような気がした。
「新帝の尚侍という席はね、あなたを守る枠でもあったの」
「えっ、何それ何それ」
文子が言い渋ったものを、志乃は怪異譚の入り口でも見つけたように受け取った。
壊れやすい紅茶の茶器が下にあるのも忘れ、再びきらきらした目で身を乗り出す。
卓子が、きしりと鳴った。
文子はこめかみに指を添える。
志乃は昔から、怖ろしいものほど目を輝かせて踏み込む娘なのである。
「紬路、あなたはお父さまが位を進められて、新帝の尚侍になる筈だったの」
文子の声は淡々としていた。
けれどその淡白さが、却ってありがたい。
冷静に分析してご披露してもらいたいくらいだ。
「大納言さまに何があったのかは判らない。けれど後ろ盾を失って、猶も悠長に流れを見るなどと言っているなら――」
そこで、文子は言葉を切った。
紅茶の色も、往来の騒めきも、一瞬だけ遠ざかったように思えた。
次に置かれる一言だけは、聞き流してはならない。
文子の目が、そう告げていた。
「そのままだと、紬路。あなた、――破滅するわよ」
いつもと変わらぬ調子だった。
脅しでも、誇張でもない。
ただ、そうなると見えている者の言い方だった。
重い沈黙が落ちる。
返す言葉を探すほど、破滅という一語だけが、紬路の前で輪郭を増していった。
文子の異能は、洞見。
つまり先読みである。
異能は擾りに明かすものではない。
けれど女学校の数年を共に過ごせば、隠しきれない噂というものもある。
誰それの異能は此れだ。
誰それの家が傾きかけている。
あの縁談は、相手方が難色を示している。
そうした人目を憚る話ほど、若い娘たちの耳はよく拾った。
「……は、破滅ぅ? 何それ、貸本の読みすぎィ!?」
志乃の驚いた声が、場の重さから完全に浮いていた。
衝撃すら軽口に変えてしまうその調子を聞きながら、紬路は破滅という一語を噛み締める。
破滅とは、何か。
血統継承を貴ぶ、厳格な外つ国の物語によく出て来る筋書きだ。
貴族令嬢が純潔ではないと疑われること。
身持ちに瑕があると、後ろ指を指されること。
それは、血統の保全に差し障る娘という烙印だった。
性的に奔放な令嬢という悪名を負えば、社交界では亡き者として扱われる。
物語の中では、何度も読んだ言葉だった。
けれど今は、それが自分の足許にまで近付いて来ている。
今は、僅かな瑕さえ命取りだ。
誰かの口に上った時点で、それはもう事実のように扱われてしまう。
違うと叫んだところで、噂を打ち消せる政治的な後ろ盾が失われているからだ。
「お代わり、お待たせ致しました」
そこへ注文していた紅茶が運ばれて来た。
猫耳の女給が、三つの茶器を卓子へ並べる。
甘い茶葉の香りが、重くなりかけた話の上へ仄かに広がった。
志乃は待ってましたとばかりに茶器を引き寄せた。
受け皿が、かちりと鳴る。
その小さな音が、不吉な合図のように紬路の耳へ残った。
紬路は湯気の向こうで、自分の紅茶を見つめる。
「あれか! 側室いっぱい持たれちゃうってやつ!! うん、それは……不幸だわッ」
恥も、失敗も、妙な噂も。
志乃なら笑い飛ばし、面白がり、次の話の種にしてしまう。
それは無神経なのではなく、一つの強さかもしれない。
志乃なら、誰にどう噂されようと、きっと生きていけるのだろう。
紬路は、どこか遠くそう思った。
けれど、わたくしは違う。
笑い飛ばせない。
面白がれない。
噂を噂のまま、次の話の種になどできない。
親友たちの前でさえ、表情を保つだけで精いっぱいだった。
まだ、そんな風に飄々とは生きられない。
行かず後家になるか、誰かの側室になるのが関の山だ。
父の官位に引き上げられる当てもない。
華族の娘なら持つ筈の異能もない。
そんな娘のもとへ、まともな婿が望んで来よう筈もなかった。
「いやいや待って。ていうか此処、霊的にも強いからね? 流れがあるの。良縁を引き寄せるっていうか」
「志乃。今は、其処じゃない」
好きな事柄となると、志乃はすぐ早口になる。
今も言い足りない顔で、次の言葉を探していた。
「流れ……ね」
文子は、言葉の置き場所を探すように視線を伏せる。
その睫毛の陰には、早くから何かを察していた者の翳りがあった。
言うべきか、伏せるべきか。
その境にある躊躇いだ。
「……紬路」
顔を上げた友人の目に、もう迷いはなかった。
口にすれば紬路を傷付けるかもしれないとしても。
けれど紬路もまた、それを最初から望んでいたのかもしれない。
ただ慰めて欲しくて、今日の席を設けたのではない。
誰かに、自分の置かれている窮状を話したかったのだ。
「自分が今、何から外れているのか――判ってる?」
咄嗟には返事ができなかった。
外れている。
その言葉が、思いの外、深く刺さった。
選ばれない、ではない。
届かない、でもない。
初めからそこにある枠の外へ、押し出されている。
そう言われたような気がした。
「新帝の尚侍という席はね、あなたを守る枠でもあったの」
「えっ、何それ何それ」
文子が言い渋ったものを、志乃は怪異譚の入り口でも見つけたように受け取った。
壊れやすい紅茶の茶器が下にあるのも忘れ、再びきらきらした目で身を乗り出す。
卓子が、きしりと鳴った。
文子はこめかみに指を添える。
志乃は昔から、怖ろしいものほど目を輝かせて踏み込む娘なのである。
「紬路、あなたはお父さまが位を進められて、新帝の尚侍になる筈だったの」
文子の声は淡々としていた。
けれどその淡白さが、却ってありがたい。
冷静に分析してご披露してもらいたいくらいだ。
「大納言さまに何があったのかは判らない。けれど後ろ盾を失って、猶も悠長に流れを見るなどと言っているなら――」
そこで、文子は言葉を切った。
紅茶の色も、往来の騒めきも、一瞬だけ遠ざかったように思えた。
次に置かれる一言だけは、聞き流してはならない。
文子の目が、そう告げていた。
「そのままだと、紬路。あなた、――破滅するわよ」
いつもと変わらぬ調子だった。
脅しでも、誇張でもない。
ただ、そうなると見えている者の言い方だった。
重い沈黙が落ちる。
返す言葉を探すほど、破滅という一語だけが、紬路の前で輪郭を増していった。
文子の異能は、洞見。
つまり先読みである。
異能は擾りに明かすものではない。
けれど女学校の数年を共に過ごせば、隠しきれない噂というものもある。
誰それの異能は此れだ。
誰それの家が傾きかけている。
あの縁談は、相手方が難色を示している。
そうした人目を憚る話ほど、若い娘たちの耳はよく拾った。
「……は、破滅ぅ? 何それ、貸本の読みすぎィ!?」
志乃の驚いた声が、場の重さから完全に浮いていた。
衝撃すら軽口に変えてしまうその調子を聞きながら、紬路は破滅という一語を噛み締める。
破滅とは、何か。
血統継承を貴ぶ、厳格な外つ国の物語によく出て来る筋書きだ。
貴族令嬢が純潔ではないと疑われること。
身持ちに瑕があると、後ろ指を指されること。
それは、血統の保全に差し障る娘という烙印だった。
性的に奔放な令嬢という悪名を負えば、社交界では亡き者として扱われる。
物語の中では、何度も読んだ言葉だった。
けれど今は、それが自分の足許にまで近付いて来ている。
今は、僅かな瑕さえ命取りだ。
誰かの口に上った時点で、それはもう事実のように扱われてしまう。
違うと叫んだところで、噂を打ち消せる政治的な後ろ盾が失われているからだ。
「お代わり、お待たせ致しました」
そこへ注文していた紅茶が運ばれて来た。
猫耳の女給が、三つの茶器を卓子へ並べる。
甘い茶葉の香りが、重くなりかけた話の上へ仄かに広がった。
志乃は待ってましたとばかりに茶器を引き寄せた。
受け皿が、かちりと鳴る。
その小さな音が、不吉な合図のように紬路の耳へ残った。
紬路は湯気の向こうで、自分の紅茶を見つめる。
「あれか! 側室いっぱい持たれちゃうってやつ!! うん、それは……不幸だわッ」
恥も、失敗も、妙な噂も。
志乃なら笑い飛ばし、面白がり、次の話の種にしてしまう。
それは無神経なのではなく、一つの強さかもしれない。
志乃なら、誰にどう噂されようと、きっと生きていけるのだろう。
紬路は、どこか遠くそう思った。
けれど、わたくしは違う。
笑い飛ばせない。
面白がれない。
噂を噂のまま、次の話の種になどできない。
親友たちの前でさえ、表情を保つだけで精いっぱいだった。
まだ、そんな風に飄々とは生きられない。



