「まぁ、新帝はわたしたちより少し年上の方だから――」
文子はそこで一拍置き、勿体を付けるように言葉を切った。
友の前途に苦難があろうとなかろうと、志乃は些かも揺れない性格であった。
「雲の上のお方も素敵だけれど、ときめくなら年の近い殿方のほうがよろしいでしょう?」
わざと焦らすように微笑む。
その含みのある言いぶりに、志乃は次の名を待つように身を乗り出した。
「その点、現在の東宮、尚彰親王殿下は、十九歳、宮家のご出身であられる」
「きゃーーーーっ! いやァだ」
志乃が、待ってましたと言わんばかりに嬌声を上げた。
椅子の背に身を預けたまま、両手を胸元でぱたぱたと振る。
志乃は、贔屓の東宮の話になると、決まってこのような調子になる。
「はいはい」
文子は、顔も上げずにあしらう。もはや慣れっこになっていた。
この話は、既に何度も繰り返されているのである。
先だっての桜花の宴、即ち鑑賞会の折、紬路の女学校の面々は一人残らず招待に預かり、思い思いの着合わせで参内した。
卒業から幾日もない折でもあり、同窓会めいた和気藹々とした空気が宮中にもたらされた。
その中で、初めて御出座されたのが、現東宮、尚彰親王である。
若い娘たちのさんざめきは、御姿が現れた途端、すっと引いた。
誰かが制したわけでもないのに、場の空気が自ずと整う。
すらりとした立ち姿に、雅やかな所作。
深紫が、宮筋の御方であることを物語っていた。
だが、禁色を纏っていなかったとしても、その姿はただ其処に在るだけで人々の視線を浚っただろう。
華やかな容姿に恵まれ、笑みを見せずとも何処か和やぎを含みつつ、近付けども容易には崩れぬ端然たる気配を備えていた。生まれの高貴さを、誇る風もひけらかす風もなく自負と品位とが、ごく自然にその身に備わっている。
その視線が紬路たちに向けられると、顔色を失い、言葉を忘れ、ついにはその場に崩れ落ちる者さえ出るほどであった。
帝ご崩御の流言が広まった後、新帝の東宮に立たれたと聞くや否や、女学校卒業の面々、ひいては紬路たちの噂話は再び火を噴いた。
あの静けさ。
あの、見透かすような眼差し。
あの方が――この度の東宮になられた。
しかも、まだ東宮妃をお選びになられていない。
誰もが桜花の宴の折のご尊顔の面影を、まざまざと胸に蘇らせつつ、罷り間違って召し上げられることを夢想したのである。
「それで、こぞって各家族が東宮さまに先添いの后妃をお輿入れしようと画策しても」
「きゃーっ! きゃーっ!」
「……誰か、この子を止めてくれない?」
文子が呆れ顔で肩を落としながら言った。
紬路は、手遅れよ、とでも言いたげな顔をして、文子と目を見合わせた。
「あーあァ。内侍や女御が正式なお妃なら、紬路ならばーんと筆頭更衣として、立派に悪役令嬢の座を務め上げられるだろうになあァ。でも、破滅って観えちゃったのか」
このところ都では悪役令嬢奇譚が流行しており、興味の薄い筈の志乃迄もが手に取り、人気連作を一通り完読していた。
「まだ御年十九であらせられるのですもの、まあ、そう急ぐこともあるまいと見合わせておいでなのでしょうね」
文子が落ち着き払って状況を説明する。
「そこがまた、いいのよー! ねえ、あの鑑賞会って、やっぱり新しい皇子のお妃選びだったんじゃないかしら。よく渡来の本にも書いてあるでしょ」
既に幾度も語られてきたことではある。
三人娘はよく本を貸し借りしており、ものの見方や発想も多くを共有している。
「そうね。お父さまの民部省でも、その様な話は耳にしたわ」
「わーやっぱり!」
「儲けの君とか、坊がねとか、色々な呼び方はあるけれど、つまり東宮は春宮とも書くでしょ。春こそお相応しいってことね」
水を得た魚のように、志乃は眸をきらめかせて文子の話に聞き入っている。
此れも既に幾度となく確かめた話ではあるのだが、志乃はこういう話題が好きでたまらないのだ。宮筋には特に、とある種類の色恋が多いと聞いてからは、禁色という言葉を聞くだけで卒倒し兼ねない。
もっとも、志乃自身が入内を望んでいるわけではない。
美しい皇子を、どこか邪な愉しみをもって眺める類の者のそれなのである。
そこへ、配膳盆を捧げ持った蘭が、階段を上がって来る小気味よい足音が聞こえて来た。
「お嬢さま方ー! お茶をお持ちしましたにゃ!」
弾む調子そのままに、蘭が配膳盆を捧げ持って姿を現した。
蘭というのは、佐伯家の七ツ蔵純喫茶で料理人をしている、どこか素性の知れぬ娘である。紬路の姉とも親しいが、肌身離さず首元に下げた鈴といい、どこか人ならざる気配もある。
その正体は、姉の許嫁である佐伯霍成が異能で捕縛した猫の妖を、一つ身に宿しているとも囁かれていた。
「ささ、冷めないうちにお早くですにゃ」
そう言って蘭は、手際よく茶器を文机へ並べてゆく。
文子は、真っ先に立ち上がって上品な所作で受け皿ごと茶碗を持ち上げると、何やら肩を細かく揺らし始めた。そうしてくぐもった笑いを押さえながら長椅子へ身を沈める。
女学生たちの間では、この頃、牛乳の濃い紅茶を飲むのが流行っているのである。
今日は殊更、牛乳をたっぷり注いだ「ロイヤルティー」と呼ばれるもので、才女の文子などはもうくすくすと笑い出してしまった。
蘭は気を利かせて昼食として卵の麵麭も一緒に持ってきたので、麵麭と紅茶というだけで、近頃は物思いがちだった紬路までなんだか心まで華やぐのだった。
「蘭ちゃんって言ったよね! ねぇ聞いてよお。紬路がね」
志乃は紅茶を取りに立ち上がりざま、「破滅回避覚書」をぽんと放り出した。
そのまま持ち前の人懐っこさで、知り合ったばかりの傍らの蘭へ声をかける。
蘭は配膳盆を脇に控え、猫のように小首をかしげる。
「にゃんです、お嬢さま」
よもや東宮妃の話など持ち出すまい――と過ったのも束の間。
「お仕事を探してるんだって! 雇ってあげてよー」
――なぜ、そうなる。
紬路は思わず視線を逸らす。
けれど入内だの入侍だの、桜花の鑑賞会だのといった、己の情けなさを晒すばかりの話題から離れられて、胸の内では少しだけ安堵してもいた。
「ねーえ、お仕事落ち着いた? 猫耳近くで見てもいいー?」
「……!! 紬路さまッ!」
途端に蘭は、配膳盆を小脇に立ったまま、紬路に向き直った。
「以前から申し上げたいと思っておりましたにゃ! ……あなたさまには、接客商売の素質がありますにゃっ!」
「えっ!?」
文子に加え、志乃も此れには吹き出してしまう。
箸が転んでも鈴の音のようにころころと皆よく笑う年頃なのである。
文子はそこで一拍置き、勿体を付けるように言葉を切った。
友の前途に苦難があろうとなかろうと、志乃は些かも揺れない性格であった。
「雲の上のお方も素敵だけれど、ときめくなら年の近い殿方のほうがよろしいでしょう?」
わざと焦らすように微笑む。
その含みのある言いぶりに、志乃は次の名を待つように身を乗り出した。
「その点、現在の東宮、尚彰親王殿下は、十九歳、宮家のご出身であられる」
「きゃーーーーっ! いやァだ」
志乃が、待ってましたと言わんばかりに嬌声を上げた。
椅子の背に身を預けたまま、両手を胸元でぱたぱたと振る。
志乃は、贔屓の東宮の話になると、決まってこのような調子になる。
「はいはい」
文子は、顔も上げずにあしらう。もはや慣れっこになっていた。
この話は、既に何度も繰り返されているのである。
先だっての桜花の宴、即ち鑑賞会の折、紬路の女学校の面々は一人残らず招待に預かり、思い思いの着合わせで参内した。
卒業から幾日もない折でもあり、同窓会めいた和気藹々とした空気が宮中にもたらされた。
その中で、初めて御出座されたのが、現東宮、尚彰親王である。
若い娘たちのさんざめきは、御姿が現れた途端、すっと引いた。
誰かが制したわけでもないのに、場の空気が自ずと整う。
すらりとした立ち姿に、雅やかな所作。
深紫が、宮筋の御方であることを物語っていた。
だが、禁色を纏っていなかったとしても、その姿はただ其処に在るだけで人々の視線を浚っただろう。
華やかな容姿に恵まれ、笑みを見せずとも何処か和やぎを含みつつ、近付けども容易には崩れぬ端然たる気配を備えていた。生まれの高貴さを、誇る風もひけらかす風もなく自負と品位とが、ごく自然にその身に備わっている。
その視線が紬路たちに向けられると、顔色を失い、言葉を忘れ、ついにはその場に崩れ落ちる者さえ出るほどであった。
帝ご崩御の流言が広まった後、新帝の東宮に立たれたと聞くや否や、女学校卒業の面々、ひいては紬路たちの噂話は再び火を噴いた。
あの静けさ。
あの、見透かすような眼差し。
あの方が――この度の東宮になられた。
しかも、まだ東宮妃をお選びになられていない。
誰もが桜花の宴の折のご尊顔の面影を、まざまざと胸に蘇らせつつ、罷り間違って召し上げられることを夢想したのである。
「それで、こぞって各家族が東宮さまに先添いの后妃をお輿入れしようと画策しても」
「きゃーっ! きゃーっ!」
「……誰か、この子を止めてくれない?」
文子が呆れ顔で肩を落としながら言った。
紬路は、手遅れよ、とでも言いたげな顔をして、文子と目を見合わせた。
「あーあァ。内侍や女御が正式なお妃なら、紬路ならばーんと筆頭更衣として、立派に悪役令嬢の座を務め上げられるだろうになあァ。でも、破滅って観えちゃったのか」
このところ都では悪役令嬢奇譚が流行しており、興味の薄い筈の志乃迄もが手に取り、人気連作を一通り完読していた。
「まだ御年十九であらせられるのですもの、まあ、そう急ぐこともあるまいと見合わせておいでなのでしょうね」
文子が落ち着き払って状況を説明する。
「そこがまた、いいのよー! ねえ、あの鑑賞会って、やっぱり新しい皇子のお妃選びだったんじゃないかしら。よく渡来の本にも書いてあるでしょ」
既に幾度も語られてきたことではある。
三人娘はよく本を貸し借りしており、ものの見方や発想も多くを共有している。
「そうね。お父さまの民部省でも、その様な話は耳にしたわ」
「わーやっぱり!」
「儲けの君とか、坊がねとか、色々な呼び方はあるけれど、つまり東宮は春宮とも書くでしょ。春こそお相応しいってことね」
水を得た魚のように、志乃は眸をきらめかせて文子の話に聞き入っている。
此れも既に幾度となく確かめた話ではあるのだが、志乃はこういう話題が好きでたまらないのだ。宮筋には特に、とある種類の色恋が多いと聞いてからは、禁色という言葉を聞くだけで卒倒し兼ねない。
もっとも、志乃自身が入内を望んでいるわけではない。
美しい皇子を、どこか邪な愉しみをもって眺める類の者のそれなのである。
そこへ、配膳盆を捧げ持った蘭が、階段を上がって来る小気味よい足音が聞こえて来た。
「お嬢さま方ー! お茶をお持ちしましたにゃ!」
弾む調子そのままに、蘭が配膳盆を捧げ持って姿を現した。
蘭というのは、佐伯家の七ツ蔵純喫茶で料理人をしている、どこか素性の知れぬ娘である。紬路の姉とも親しいが、肌身離さず首元に下げた鈴といい、どこか人ならざる気配もある。
その正体は、姉の許嫁である佐伯霍成が異能で捕縛した猫の妖を、一つ身に宿しているとも囁かれていた。
「ささ、冷めないうちにお早くですにゃ」
そう言って蘭は、手際よく茶器を文机へ並べてゆく。
文子は、真っ先に立ち上がって上品な所作で受け皿ごと茶碗を持ち上げると、何やら肩を細かく揺らし始めた。そうしてくぐもった笑いを押さえながら長椅子へ身を沈める。
女学生たちの間では、この頃、牛乳の濃い紅茶を飲むのが流行っているのである。
今日は殊更、牛乳をたっぷり注いだ「ロイヤルティー」と呼ばれるもので、才女の文子などはもうくすくすと笑い出してしまった。
蘭は気を利かせて昼食として卵の麵麭も一緒に持ってきたので、麵麭と紅茶というだけで、近頃は物思いがちだった紬路までなんだか心まで華やぐのだった。
「蘭ちゃんって言ったよね! ねぇ聞いてよお。紬路がね」
志乃は紅茶を取りに立ち上がりざま、「破滅回避覚書」をぽんと放り出した。
そのまま持ち前の人懐っこさで、知り合ったばかりの傍らの蘭へ声をかける。
蘭は配膳盆を脇に控え、猫のように小首をかしげる。
「にゃんです、お嬢さま」
よもや東宮妃の話など持ち出すまい――と過ったのも束の間。
「お仕事を探してるんだって! 雇ってあげてよー」
――なぜ、そうなる。
紬路は思わず視線を逸らす。
けれど入内だの入侍だの、桜花の鑑賞会だのといった、己の情けなさを晒すばかりの話題から離れられて、胸の内では少しだけ安堵してもいた。
「ねーえ、お仕事落ち着いた? 猫耳近くで見てもいいー?」
「……!! 紬路さまッ!」
途端に蘭は、配膳盆を小脇に立ったまま、紬路に向き直った。
「以前から申し上げたいと思っておりましたにゃ! ……あなたさまには、接客商売の素質がありますにゃっ!」
「えっ!?」
文子に加え、志乃も此れには吹き出してしまう。
箸が転んでも鈴の音のようにころころと皆よく笑う年頃なのである。


