その老人は、佐伯の御隠居こと、佐伯翁であった。
紬路が、生地の良し悪しはもとより、客を惹く色、売れる品と店の看板になる品との違いまで、まるで初めから知っていたかのように言い当てるのを、佐伯翁はいたく面白がった。
そして五ツ蔵の一つを改め、仮絵羽の見本と反物を並べ、見立てから仕立てまで請ける店を始めようと言い出したのである。
もともと所蔵の品を直に売り出しているのだから、そこに専門家が常に詰めているとなれば、尚申し分がない。
そうして、目利きは紬路、采配は佐伯家という話が、とんとん拍子に纏まってしまった。
「和泉の姫さま。屋号はどうされるか」
「御隠居のお店ですもの。わたくしには……」
「名は大事ですぞ。名で人を呼び、名で人を留める。姫もまた、その名に愛着を持つ。そうなれば、いよいよ身も入る。商売とは、そういうものです」
そう言いながら、佐伯翁は積まれた反物の端を指先で叩いた。
「そもそも、反物というのは面白いものでしてな。巻いておるうちは、みな筒のようなものだ」
「……筒」
紬路が鸚鵡返しにすると、翁はにやりと笑う。
「左様。紬路姫の『つつ』でもあり、反物の筒でもある。ならば、いっそ――」
翁は帳場の紙片を一つ引き寄せ、筆を走らせた。
昔風ながら見事な手跡が、さらさらと流れるように二文字を置く。
――つつ屋、とある。
かくて五ツ蔵は、新たに呉服店『つつ屋』として暖簾を上げる運びとなったのである。
つつ屋には、鉋で削り立ての真新しい木の匂いが、まだ仄かに漂っていた。
新しく据えた箪笥の抽斗には反物が整然と収められ、客は実物の絹を手に取り、開きながら仕立ての向き不向きや合わせる帯のこと、裏地や八掛の色まで、思い思いに注文を口にする。
十二単の襲色目を踏まえて、仕立ての隅々にまで心を配って考案して来た紬路である。どのような趣向の創作和装を求められようと、即座に応じることができた。
其ればかりか、客の肌の色や髪質の艶、眸の明るさまで見て取り、客に一番顔映りのよい色を選び出すことにも長けていた。
「瑠衣、それは少しばかり、人目を浚いすぎではなくて?」
紬路は帳場から身を乗り出して言った。
店の正面、通りへ向けた衣桁に、深縹の着物が掛けられている。
しかも、それを掛けている当人がまた、輪をかけて人目を引いた。
「まあ、何を仰るのよ、紬路さま」
「だって、あなたの趣味全開じゃない」
瑠衣は、するりと振り返った。
異国の血を引く面差しに、白粉を淡くはたき、紅をひいた口許に、殊更に目立つ片眼鏡。
男とも女ともつかぬその姿は、見慣れればこそ店にも馴染むが、初めて見れば十人中九人は二度見するに違いない。
瑠衣は元は和泉家の家庭教師だったのだが、姉の縁談が調ってからは直橘と同じく紬路預かりの食客となっている者である。
「目立ってこそ店頭でございましょう? この瑠璃が一等映えますもの」
「そこは否定しないけれど」
「なさいませよ。もし紬路さまがお気に召さないのでしたら」
「――いえ、やはり否定しないでおくわ。衣桁の肩に渡す帯と帯留めを考えて、……そうね模造真珠はどうかしら」
紬路は近寄って、衣桁の前で足を止めた。
深縹、あるいは瑠璃色とでもいうべき地に、裾へかけて薄くなるように銀鼠が溶けている。柄は殆どない。
星のように散りばめられた銀鼠の色の変遷を愉しむ着物だが、その潔さがかえって色を立てていた。そこへ丸い艶を帯びた真珠を添えれば、深縹の青に、立体的な白の明るさがきっぱりと立つ。
近頃は、思い思いの創作着物や伊達衿は勿論のこと、絹綬に美綬をあしらった半襟などといった、新しい意匠を添えた品がよく売れる。その個性を際立たせる趣向は、若い紬路の感覚にこそ、ぴたりと合っていた。
「……でも、これを一番前へ出すのは賭けだわ」
「賭けでなくて、勝ち筋ですわ。遠目には色しか見えませんもの」
「派手が過ぎると物怖じする客もいると思うけれど」
「奥の小紋も見える位置に直しましょうか。足を止める方のいらっしゃることが大切です」
瑠衣は袖先で、着物の裾をつんと持ち上げる。
見立ては紬路の得手だが、舌先三寸で人を丸め込むのは瑠衣の領分であった。
「店というものはね、紬路さま。きっと、まあァと目を惹いた者の勝ちなのよ」
「……せっかくの見世蔵ですものね」
佐伯家の見世蔵は、反物を不断に並べ、客が見て、手に取って、そのまま商いのできるところに身上がある。
すると瑠衣は、一層妖しく笑った。
「魅せグラ、ですわ」
「……?」
「魅せるグラフィックス。まあァ、紬路さま、妾教えて差し上げましたでしょう、洋語」
「……」
紬路は、もともと飽きっぽく、座学を好む性質ではない。
机に長く齧りついていると脚の形が崩れるらしい――などと尤もらしい理屈を持ち出しては直ぐに逃げてしまう。
「では改めまして。いかが、紬路さま――いえ、もう若女将ですわね」
「ええ、まあ――」
紬路は、一つ息を吐き、改めてその色を見た。
「……なんという、いけずな色。こんなものを店頭へ掛けられたら、見ない振りをして通れる筈がないじゃない」
「廂は長く出しましょうね。お着物が陽に褪せるといけませんもの」
通りを行く女学生が、案の定、店先で足を止める。
瑠衣はそれを横目に見て、扇子のない手で扇ぐ真似をした。
姉の椿に着いて暫く宮中に上がっていただけに、癖になっているようだ。
「ね?」
「……」
「お客様が止まりましたわよ」
「やはり派手なくらいの色目がいいのかしら」
「まァ、どちらでもよろしくてよ。洋語も、女性も男性も――何でもござれですわ」
勇ましく言いながら、瑠衣はするすると硝子戸のほうへ出てゆく。
紬路はその広い背中を悠々追いかけながら、胸の何処かが妙に弾むのを覚えていた。
縁付くことが破滅に繋がるのなら、商いに身を投じるのもまた一手なのかもしれない、と。
異能なし、縁談なし、未来なし。
ならば、商いで未来に挑むのも悪くはない。
いずれにしても五ツ蔵は、どうやら静かな店にはなりそうもない。
紬路が、生地の良し悪しはもとより、客を惹く色、売れる品と店の看板になる品との違いまで、まるで初めから知っていたかのように言い当てるのを、佐伯翁はいたく面白がった。
そして五ツ蔵の一つを改め、仮絵羽の見本と反物を並べ、見立てから仕立てまで請ける店を始めようと言い出したのである。
もともと所蔵の品を直に売り出しているのだから、そこに専門家が常に詰めているとなれば、尚申し分がない。
そうして、目利きは紬路、采配は佐伯家という話が、とんとん拍子に纏まってしまった。
「和泉の姫さま。屋号はどうされるか」
「御隠居のお店ですもの。わたくしには……」
「名は大事ですぞ。名で人を呼び、名で人を留める。姫もまた、その名に愛着を持つ。そうなれば、いよいよ身も入る。商売とは、そういうものです」
そう言いながら、佐伯翁は積まれた反物の端を指先で叩いた。
「そもそも、反物というのは面白いものでしてな。巻いておるうちは、みな筒のようなものだ」
「……筒」
紬路が鸚鵡返しにすると、翁はにやりと笑う。
「左様。紬路姫の『つつ』でもあり、反物の筒でもある。ならば、いっそ――」
翁は帳場の紙片を一つ引き寄せ、筆を走らせた。
昔風ながら見事な手跡が、さらさらと流れるように二文字を置く。
――つつ屋、とある。
かくて五ツ蔵は、新たに呉服店『つつ屋』として暖簾を上げる運びとなったのである。
つつ屋には、鉋で削り立ての真新しい木の匂いが、まだ仄かに漂っていた。
新しく据えた箪笥の抽斗には反物が整然と収められ、客は実物の絹を手に取り、開きながら仕立ての向き不向きや合わせる帯のこと、裏地や八掛の色まで、思い思いに注文を口にする。
十二単の襲色目を踏まえて、仕立ての隅々にまで心を配って考案して来た紬路である。どのような趣向の創作和装を求められようと、即座に応じることができた。
其ればかりか、客の肌の色や髪質の艶、眸の明るさまで見て取り、客に一番顔映りのよい色を選び出すことにも長けていた。
「瑠衣、それは少しばかり、人目を浚いすぎではなくて?」
紬路は帳場から身を乗り出して言った。
店の正面、通りへ向けた衣桁に、深縹の着物が掛けられている。
しかも、それを掛けている当人がまた、輪をかけて人目を引いた。
「まあ、何を仰るのよ、紬路さま」
「だって、あなたの趣味全開じゃない」
瑠衣は、するりと振り返った。
異国の血を引く面差しに、白粉を淡くはたき、紅をひいた口許に、殊更に目立つ片眼鏡。
男とも女ともつかぬその姿は、見慣れればこそ店にも馴染むが、初めて見れば十人中九人は二度見するに違いない。
瑠衣は元は和泉家の家庭教師だったのだが、姉の縁談が調ってからは直橘と同じく紬路預かりの食客となっている者である。
「目立ってこそ店頭でございましょう? この瑠璃が一等映えますもの」
「そこは否定しないけれど」
「なさいませよ。もし紬路さまがお気に召さないのでしたら」
「――いえ、やはり否定しないでおくわ。衣桁の肩に渡す帯と帯留めを考えて、……そうね模造真珠はどうかしら」
紬路は近寄って、衣桁の前で足を止めた。
深縹、あるいは瑠璃色とでもいうべき地に、裾へかけて薄くなるように銀鼠が溶けている。柄は殆どない。
星のように散りばめられた銀鼠の色の変遷を愉しむ着物だが、その潔さがかえって色を立てていた。そこへ丸い艶を帯びた真珠を添えれば、深縹の青に、立体的な白の明るさがきっぱりと立つ。
近頃は、思い思いの創作着物や伊達衿は勿論のこと、絹綬に美綬をあしらった半襟などといった、新しい意匠を添えた品がよく売れる。その個性を際立たせる趣向は、若い紬路の感覚にこそ、ぴたりと合っていた。
「……でも、これを一番前へ出すのは賭けだわ」
「賭けでなくて、勝ち筋ですわ。遠目には色しか見えませんもの」
「派手が過ぎると物怖じする客もいると思うけれど」
「奥の小紋も見える位置に直しましょうか。足を止める方のいらっしゃることが大切です」
瑠衣は袖先で、着物の裾をつんと持ち上げる。
見立ては紬路の得手だが、舌先三寸で人を丸め込むのは瑠衣の領分であった。
「店というものはね、紬路さま。きっと、まあァと目を惹いた者の勝ちなのよ」
「……せっかくの見世蔵ですものね」
佐伯家の見世蔵は、反物を不断に並べ、客が見て、手に取って、そのまま商いのできるところに身上がある。
すると瑠衣は、一層妖しく笑った。
「魅せグラ、ですわ」
「……?」
「魅せるグラフィックス。まあァ、紬路さま、妾教えて差し上げましたでしょう、洋語」
「……」
紬路は、もともと飽きっぽく、座学を好む性質ではない。
机に長く齧りついていると脚の形が崩れるらしい――などと尤もらしい理屈を持ち出しては直ぐに逃げてしまう。
「では改めまして。いかが、紬路さま――いえ、もう若女将ですわね」
「ええ、まあ――」
紬路は、一つ息を吐き、改めてその色を見た。
「……なんという、いけずな色。こんなものを店頭へ掛けられたら、見ない振りをして通れる筈がないじゃない」
「廂は長く出しましょうね。お着物が陽に褪せるといけませんもの」
通りを行く女学生が、案の定、店先で足を止める。
瑠衣はそれを横目に見て、扇子のない手で扇ぐ真似をした。
姉の椿に着いて暫く宮中に上がっていただけに、癖になっているようだ。
「ね?」
「……」
「お客様が止まりましたわよ」
「やはり派手なくらいの色目がいいのかしら」
「まァ、どちらでもよろしくてよ。洋語も、女性も男性も――何でもござれですわ」
勇ましく言いながら、瑠衣はするすると硝子戸のほうへ出てゆく。
紬路はその広い背中を悠々追いかけながら、胸の何処かが妙に弾むのを覚えていた。
縁付くことが破滅に繋がるのなら、商いに身を投じるのもまた一手なのかもしれない、と。
異能なし、縁談なし、未来なし。
ならば、商いで未来に挑むのも悪くはない。
いずれにしても五ツ蔵は、どうやら静かな店にはなりそうもない。


