昼の客足が一段落した頃、蘭が再び上がって来て紬路を一階の純喫茶の控え室へ押し込んだ。
余剰の新品のお仕着せを、何処からか探し出して来て押しつけられる。あれよあれよという間に着替えさせられ、鏡の前に立たされた紬路が、まず覚えたのは羞ずかしさであった。
黒の給仕服に白い前掛、胸元にはひだ飾り。肌を剥き出しにしているわけではない。
けれど、いつもの洋装に比べれば、足捌きに合わせて裾が軽やかに動くのも、靴下吊が僅かに覗いているのも、どうにも落ち着かなかった。人前へ出るための身なりであるはずなのに、却って身一つで立たされるようで、ひどく心許ない。
「まあ、紬路さま。大変ようお似合いですにゃ」
「似合っていても困るの。こんなに身軽では、肌の何処を隠したらよいのか判らないわ」
「隠されてくださいましては、接客になりませんにゃ」
「!? そこ接客に関係あるの……」
「ほんのちょーっぴりの幻想物語をお求めにゃのです」
蘭は平然として、背中の絹綬をふんわりと結び直す。
その上、髪輪仕立ての猫耳を仕上げとばかりに紬路の頭にひょいと載せた。
「本日のお稽古は三つ。お運び、お愛想、お勘定ですにゃ」
「最後のが急に世知辛いわね」
「商売でございますにゃ」
「うっ」
そこへ、奥から文子と志乃が覗き込んで来る。
「きゃあ、紬路、本当に店へ立つの?」
「立たされるのよ」
「でも素敵。ちょっと西洋の磁器人形みたい」
「志乃、今のは慰めになっていなくってよ。……お皿を割りそうで怖くなるわ!」
ちりん、と扉の破魔鈴が鳴った。
文子と志乃の二人はあわてて控室に引っ込む。
「さあ、お嬢さま。実地ですにゃ」
「実地ですって、厭いやーッ」
志乃が燥いだ調子で応じる。
手取り足取りだわァ、などと口の内で転がしながら、いつもの妄想へと浸り始めていた。
「い、いきなり!?」
「いきなりですにゃ」
蘭に背を押され、紬路は店先へ出た。
午後の陽射しが磨かれた卓や硝子の器に映え、牛酪の匂いと紅茶の香りとが漂っている。
厨房と接する開放式長台の上、長押にほど近い壁付け棚には、洋熊ぬいぐるみと文化人形とが並べられていた。
客は近所の書生風の青年二人。よりによって若い。
二の腕も露わな紬路を見るなり、涎を垂らさんがばかりの締まりのない顔になる。
「い、いらっしゃいませ」
「固いですにゃ。あと笑顔!」
何とか席へ案内し、水を置き、注文を取る。
隣では蘭が、補佐のつもりなのか、いちいち茶々を入れている。
「紅茶を二つと、餡蜜を」
「かしこまりました」
注文を聞くや否や、蘭は餡蜜はすぐですにゃと言い置いて厨房へ引っ込み、まずは紬路が紅茶を運ぶことになった。
ここまでは上出来であった。
だが、運んだ皿を置く段になって、紬路は前掛の端を卓の角へひっかける。
「あっ」
「危ないにゃ」
「見ていたなら先に言って頂戴!」
文子の予想に反し、皿はどうにか守り通された。
客の青年は笑うまいとして手を口許にあてたが、もう目元からして堪え切れていない。
「……失礼。……たいへんお上品な女給さんですね」
「わ、わたくし……」
「お嬢さま、そこは黙ります! 女給は、わたくしなんて言わにゃい!」
「商売って難しいのね!」
奥で文子がとうとう吹き出した。
「だめ、可笑しい。あんなに真面目な顔で、ちっとも板についていないんですもの」
「軟派されてるし! 自らお嬢呼びで暴露してるし!」
妄想に入っていた志乃まで現実世界に戻り、うんうんと頷く。
「でもね、皆つい見ちゃうわ。綺麗なのに、危うげなの」
「それは長所なの?」
「商売では長所ですにゃ」
蘭は客席から身を引き、厨房の志乃と文子のもとへ下がりながら、神妙な顔で言う。
「紬路さまは、ただ立っているだけで華がありますにゃ。けれど澄まし返っておいでではなく、今みたいに危なっかしいところがある。だから、客はつい目を留めるし、助け舟も出したくなる。接客には案外、それが大事ですにゃ」
紬路も配膳盆を抱えたまま、客を寛がせるために戻って来る。
「つまり、わたくしは失敗込みで売り物ということ!?」
「はいにゃ」
「即答しないでちょうだい!」
厨房に笑いが満ちた。
聞き耳を立てていた帳場の番頭まで、つられたように忍び笑いしてしまう始末だ。
「育てる愉しみ、長いお付き合いとは互いに不可分の幸福ですにゃ。接客は人の気持ちのやり取りのことです故」
紬路は頬を熱くしながら、そっと袖口を引いた。
覗く二の腕がまだ落ち着かない。
それでも、不思議と逃げ出したくはなかった。
日頃は話す機会もないお客さまと、自分の立ち居振る舞い一つで場が弾み、金と満足のやり取りになって返って来る。
その面白さを、ほんの少し知ってしまったからである。
よい娘であることも、いずれ妃となるために値踏みされることも、もう十二分に味わって来た。しかも、それらはつい先だって、父という後見を失ってあっけなく取り上げられたばかりだ。
「……もう一回よ、蘭ちゃん」
「はいにゃ。次は前掛を卓へ結びつけぬよう」
「そんな失敗、二度も致しません!」
「それは頼もしいですにゃあ」
紬路が一瞬、鼻白みながらも言い返すと、蘭もしたり顔で言う。
鈴がまた鳴り、暖簾を掻き分ける人影が見えた。
七ツ蔵純喫茶の午後は、賑やかに過ぎてゆくのであった。


