純喫茶は、昼前から人の気配で満ちていた。
なかなかの繁盛ぶりで、紬路も姉に連れられて初めて訪れた時から、すっかり気に入っている。
縁談の当てもなく和泉邸にいても気分が塞ぐだけだ。
以来、一人でも直橘を伴い、この理由もなく人を引き寄せる店へ足を運ぶようになっていた。
紬路が暖簾を潜ろうとした、その時だった。
「――あ、来た来た!」
外席から、友人の志乃の大きな声が上がった。
一応は、花も恥じらう華族令嬢の筈なのだが。
向かいには、同じく女学校からの友人の文子。
見れば、二人は大胆にも外席に腰を落ち着けていた。
張り出した廂の下、卓子には紅茶の茶器が二つ並んでいる。
志乃が手招きまで始めたので、紬路は周章てて着席した。
「話って、なぁに? また鑑賞会の話?」
三人は、少し前の宮中行事について、飽きもせず繰り返し語り合って来た。
その話は都度、細部は変わるが、いつも同じ流れに落ち着く。
紬路の入内、あるいは入侍についてだ。
しかし堪え性のない志乃は、自分で振っておきながら、もう軒先へ目を移していた。
「右京に呼ぶんだもん。驚いちゃったよ!」
その弾む声は、街頭の騒めきに勝るとも劣らない。
上半身まで乗り出しかけ、袖が卓子の縁に触れた。
「およしなさい。目立つのよ。はしたない」
「だってさァ、女給さんだよ!」
向かいの文子が、毅然と制した。
たとえ外席にあっても、そこだけが旧家の座敷のように端然としている。
「今世風与純喫茶というのよ。佐伯の御隠居さまが、この辺りの倉庫街を改築なさったの。老後のご道楽ね」
紬路は志乃の注意を引くように言った。
間を置かず、件の女給が水差しを持って現れる。
姉の婚家が営む店だけあって、客あしらいが行き届いていた。
頭には猫耳の髪輪。
腰の後ろには白い飾り絹綬。
喉許には、ちりんと鳴る鈴。
この店の女給は皆、猫娘の衣装遊戯をする決まりなのだ。
「今の右京みたいな場所って、気配が集まるんだわ。霊的に。興奮しちゃうでしょ」
「志乃」
「しかもね、私、さっき見ちゃったの!」
「何をよ」
文子は眉を寄せた。
志乃の目は、きらきらと女給の後ろ姿を追っている。
噂も妖も、志乃にとっては等しく好物だった。
だからこそ、見たものを胸に仕舞っておける性質ではない。
「待ち切れなくて早く来たら、奥の見世蔵に幔幕が張られてたの。近衛武官も立っててさ」
「志乃」
「なんとね! 東宮さまの御紋付きの馬車が……!」
その名が出た瞬間、文子が行儀をかなぐり捨てた。
伸ばした袖で、志乃の口を塞いでしまう。
ただの噂話に混ぜてよい御名ではない。
まして往来に張り出した卓子でなど、論外だった。
「ねえ、ただのご道楽の蔵に、そんなもの要る?」
志乃は文子の袖を押しのけた。
懲りた様子はなく、むしろ声を弾ませて続ける。
「志ー乃ッ! そんなものって!」
ついに文子に鋭く制され、志乃は口を噤んだ。
「しかも往来に張り出した卓子で大声で話すことではないわ!」
叱っている文子の声も、最後だけ少し大きかった。
それから素早く周囲を見回す。
確かめずにはいられない様子だ。
志乃はそれを見て、面白そうに肩を揺らして笑い始めた。
紬路は二人を取りなそうと、口を開いた。
「ごめんなさい。少しだけ遅れてしまって。それが本当なら、わたしも見たかったわ」
「少しだけ、ねぇ?」
志乃がにやにやと笑った。
その遅れが、いつものことだと知っている顔だ。
紬路は、身支度に時間のかかる娘である。
件の鑑賞会の折など、和装の参加推奨規定に悩み、十度は着替えたという逸話の持ち主だ。
無論、洋装でも、髪結いだの絹綬だのと始まり、手間はあまり変わらないのだった。
「まあいいけど。で、何の話? 呼び出してまで」
志乃と文子の視線が、揃って紬路へ向いた。
紬路は言葉の置きどころを、一つ探す。
冗談めかせば、志乃は笑うだろう。
何でもないことのように告げれば、文子はきっと察する。
けれど、どちらにしても自分の口から言う外なかった。
今、女学校の同級生たちの噂の渦中にいるのは、紬路自身なのだ。
誰かの口から聞かされるより先に、自分の言葉で差し出してしまいたかった。
「……わたくし、どうやら――その入内できないみたいなの」
志乃の動きが止まる。
茶器へ伸びかけていた手が、中途半端なところで宙に浮いた。
「……は?」
その一音だけが、ぽろりと落ちた。
志乃は周章てて、紅茶の茶器を持ち上げる。
中身がもう殆どないと気付くや、通りかかった女給へ手を振った。
「すみませーん、お代わりをお願い。こちらのお二人にも」
文子と紬路の分まで、まとめて新しく頼んでしまう。
取り繕うには少し大げさで、却って動揺が透けていた。
「だって、東宮妃も夢じゃないくらいだって……」
そして、友人の顔へ視線を戻す。
「東宮妃どころか、縁談は全く無理だわ。お父さまは官位を退かれて、家督の実権は姉の許婚の霍成さま。…… 霍成さまのご実家の左大臣家にはもう姫はいらっしゃらないけど、わたくしを推す益がある訣でもないし……」
「ちょ、ちょっと待って。よく解んない。大体それ、だってほぼ決まりみたいに言われてたじゃない――撫子なんか、あんなに悔しがって」
文子の指先が、微かに止まった。
撫子の名を聞き流せなかったらしい。
すぐに元の形へ戻ったが、その一瞬の乱れだけで充分だった。
「そうね」
文子は、何かを思い決めたように、ゆっくりと相槌を打った。
和泉の大納言退官の経緯は、ついぞ周囲にも明かされぬままだった。
娘たちにも、ただ最終の沙汰だけが伝えられている。
「それにしてもあの女ね……、一体何処が聖なる乙姫なのよ」
文子らしからぬ物言いで、言葉が零れる。
「乙女はみんな聖なる姫だよねー。撫子だけが特別じゃないって!」
一方、志乃はお気に入りの初めて致中の妄想でも始まったのか、楽しげに言葉を転がし始めた。
撫子と文子とは、女学校で知らぬ者のない程の犬猿の仲なのである。
何でも聞くところには幼少期の手習所が同じだったらしい。
指導が厳しいと評判の先生は、才女である文子よりも露骨に撫子へ心酔していたという。
文子はそれを、異能か何かで惑わされたのではないかと疑い、蛇蝎のごとく嫌っていた。
なかなかの繁盛ぶりで、紬路も姉に連れられて初めて訪れた時から、すっかり気に入っている。
縁談の当てもなく和泉邸にいても気分が塞ぐだけだ。
以来、一人でも直橘を伴い、この理由もなく人を引き寄せる店へ足を運ぶようになっていた。
紬路が暖簾を潜ろうとした、その時だった。
「――あ、来た来た!」
外席から、友人の志乃の大きな声が上がった。
一応は、花も恥じらう華族令嬢の筈なのだが。
向かいには、同じく女学校からの友人の文子。
見れば、二人は大胆にも外席に腰を落ち着けていた。
張り出した廂の下、卓子には紅茶の茶器が二つ並んでいる。
志乃が手招きまで始めたので、紬路は周章てて着席した。
「話って、なぁに? また鑑賞会の話?」
三人は、少し前の宮中行事について、飽きもせず繰り返し語り合って来た。
その話は都度、細部は変わるが、いつも同じ流れに落ち着く。
紬路の入内、あるいは入侍についてだ。
しかし堪え性のない志乃は、自分で振っておきながら、もう軒先へ目を移していた。
「右京に呼ぶんだもん。驚いちゃったよ!」
その弾む声は、街頭の騒めきに勝るとも劣らない。
上半身まで乗り出しかけ、袖が卓子の縁に触れた。
「およしなさい。目立つのよ。はしたない」
「だってさァ、女給さんだよ!」
向かいの文子が、毅然と制した。
たとえ外席にあっても、そこだけが旧家の座敷のように端然としている。
「今世風与純喫茶というのよ。佐伯の御隠居さまが、この辺りの倉庫街を改築なさったの。老後のご道楽ね」
紬路は志乃の注意を引くように言った。
間を置かず、件の女給が水差しを持って現れる。
姉の婚家が営む店だけあって、客あしらいが行き届いていた。
頭には猫耳の髪輪。
腰の後ろには白い飾り絹綬。
喉許には、ちりんと鳴る鈴。
この店の女給は皆、猫娘の衣装遊戯をする決まりなのだ。
「今の右京みたいな場所って、気配が集まるんだわ。霊的に。興奮しちゃうでしょ」
「志乃」
「しかもね、私、さっき見ちゃったの!」
「何をよ」
文子は眉を寄せた。
志乃の目は、きらきらと女給の後ろ姿を追っている。
噂も妖も、志乃にとっては等しく好物だった。
だからこそ、見たものを胸に仕舞っておける性質ではない。
「待ち切れなくて早く来たら、奥の見世蔵に幔幕が張られてたの。近衛武官も立っててさ」
「志乃」
「なんとね! 東宮さまの御紋付きの馬車が……!」
その名が出た瞬間、文子が行儀をかなぐり捨てた。
伸ばした袖で、志乃の口を塞いでしまう。
ただの噂話に混ぜてよい御名ではない。
まして往来に張り出した卓子でなど、論外だった。
「ねえ、ただのご道楽の蔵に、そんなもの要る?」
志乃は文子の袖を押しのけた。
懲りた様子はなく、むしろ声を弾ませて続ける。
「志ー乃ッ! そんなものって!」
ついに文子に鋭く制され、志乃は口を噤んだ。
「しかも往来に張り出した卓子で大声で話すことではないわ!」
叱っている文子の声も、最後だけ少し大きかった。
それから素早く周囲を見回す。
確かめずにはいられない様子だ。
志乃はそれを見て、面白そうに肩を揺らして笑い始めた。
紬路は二人を取りなそうと、口を開いた。
「ごめんなさい。少しだけ遅れてしまって。それが本当なら、わたしも見たかったわ」
「少しだけ、ねぇ?」
志乃がにやにやと笑った。
その遅れが、いつものことだと知っている顔だ。
紬路は、身支度に時間のかかる娘である。
件の鑑賞会の折など、和装の参加推奨規定に悩み、十度は着替えたという逸話の持ち主だ。
無論、洋装でも、髪結いだの絹綬だのと始まり、手間はあまり変わらないのだった。
「まあいいけど。で、何の話? 呼び出してまで」
志乃と文子の視線が、揃って紬路へ向いた。
紬路は言葉の置きどころを、一つ探す。
冗談めかせば、志乃は笑うだろう。
何でもないことのように告げれば、文子はきっと察する。
けれど、どちらにしても自分の口から言う外なかった。
今、女学校の同級生たちの噂の渦中にいるのは、紬路自身なのだ。
誰かの口から聞かされるより先に、自分の言葉で差し出してしまいたかった。
「……わたくし、どうやら――その入内できないみたいなの」
志乃の動きが止まる。
茶器へ伸びかけていた手が、中途半端なところで宙に浮いた。
「……は?」
その一音だけが、ぽろりと落ちた。
志乃は周章てて、紅茶の茶器を持ち上げる。
中身がもう殆どないと気付くや、通りかかった女給へ手を振った。
「すみませーん、お代わりをお願い。こちらのお二人にも」
文子と紬路の分まで、まとめて新しく頼んでしまう。
取り繕うには少し大げさで、却って動揺が透けていた。
「だって、東宮妃も夢じゃないくらいだって……」
そして、友人の顔へ視線を戻す。
「東宮妃どころか、縁談は全く無理だわ。お父さまは官位を退かれて、家督の実権は姉の許婚の霍成さま。…… 霍成さまのご実家の左大臣家にはもう姫はいらっしゃらないけど、わたくしを推す益がある訣でもないし……」
「ちょ、ちょっと待って。よく解んない。大体それ、だってほぼ決まりみたいに言われてたじゃない――撫子なんか、あんなに悔しがって」
文子の指先が、微かに止まった。
撫子の名を聞き流せなかったらしい。
すぐに元の形へ戻ったが、その一瞬の乱れだけで充分だった。
「そうね」
文子は、何かを思い決めたように、ゆっくりと相槌を打った。
和泉の大納言退官の経緯は、ついぞ周囲にも明かされぬままだった。
娘たちにも、ただ最終の沙汰だけが伝えられている。
「それにしてもあの女ね……、一体何処が聖なる乙姫なのよ」
文子らしからぬ物言いで、言葉が零れる。
「乙女はみんな聖なる姫だよねー。撫子だけが特別じゃないって!」
一方、志乃はお気に入りの初めて致中の妄想でも始まったのか、楽しげに言葉を転がし始めた。
撫子と文子とは、女学校で知らぬ者のない程の犬猿の仲なのである。
何でも聞くところには幼少期の手習所が同じだったらしい。
指導が厳しいと評判の先生は、才女である文子よりも露骨に撫子へ心酔していたという。
文子はそれを、異能か何かで惑わされたのではないかと疑い、蛇蝎のごとく嫌っていた。



