文子の話を要すれば――
文子は、紬路を観ようとして観たわけではない。
新帝が御即位あそばされ、宮中の人事も出入りも大きく改まった折のことである。
父に伴われて参内した文子は、父の務めに従い、非公式に観させられたに過ぎなかった。
それは、ほんの戯れに過ぎぬ辻占のようなものだった。
縁と器と徴とが揃う機会は稀であり、什器の満ちる折に、僅か先の帰趨を観る――その程度のこと。
この新しき御代に、祝いを添えるように。
そのための、ささやかな目配りに過ぎなかった。
だが、そこに――
新帝の御代の相に、紬路の相が紛れ込んで現れ出たのは驚愕以外の何物でもなかった、とのことだ。
文子は女学校卒業後は父の手習いをしている。
文子の父は、税と土地、そして経の流れを掌る、民部省に連なる参議だった。
その務めは宮中に留まらず、商家との折衝や財の動きを見極めるため都外とも深く結びついている。
今、三人は蘭に鍵を借り、七ツ純喫茶の昼食繁忙時間を避け、二階の部屋へと移っていた。
「いい? 観えた処までを言うから、忘れないように書き留めてよ?」
文子が警告めいた調子で告げる。
「はーい!」
文机に向かった志乃が、「破滅回避覚書」と題した手帳に屈む。
――と、その前に、と文子は一度言葉を切った。
「新帝の東宮時代から添われていた方は、践祚と共に、一の位の女御さまとなられた――つまり皇后さまよ。此処まで、いい?」
文子は順を追うように確認する。
語るというより、まずは事実を並べ直すような調子である。
「うん。例によって、また右大臣家よね」
志乃が鉛筆を掲げながら、弾む気配で応じる。
右大臣家は、前の帝と今上との、両方の外戚となっていた。
だが、いずれの御代にも生まれたのは姫宮ばかりで、右大臣家にとっては本懐成らず、男子に恵まれぬことが積年の憂いであった。
その舎は、二代変わらず凝華舎に据えられている。
だが、さすがに縁起がよいとも言いがたく、また三代続けてでは外聞もある。
一方、左大臣家には姫がおらず、内大臣家も同様、各摂家には東宮妃を、早々に立后させかねる事情があったのである。
「少し前に、新帝の典侍の席は埋まってしまったのよ」
尚侍、またそれに次ぐ典侍とは、いわば帝の秘書である。
宮中における全女官の頂に立ち、帝の御前に最も近く仕える者。
御璽や文書の取り扱いから伝達に至るまで、内廷の務めの多くを、外廷の蔵人頭と比肩して細い肩に担う。
言葉一つ、仕草一つが、政に関わる故に、その座に就く者は限られていた。
家柄は言うまでもなく、才覚と分別を兼ね備え、なおかつ帝の信を得た最高位の女官でなければならない。
女官でありながら、ただの女官ではない。
それが、後宮十二司の内侍司を預かる尚侍と典侍という位であった。
「これで新帝の典侍、女御さまの座は共に、有力な姫君たちに占められた。ほとんど右大臣家にね。……かつて観た折には紬路、あなたの席だったの」
文子は、淡々と言い切った。
そこには惜しむ気配も、情を挟む余地もない。
怜悧な娘が事実を手際よく確認する口調のそれである。
「うん。昼の内廷の仕事に伴う姫、夜の御殿の御帳台に召す姫――紬路は昼の方だったってことよね」
――つまり、昼の女。夜の女。
志乃が、殊もなげに言う。
何といっても、今は自分の将来に関わる話である。
紬路は黙したまま、志乃の二の腕にそっと触れ、再びそれを制した。
持て余したように、志乃は階下に駆け出し、三人分の紅茶を頼みに行ってしまった。
「……言い様というものがあるわ。もう」
文子は憤慨したように小さく零しながらも、すぐに気を取り直すように言葉を継ぐ。
「ま、ともかく。私はそこまで先のことは観えないけど、その分割りかしよく観えるほうよ。あなたはお父さまもご無事で官位を重ねられ、尚侍から皇統や公卿にご縁がある筈だったの。……だから、畏れ多くも新帝ご自身とのご縁だったかは判らないし、その先、あなたが中宮となられたのかは分からないけど――」
「けど?」
「あなたは更衣として召される場合は、必ず破滅するの」
「……」
「それははっきり観えた。それに……運命を邪魔立てする存在を感じたわ。あるいは破滅させられるのかもしれない」
更衣とは、女御に次ぐ位にあり、帝に仕える后妃の一つである。
女御に列せられるのは、通例、摂家と呼ばれる三大臣――すなわち左大臣、右大臣、内大臣の家の姫君たちであった。
加えて稀に清華家、つまり宮筋出身の臣下が最高位の太政大臣を賜ることがあるが、現在は不在である。
その太政大臣家の姫を含め、后妃の座は、いわゆる四后妃と呼ばれる四家によって占められる。
紬路の和泉家は、大納言に留まっていた。
故に仮に今、入内あるいは入侍したとしても、数多の更衣の中では筆頭に就くに留まる。
定員四名と定められた女御との隔たりは、誰の目にも明らかだ。
たとえ懐妊に至ったとしても――
その子が帝位へと連なる道は、きわめて細い。
それは喜ばしき運命と呼ぶにはあまりに危うく、有体に言えば、皇位継承争いの巻き添えにより命さえ揺らぐような帰趨を孕んでいた。
いかに帝といえど、一度退いた父を呼び戻し、位を進め大臣職を任ずることなど適わぬこなれば、紬路が女御に列する道は初めから閉ざされていた。
「なーんだ、簡単じゃない。入内も入侍もしなければいいのよ。紬路なら結婚相手なんて選り取り見取りでしょ。要は幸せに成れればよくってよ」
志乃が、身軽に戻ってきたそのままの勢いで、畳の座布団にどすんと腰を下ろした。
「ところが」
文子は、僅かに語気を強めた。
逃げ道を示す言葉を、完全に否定する響きだった。
「紬路の相は、皇統や公卿にあるの。……それ以外は、破滅なのよ」
淡々と告げられたその言葉は、余りにも揺るがない。紬路に至っては聞くのが二度目だ。選ぶ余地など初めからなく、可能性はただ一つの道だけを残している。
志乃までもが、言葉を失った。
それはあまりに畏れ多い事柄でもあり、現況では、どう足掻いても紬路に活路は残されていない。
しかも、何かの拍子に女御入内と相成った処で、待っているのは数多の姫君たちがひしめく後宮である。
寵を競い、家の威を背負い、互いの一挙手一投足を測り合う女たちの中へ、投げ込まれるだけなのだ。
文子は、紬路を観ようとして観たわけではない。
新帝が御即位あそばされ、宮中の人事も出入りも大きく改まった折のことである。
父に伴われて参内した文子は、父の務めに従い、非公式に観させられたに過ぎなかった。
それは、ほんの戯れに過ぎぬ辻占のようなものだった。
縁と器と徴とが揃う機会は稀であり、什器の満ちる折に、僅か先の帰趨を観る――その程度のこと。
この新しき御代に、祝いを添えるように。
そのための、ささやかな目配りに過ぎなかった。
だが、そこに――
新帝の御代の相に、紬路の相が紛れ込んで現れ出たのは驚愕以外の何物でもなかった、とのことだ。
文子は女学校卒業後は父の手習いをしている。
文子の父は、税と土地、そして経の流れを掌る、民部省に連なる参議だった。
その務めは宮中に留まらず、商家との折衝や財の動きを見極めるため都外とも深く結びついている。
今、三人は蘭に鍵を借り、七ツ純喫茶の昼食繁忙時間を避け、二階の部屋へと移っていた。
「いい? 観えた処までを言うから、忘れないように書き留めてよ?」
文子が警告めいた調子で告げる。
「はーい!」
文机に向かった志乃が、「破滅回避覚書」と題した手帳に屈む。
――と、その前に、と文子は一度言葉を切った。
「新帝の東宮時代から添われていた方は、践祚と共に、一の位の女御さまとなられた――つまり皇后さまよ。此処まで、いい?」
文子は順を追うように確認する。
語るというより、まずは事実を並べ直すような調子である。
「うん。例によって、また右大臣家よね」
志乃が鉛筆を掲げながら、弾む気配で応じる。
右大臣家は、前の帝と今上との、両方の外戚となっていた。
だが、いずれの御代にも生まれたのは姫宮ばかりで、右大臣家にとっては本懐成らず、男子に恵まれぬことが積年の憂いであった。
その舎は、二代変わらず凝華舎に据えられている。
だが、さすがに縁起がよいとも言いがたく、また三代続けてでは外聞もある。
一方、左大臣家には姫がおらず、内大臣家も同様、各摂家には東宮妃を、早々に立后させかねる事情があったのである。
「少し前に、新帝の典侍の席は埋まってしまったのよ」
尚侍、またそれに次ぐ典侍とは、いわば帝の秘書である。
宮中における全女官の頂に立ち、帝の御前に最も近く仕える者。
御璽や文書の取り扱いから伝達に至るまで、内廷の務めの多くを、外廷の蔵人頭と比肩して細い肩に担う。
言葉一つ、仕草一つが、政に関わる故に、その座に就く者は限られていた。
家柄は言うまでもなく、才覚と分別を兼ね備え、なおかつ帝の信を得た最高位の女官でなければならない。
女官でありながら、ただの女官ではない。
それが、後宮十二司の内侍司を預かる尚侍と典侍という位であった。
「これで新帝の典侍、女御さまの座は共に、有力な姫君たちに占められた。ほとんど右大臣家にね。……かつて観た折には紬路、あなたの席だったの」
文子は、淡々と言い切った。
そこには惜しむ気配も、情を挟む余地もない。
怜悧な娘が事実を手際よく確認する口調のそれである。
「うん。昼の内廷の仕事に伴う姫、夜の御殿の御帳台に召す姫――紬路は昼の方だったってことよね」
――つまり、昼の女。夜の女。
志乃が、殊もなげに言う。
何といっても、今は自分の将来に関わる話である。
紬路は黙したまま、志乃の二の腕にそっと触れ、再びそれを制した。
持て余したように、志乃は階下に駆け出し、三人分の紅茶を頼みに行ってしまった。
「……言い様というものがあるわ。もう」
文子は憤慨したように小さく零しながらも、すぐに気を取り直すように言葉を継ぐ。
「ま、ともかく。私はそこまで先のことは観えないけど、その分割りかしよく観えるほうよ。あなたはお父さまもご無事で官位を重ねられ、尚侍から皇統や公卿にご縁がある筈だったの。……だから、畏れ多くも新帝ご自身とのご縁だったかは判らないし、その先、あなたが中宮となられたのかは分からないけど――」
「けど?」
「あなたは更衣として召される場合は、必ず破滅するの」
「……」
「それははっきり観えた。それに……運命を邪魔立てする存在を感じたわ。あるいは破滅させられるのかもしれない」
更衣とは、女御に次ぐ位にあり、帝に仕える后妃の一つである。
女御に列せられるのは、通例、摂家と呼ばれる三大臣――すなわち左大臣、右大臣、内大臣の家の姫君たちであった。
加えて稀に清華家、つまり宮筋出身の臣下が最高位の太政大臣を賜ることがあるが、現在は不在である。
その太政大臣家の姫を含め、后妃の座は、いわゆる四后妃と呼ばれる四家によって占められる。
紬路の和泉家は、大納言に留まっていた。
故に仮に今、入内あるいは入侍したとしても、数多の更衣の中では筆頭に就くに留まる。
定員四名と定められた女御との隔たりは、誰の目にも明らかだ。
たとえ懐妊に至ったとしても――
その子が帝位へと連なる道は、きわめて細い。
それは喜ばしき運命と呼ぶにはあまりに危うく、有体に言えば、皇位継承争いの巻き添えにより命さえ揺らぐような帰趨を孕んでいた。
いかに帝といえど、一度退いた父を呼び戻し、位を進め大臣職を任ずることなど適わぬこなれば、紬路が女御に列する道は初めから閉ざされていた。
「なーんだ、簡単じゃない。入内も入侍もしなければいいのよ。紬路なら結婚相手なんて選り取り見取りでしょ。要は幸せに成れればよくってよ」
志乃が、身軽に戻ってきたそのままの勢いで、畳の座布団にどすんと腰を下ろした。
「ところが」
文子は、僅かに語気を強めた。
逃げ道を示す言葉を、完全に否定する響きだった。
「紬路の相は、皇統や公卿にあるの。……それ以外は、破滅なのよ」
淡々と告げられたその言葉は、余りにも揺るがない。紬路に至っては聞くのが二度目だ。選ぶ余地など初めからなく、可能性はただ一つの道だけを残している。
志乃までもが、言葉を失った。
それはあまりに畏れ多い事柄でもあり、現況では、どう足掻いても紬路に活路は残されていない。
しかも、何かの拍子に女御入内と相成った処で、待っているのは数多の姫君たちがひしめく後宮である。
寵を競い、家の威を背負い、互いの一挙手一投足を測り合う女たちの中へ、投げ込まれるだけなのだ。


