見世蔵のつつじ姫 〜異能なし令嬢は東宮さまに溺愛される〜


 昭陽北舎(しょうようほくしゃ)には陰陽寮(おんようのつかさ)の者たちが整えていった筮竹(ぜいちく)、白い料紙、墨の残る(すずり)に、撫子(なでしこ)が抱えて乱入した三種の神器が床に散らばっている。
 温明殿(うんめいでん)より持ち出されたその(おそ)れ多き皇統の象徴(しるし)たちが、今、灯の下に打ち捨てられている。

 (つるぎ)を納めた長櫃(ながびつ)は、布越しにも冷たい威を放っていた。
 鏡は御袱紗(おんふくさ)の端から、月のような光をわずかに返す。
 勾玉(まがたま)は、小さな唐櫃(からびつ)の内で青く沈み、まるで夜の底に眠る星のようだった。

 ――(えにし)と、器と、(しるし)
 それらが揃った瞬間、紬路(つつじ)の身体から、白い煙のようなものが立ち上り始めた。

 紬路(つつじ)の胸の奥で、何かが音もなく裂けた。
 痛みではなく、けれど、身体の内側に閉じ込めていた何かが、ついに器を越えて溢れ出すような感覚だった。

紬路(つつじ)……?」

 文子(あやこ)の呼びかけが遠く聞こえる。

 煙は、香の煙に似ていた。
 けれど香よりも濃く、霧よりも透き通り、紬路(つつじ)の肩から、髪から、袖口から、次々と立ち昇ってゆく。
 それは昭陽北舎(しょうようほくしゃ)の天井を抜けるように広がり、やがて七殿五舎の空へ満ちた。

 夜であるはずの空が、白く煙る。
 光は薄いのに、それほど濃密なのだ。
 内裏(だいり)の屋根屋根の上、渡殿(わたどの)の向こう、閉ざされた門の内側にいる者たちが、次々と顔を上げた。

「あれは……」
「何事ぞ」
「空に、人影が――」

 霞の中に、顔が浮かび上がった。

 老いた男の顔だった。
 深い皺を刻みながら、目だけは今も鋭く、たとえ御簾(みす)越しであろうと大内裏(だいだいり)の全てを掌握し、見渡しているような顔。

 誰かが、震える声で言った。

「六条殿……」
(さき)太政大臣(だじょうだいじん)殿……」

 別の者が、(ひざ)をつきながら(つぶや)く。

佐伯(さえき)公……」

 (ざわ)めきが宮中(きゅうちゅう)を覆った。

 亡き(はず)の者の姿。
 (いや)、亡き者ではない。
 まだ息があるのか、既に呪詞(じゅし)に沈められたのか判然としない。
 ただ、その顔は確かに佐伯(さえき)(おう)であった。紬路(つつじ)を六条別邸から婚儀へ送り出した、あの老翁だ。

「煙の元はどこだ」
昭陽北舎(しょうようほくしゃ)だ」
東宮(とうぐう)妃の――紬路(つつじ)の梨壺更衣の御殿(ごてん)から」

 その言葉が走った瞬間、宮中の空気が変わった。
 文官武官を問わず、その場にいた者たちの顔色が変わった。

 若い者はただ異変に目を剥いている。
 だが、年(かさ)の者たちは違った。
 佐伯(さえき)翁を知っているのだ。

 (まつりごと)の場を退いた後も、大内裏(だいだいり)の均衡を陰から支えてきた老臣。
 その険しく引き結ばれた顔が霞となって宙に浮いた意味を、彼らはすぐに悟った。

 ある者は奥歯を噛み締め、ある者は手にした太刀の柄を改めて握り直す。
 佐伯翁に恩を受けた者。
 父の代から世話になった者。
 かつて一度、失脚を免れた者。
 銘々(めいめい)(えにし)の記憶が、それらの(おもて)に浮かんでいた。

 そして表の中庭へと、驚き現れ(いで)た梨壺更衣の顔とを見比べる。
 異能なき(ゆえ)に商いの才ばかりを頼み、禁中(きんちゅう)を洋装で練り歩き、(ことわり)から外れた者と見られていた姫。
 その姫が、ついに異能を開花させたのだ。

 それは伯爵華族、和泉(いずみ)一族の血に連なる力であった。
 姉のように現世(うつしよ)の言霊そのものを操るものではない。
 隠世(かくりよ)から死者を呼ぶ口寄せとも少しだけ異なっている。

 生きている者の、届かぬ声を預かる力。
 声にならぬ(まこと)を、この世の表へ託す力。
 託言(かごと)の異能である。

 霞の中の佐伯(さえき)公が、ゆるりと腕を上げた。
 その指先が、迷わず一人を示す。

 ――撫子(なでしこ)、元典侍(ないしのすけ)
 神器の剣を構えながら立ち尽くしていた撫子(なでしこ)の顔が、恐怖に引き()った。

(いや)……」

 (かす)れた声が漏れる。

(いや)よ。来ないで」

 霞の佐伯(さえき)公は、答えなかった。
 ただ忠臣として、最後の務めを果たす者の眼差しで、まっすぐに撫子(なでしこ)を見据えた。

 次の瞬間、白い煙の姿が流れた。

 それは刃ではないが、鋭かった。
 だが撫子(なでしこ)の身に(まと)っていた、最後の魅了の筋を解いた。

「きゃあぁーッ」

 撫子(なでしこ)が悲鳴を上げる。
 ()姉妹(きょうだい)の女房の胸へ慌てて飛び込んだが、その二人諸共(もろとも)、煙は撫子(なでしこ)を貫いていく。

 割れも欠けもせず、無事であった鏡の光が揺れる。
 取り落とされた床の剣が、重く震える。
 勾玉と匂玉とがぶつかり合い、玉響(たまゆら)の音を立てた。

 その音に、佐伯(さえき)公の影が更に濃くなった。

 三種の神器を何としてでも守る。
 皇統の象徴(しるし)を、(ぞく)の手に渡してはならぬ。
 その信念が、霞の姿のまま、(ほとばし)っていた。

 紬路(つつじ)は立っているだけだった。
 けれど、その身体はもう、ただの器ではなかった。

 (えにし)を結んだ紬路(つつじ)を通して老翁の信を問う表情が、内裏(だいり)の空を覆っている。
 奪われかけた神器の()が、紬路(つつじ)の異能を通して撫子(なでしこ)の罪を照らしている。

 誰もが見聞きした。
 もはや、噂ではない。
 魅了で(ゆが)められる余地もない。
 紬路(つつじ)の内から具現化された無言の(しるし)が、宮中(きゅうちゅう)の夜に(ただ)一つの真を(あらわ)していた。