東風の馬は、夜の都を裂くように駆けた。
紬路はその腕の内で、ただ必死に手綱を握る東風の気配へ身を預けていた。
内裏の灯が遠ざかり、幾筋もの辻を抜けるたび、冷たい風が頬を打つ。
けれど今は寒さよりも、六条へ一刻も早く辿り着かねばならぬという思いだけが、胸の奥で燃えていた。
やがて、六条別邸の門が見えた。
馬が完全に止まるのを待たず、東風は紬路を抱えるようにして下ろした。
門前には霍成の配した者たちが詰めており、灯を掲げた武官が二人を見て、すぐさま道を開ける。
「佐伯翁は」
鋭く問いかけた青年の顔を見て、控えていた武官は一瞬だけ動きを止めた。
だが次の瞬間、その目は馬へ走る。
夜露に濡れた馬具の胸懸に、紛うこと無き東宮の御紋を打った金具が下げられていた。
位の高くない武官であればご尊顔を見知っておらずとも、決して御紋だけは見誤ることはない。
武官はただちに膝を折った。
別の武官が手綱を受け取り、丁重に御馬を預かった。
「奥に。書司の和泉椿さまが既にお入りにございます」
夜駆けのまま突如現れた東宮を前に、驚きはあった筈だ。
だが面には職務に徹する緊張があり、その乱れた装束を見て見ぬ振りし、まずは命を待つ直向きさがあった。
「姉さまが……」
紬路の胸に、細く張り詰めていたものが僅かに緩んだ。
広縁を駆ける。
普段ならば礼を欠くなど考えられぬ邸であったが、今は誰も咎めなかった。
襖の向こうから、薬湯の匂いと、炭の熱と、薄く張り詰めた祈りの気配が流れて来る。
奥の間には、姉の椿がいた。
いつものように乱れなく座しているはずの姉の顔には、疲労の色が浮かんでいた。
だが、その眸は澄んでいる。
言霊を扱う和泉の姫として、今まさに死の縁から人を引き戻した者の、静かな強さがあった。
「紬路」
「姉さま、佐伯翁は……」
「一命は取り留めました。陰陽寮に友人が居るそうね。彼らが一丸となって知らせてくれたから、間に合ったの」
「良かった……」
「賊に神器を持ち出される夢をご覧になったそうよ」
その言葉に、紬路の膝から力が抜けかけた。
東風がすぐ横で支えてくれる。
倒れこむほどではないのに、その手の確かさだけで、ようやく身体が自分のものに戻って来る心地がした。
部屋の隅には、和装の男が控えていた。
黄丹の眩しい衣も、名代としての影も脱ぎ捨てた直橘だ。
「直橘」
紬路が名を呼ぶと、彼は少しばつが悪そうに頭を下げた。
「このような姿で失礼いたします。夜通し詰めておりました」
「無事で良かった」
その言葉は、思っていたよりも早く口をついて出た。
撫子の企みに巻き込まれ、身代わりとされ、心すら縛られかけた男である。
彼が生きて此処に居ることに、紬路は胸の底から安堵していた。
直橘は一瞬、目を見開いた。
それから、深く頭を垂れる。
「……恐れ入ります」
「さすがお前ね。よくやったわ」
「しかし、何も覚えていないのです……異能とは、怖ろしいものですね」
その言葉の端に、僅かな揺らぎがあった。
何処か空白をなぞるような、頼りなさがある。
何を見て、何を思い、何をしたのか。
その一切が、まるで初めから存在しなかったかのように、記憶が欠落しているのだ。
「お守りできて良かった」
その言葉が、東風と本来の主人たる紬路のどちらへ向けられたものか判らないが、紬路の胸に熱いものが込み上げた。今更ながら自分の身体が震えていたことに気付いた。
信を得るということは、なんと尊いことだろうか。
そして、これ程までに華族の姫に忠誠を誓える青年を、魅了で絡め取った撫子。
心で誘ったのではない。ただ、意志を削ぎ、向きを変えた。奪うことを、奪うとも思わぬままに、人の在り方を道具のように扱う。
その冷たさが、今になって際立ってくる。
夜はまだ深い。
夜半を少し回ったばかりであった。
医師が出入りし、薬湯が運ばれ、姉は短い言葉を結んでは氷嚢を変え、佐伯翁の様子を見守っている。
東風は邸の外と内とを静かに統べ、内裏の霍成へ早馬を飛ばし、温明殿の警固と神器の還御の様子を確認している。
紬路は、ただ待った。
けれど此度の待つ間は、内裏の昭陽北舎で文子と二人きり、息を詰めていた時とは違っていた。
姉がいる。東風がいる。直橘もまた此処にいる。
誰もがそれぞれの役目を果たしていて、その中で自分もまた、確かに一つの役目を果たしたのだと知っていた。
夜が明ける頃、六条別邸の端正な庭に白い光が差した。
霜の降りた枝が、朝日を受けてときどき光を返す。
昨日まで宮中を覆っていた陰謀の霞が、少しずつ晴れていく。
それぞれが短い仮眠を取り、再び様子を見に集まるうちに、時は昼近くになっていた。
やがて、医師がようやく部屋から出て来た。
「容体は落ち着かれました。長くはなりませぬが、四半刻ほどならば」
「四半刻……」
紬路が呟くと、医師は頷いた。
「十五分程にございます。くれぐれも、長居なさらぬよう」
東風は深く頷き、紬路の方を見た。
「参りましょう」
二人は、佐伯翁の部屋へ入った。
室内は静かだった。
香の匂いは薄く、薬湯の匂いの方が強い。
障子越しに差す冬の光が、寝所の縁を淡く照らしていた。
佐伯翁は、褥の上に身を起こしていた。
頬は痩せ、顔色もまだ戻りきってはいない。
けれど、その目には、いつもの穏やかな知恵の光が宿っていた。
「おお、東宮殿下。紬路姫」
「ご無理をなさらないでください」
紬路は思わずそう言った。
佐伯翁の面には血の気が乏しく、起き上がるだけでも苦しいはずだった。
それでも翁は息を深く整え、目元だけで笑ってみせる。
その笑みは、入侍という名の華燭へ向かったあの朝と少しも変わらなかった。
「これで一件落着しそうですな」
ふと、別の疑問が胸を過る。
撫子は、一体誰に皇統を移そうとしていたのか。
だが、その答えを今ここで求める必要はない。
思考を一つ脇へ置き、病床の老翁に向き直る。
「翁」
東風が低く呼ぶ。
「まだ油断はできません。あなたの御身が何より」
「御身大切になさってください」
紬路も続けた。
佐伯翁は、静かに目を細める。
「儂は……臣籍降嫁された姫宮さまを頂いて、一の位にも上りつめた。存外に、幸せな人生だった」
その言葉には誇りがあった。
けれど、自らの栄達を誇るものではない。
誰かと共に歩み、国の中枢に身を置き、藩塀たらんとする役目を果たして来た。
その年月全てへ、深く頭を垂れるような響きであった。
「二人の息子にも恵まれて、それぞれ左大臣、右大臣となっておる。親として、これ以上のことがあろうか」
「では尚のこと。その幸せをまだ長くお守りください」
東風は、少し眉を寄せた。
「人生に心残りはない」
佐伯翁はそう言ってから、僅かに息を置いた。
「……と言いたいが、どんなに長く生きても、望みは尽きぬものです」
紬路は、黙ってその言葉を聞いた。
佐伯翁は、上半身を起こしたまま視線を部屋の外へ向けた。
六条の庭ではない。もっと遠いところを見ている。
海の向こう、まだ見ぬ外つ国の港、賑わう市場、そういったものだ。
「外つ国と対等に付き合い、商いを通じて販路を増やさなくてはならない」
その声に、紬路は身じろぎもせず聞き入った。
「国は、刀だけでは守れぬ。祈りだけでも、血筋だけでも守れぬ。民が飢えず、職を持ち、物が巡り、銭が巡り、外へ売るものを持ち、内へ取り入れる知恵を持ってこそ守られる」
東風の眸が、静かに深まる。
それは政の言葉だった。
けれど紬路には、不思議と遠い話には聞こえなかった。
絹を選び、客の心を読み、つつ屋で一反を売って来た日々の延長に聞こえたからだ。
「やがて世界は、通貨を通して一つの競い合いを始める」
佐伯翁は、ゆっくりと言った。
「金の流れを制する者が、物の流れを制する。物の流れを制する者が、人の暮らしを左右する。武で負けずとも、商いで膝を折らされる国もあろう。条約で名を奪われずとも、銭で魂を削られる国もあろう」
室内に、重い沈黙が落ちた。
「儂と、先に御薨去された姫宮の人生のあった、この国を」
佐伯翁の声が、少しだけ低くなる。
「儂の愛した人々を。子を、孫を、そしてこれから生まれる者たちを。今後も守るために、経世済民の長く続くことだけが、最後の願いだ」
経世済民。
世の理を読み、その流れを経めて、民を済うこと。
――此れよりの世、人の上に立つ者にこそ求められる資質である。
佐伯翁は、東風を見た。
「殿下。あなたは、いずれこの国の頂に上られる」
「まだ、遠い話です」
「遠い話のうちから、考えておくものです」
老翁は、少しだけ笑った。
「最高権威者として立たれてから考え始めたのでは、もう遅い」
東風は答えなかった。
ただ深く、静かに頭を下げた。
次に佐伯翁は、紬路を見た。
「紬路姫」
「はい」
「あなたは、異能なしの落ちこぼれなどではなかった。布を見れば人の望む姿を見抜き、言葉を交わせば心の滞りを見抜く」
その言葉は、褒められているというより、これまでの歩み一つ一つを静かに掬い上げられているようだった。
まだ自分の異能が判明したことさえ知らぬ筈であるのに、俯いていた頃の自分まで、否定せずに見届けられていたのだと思うと、胸の奥が熱くなる。
「でも、……わたくし一人の力ではございません」
咄嗟に守りたいと思った佐伯翁との縁、あるいは文子との縁。
何がきっかけで発動したかも判らない。
否、異能のことだけでなく、周囲の皆が少しずつ力を貸して来てくれて、今の紬路を形作っている。
「だからよいのです」
佐伯翁の声は、微かに掠れていた。
それでも、その一語一語は、はっきりと紬路の胸に届いた。
「紬路姫」
佐伯翁は、祈りを込めるように、二人を見た。
「東宮殿下と手を取り合い、この国を経世済民の強い国にしてはくれまいか」
東風が、そっと隣に立つ。
二人の袖が触れるほど近い。
隣に立つことを許されるだけではない。
既に、共に歩むことを求められている距離だった。
縁談が途絶え、嫁かず後家となるしかないと思っていた。
異能なしと嗤われ、誰にも見せぬよう意地を張って来たが、姉のようにはなれぬと心の底では僻んでいた。
けれど、反物を手に取ったあの日から、自分の道は少しずつ開けていた。
商いは、紬路を救った。
東風は、紬路を見つけた。
そして今、佐伯翁はその道を、この国の未来へと繋げるよう願っている。
紬路は膝を正した。
隣で、東風もまた静かに姿勢を改める。
今の彼は東風であり、同時に東宮でもあった。
恋した青年と、国を背負う皇子とが、漸く一つの姿として紬路の中で融け合い始めている。
「謹んで」
紬路は、はっきりと言った。
「尚彰殿下と共に、お受けいたします」
佐伯翁の顔に、深い安堵が広がった。
「翁。必ずや、あなたの心残りを、我らの務めといたします」
東風も続ける。
「紬路姫と共に」
佐伯翁は、満足げに目を細めた。
「ならば、儂ももう少しだけ生きねばならんな。欲のない商人ほど、頼りにならぬものはない。姿勢を見せねばならん」
医師が襖の外で、そろそろ、と控えめに声をかけた。
四半刻が、過ぎようとしているのだろう。
紬路は名残惜しさを覚えながらも、深く頭を下げた。
「また参ります」
「待っておりますよ」
佐伯翁は言った。


