昭陽北舎の床は隅々まで清められ、冬の朝の光を冷やかに受けていた。
御簾が上げられ白い明かりが差し込み、渡廊と畳とは境なく、一つながりの面が開けている。
新しく典侍となった、志乃が几帳の陰から顔を覗かせた。
女学校卒業後の進路が定まらなかったのは紬路と同様だったが、撫子の後釜に収まる、この憎めない要領の良さも、如何にも志乃らしい。
否、全くの成り行きという訳でもない。
幾分かは、此方から強く口を添えた向きもあった。
「うっわ……綺麗よ、紬路」
見本の仮縫いを、身に当てているところだった。
絞り染めによって浮かび上がる絵模様は、豪華でありながら繊細だった。
布を括り、締め、解く――その一つ一つの手の加減が、二つと同じ形を許さない。
辻が花。
幾重にも染め重ねられた淡い色が、光の加減で花の気配を浮かび上がらせる。
絞りの粒は朝露のように細やかに散り、その合間を縫うように刺繍糸が引き締めている。
一針ごとに、色が息づく。
咲いているのか、解けているのか。
その境は曖昧なまま、花が一面に広がっていた。
「ありがとう。……苦労したのよ」
かつて途絶えたとされた染めと縫いの融け合うその技を、紬路は情熱をもって再現しようと試みている。
現存する辻が花はあまりにも貴重で、とても普段遣いに着られるような状態ではないからだ。
「……まだ、道半ばだけどね」
「有能な、この志乃さんに任せなさーい! 失われた有職文様でも針子の乙女でも、いくらでも集めちゃうよー!」
どんな用も気安く軽快に請け合ってくれる、その調子は一大事業を前にしても、いつもと変わらない。
手作業で糸を繰る、織るの他に、刺繍で生計を立てる民を新しく生み出す――そして土地持ちとは無縁の者たちの糊口を凌ぐ糧となる産業を興すのだ。
この国の田畑も山林も、先祖代々の名を負って受け継がれてきたものばかりだ。
津々浦々、良き土地には既に持ち主があり、耕す手も納める先も、村ごとの掟も決まっている。溢れた者は、流れ着いた先で日雇いとなるか、寺社や路上市の陰に身を寄せるほかない。
腕があっても、田を持たぬ者。
働く意思があっても、働く場を継げぬ者。
紬路たちが掬い上げようとするのは、まさにそうした者たちだった。
始まりは、ほんの些細な違和感だった。
蔵司に運び込まれる反物の中に、糸の弱いもの、染めの浅いものが紛れていた。
素人目には気付かぬほどの差ではあったが、それは確かに衰えであり、明らかに質の落ちた品だった。
職人が減っているのだと紬路は即座に見抜いた。
技を持つ者が散り、続く者が絶えた産業がある。
それらを復興できるのであれば、国内需要が一巡りしていたとしても形を変え、異国情緒溢れる工芸品として外つ国に売れるのかもしれなかった。
必要とあらば国や組織が護り、導かねばならぬと考えた紬路は、地方の荘園に残る者、名を変えて細々と技を繋ぐ者を集め、口伝でしか残らぬものを図に起こし、布に写し復興を試みた。
やがて名産として称えられ、外つ国へと卸されるまで。
外貨を稼ぎ、侮られることなく国際舞台へ立てる国となるまで。
紬路は、弛まず挑み続けるのだ。
「外つ国との商いは、この瑠衣にお任せあれ。まずは綿糸、綿布、生糸からですわね」
片眼鏡をかけた瑠衣が、得意げに歩み入ってくる。
腕には、蔵出ししたばかりの派手な織りを抱えていた。
奥では志乃が衣桁の前と蔵司とを行き来している。
帯締め、襦袢、替えの小物など、今宵の支度に要るものが、次々と並べられていた。
瑠衣が持ち出して来た織りは、辻が花とはまるで違う。
色は強く、柄は大きく、目を引くことを恐れぬ織りばかりである。
外つ国へ卸すなら、何が驚かれ、何が値になるのか。
その見極めのために、瑠衣はこれを持ち込んだのだ。
「ほらほらァ、そこで商いを始めないの」
志乃が腰紐を指に引っかけたまま、手をひらひらと振って急かす。
「いま広げたら終わらなくなるでしょう。さっさとお脱ぎになって」
「少しだけ見て頂くつもりでしたのよ」
「駄目駄目。瑠衣ちゃんの少し、は夕刻まで続くんだから。長くなるなら、明日にしてー」
異人の血を引く、長身の艶やかな男に向かって、瑠衣ちゃん呼ばわりである。
だが当の瑠衣は、片眼鏡の奥で涼しい顔で聞いていた。
その姿は女物の衣も、派手な織りも、誰より堂々と着こなしている。
「こっちも明け方まで長ァく続く、大事な儀式の、お、仕、度、なのよッ」
志乃はそこで、片足を引き、腰をきゅっと捻った。
指先を扇のように開いて頬へ添え、流し目までつけて、ばしりと見得を切る。
妙に様になっている。
ここでまた何かの致中でも想像したか、思い出しでもしたか、くすくす声を上げ始めた。志乃は近頃、お給金を得て芝居通いに熱を上げているのだ。
「今夜は延び延びになっていた……新手枕のお式なんだから。ねッ」
珍しく言いたいことを全て言い切らずに、志乃が途中で言葉を切る。
その先は、口にせずとも通じるものだった。
紬路は先の簒奪事件において、意図せず強大な託言の異能を揮った。
その後、東宮より、当分は養生に専念せよとの令旨が下され、表向きの勤めからは遠ざけられていた。
やがて、医心方より再び召し出しても差し支えなしとの沙汰が下る。これを受けて、陰陽寮が吉日を占い、今日がその日と定められたのだ。
「これで無事、昼も夜も、公にも私にも、ただ一人のお姫さまになった訳ね」
背の低い志乃が傍に立つと、どうしても見上げる形になる。
いつもなら、そこで片目でも細めて茶化すところだった。
けれど今、その顔に揶揄いの色はない。
「撫子のやつ、昼のお勤めを気取りながら、異能を使って夜も占有しようだなんて。さっすが、横紙破りなあいつだわ」
「その話は、もうしたくないの……」
「そうだね」
志乃はそこで言葉を止めた。
「人には更衣だから布だけ扱っとけ、なんて散々莫迦にしてくれちゃってさ。もう押しも押されもせぬ女御さまですよーだ」
軽口のようでいて、その実、揺るがぬ事実である。
前の太政大臣、佐伯翁の後見が周知の事実となり、紬路は正式に梨壺女御へと位を改められていた。父の大納言も濡れ衣の冤を雪がれ、復職している。
もはや一介の更衣ではない。
誰が見ても、東宮の傍に並び立つに足る身である。
たとえこの先、他に女御が入内しようとも、皇后へと至る道は既に紬路に開かれていた。
昭陽舎の御簾の向こうに、灯の気配だけが揺れていた。
静まり返った空気の中で、衣擦れの音が一つ、落ちる。
紬路は、息を整えた。
解いたばかりの髪が、肩へと流れ落ちている。
帳の奥、御帳台には、尚彰さまがお待ちになっている。
指先で、帳をなぞる。
――それが合図。
気配が動き、内へと迎え入れられる。
ゆっくりと帳を上げ、もう幾度となく身を横たえた褥へ、身を預けた腕の中へと滑りこむ。
「……漸く、だな」
抱き合いながら低く落ちる声。
紬路は、僅かに目を伏せた。
返す言葉を探すより先に、尚彰さまの腕の力が深まる。
逃がすまいとするように。
いや――逃がす気など最初からないのだと、そうと知れる抱き方だった。
「長い間、待ち焦がれていた」
耳元で囁かれる。
微かに触れる吐息に、肩が震えた。
「……わたくしも」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど頼りない。
腕は更に硬く締まり、確かに引き寄せられた。
「知っている」
短い言葉。
「此れより先――」
声が、更に低くなる。
「誰も、そなたに並ぶことはない」
断ち切るように、覆しようのない響きの断定だった。
誰も入内させることはないと約束してくれたのだ。
尚彰さまの黒い双眸が薄明かりの中で強い光を放っている。
「千代に――結ぶ」
その動いた唇の熱が、肌に触れるほどの近さだ。
千代に、わたしだけが、この人の隣にある。
誰も、わたしに並び立つことはない。
紬路は目を閉じた。
拒む理由はもうどこにもない。
ただ、この腕の中にあることだけが確かなものだった。
絡めた指が、更に深く重なる。
――この先、どれほどのことがあろうとも。
――いつか今上帝妃となり……
それを、もう疑うことはなかった。
やがて重ねたものは、己一人のものではなくなる。
脈々と受け継がれ、絶えることなく続いていく。
ずっと千年さえ超えて、この人と共にある。
名も、血も、この夜に結ばれたもの全てが、遥か先の御代にまで織り重なっていく、と。


