東風は、度々五ツ蔵のつつ屋に顔を出すようになっていた。
反物や渡来ものを紬路と相談しながら選び、大量に買い付けてゆく。
「……随分と、思い切りがよろしいのね」
「必要なものを選んでいるだけですよ」
金の使い方に迷いはない。
糸や織りの生産工程を話すと、殊に興味を示す。
気がつけば、そうした際のやり取りを一人になって何度も思い返している。
舞踏練習を離れている間でさえ、東風の存在は大きくなりつつあった。
多忙なようで、今日の園遊会にも現れなかった。
だが、舞踏会には必ず参加すると約束してくれていた。
「壁の花で居るのは、お嫌でしょう?」
あのとき礼儀正しい顔のまま、双眸を細めた姿を思い出す。
余計なお世話だ、と言い返すことはできなかった。
二人とも、紬路が壁の花になるなどと本気では考えていない。
揶揄いとも励ましともつかぬ、ちょっとした戯れだった。
東風のことを考えると、稽古時の距離の近さまで、どうしても思い出される。
逃げ場のない近さで引き寄せられること。
背へ、掌が回されること。
洋礼装越しにも、相手の体温が伝わること。
踊りの足許は覚えていくのに、心だけがままならない浮遊感。
……あれを、人前で。
紬路は、指先で持扇の骨をそっと押さえた。
舞踏会は、もうすぐだ。
その時だった。
園遊会の入口の辺りで、ざわりと人の流れが割れた。
騒めきが、波のように伝わって来る。
門のあたりから、庭の奥へ。
人の集まる場所から、さらにその外側へ。
「東宮殿下が――」
「お出ましに……!」
押し殺した言葉が、低い波紋となって広がった。
それまでの笑いが、一つずつ消えていく。
扇の揺れも、茶器を持つ手も、誰もが僅かに止めた。
人垣の奥で、一際濃い色が揺れる。
やがて、若い男が姿を現した。
その衣の色に紬路は息を呑む。
――黄丹。
千年以上に渡り、禁色として人から遠ざけられてきた色。
陽を受けて、静かに、しかし確かに光を返す。
ただ眩しく鮮やかなばかりではない。
見る者の目を、逸らさせぬ色だった。
周囲の人々が、一人、また一人と身を引く。
道が、自然に開けてゆく。
頭を垂れる気配が、連なって伝わる。
その中を、彼は緩やかに進んでくる。
歩みは静かで、けれど一分の隙もない。
紬路は、気付かぬうちに息を止めていた。
「……え」
だが、思わず声が漏れた。
その面差し、その目の光。
見間違えようもない。
直橘だった。
どうして此処に、どうしてその禁色で。
あり得ない。
東宮に身をやつした直橘は人々の間を抜け、やがて菊の並ぶ一角へと歩みを進めた。
周囲の娘たちが息を詰めるように見守る中、ふと足を止める。
視線が、此方へ向いた。
紬路は咄嗟に目を伏せる。
次の瞬間には足音が近づいていた。
「……そちらのご令嬢」
他人《ひと》には届かぬ距離で、言葉が置かれる。
顔を上げると、直橘はすぐ其処にいた。
「はい」
今、この場では、直橘は東宮と見なされている。
紬路の私的使用人とはいえ、返事をせぬわけにはいかない。
周囲の視線も少しずつ集まって来ている。
直橘に手を引かれ、紬路は茂みの陰へと引き込まれた。
その直後、撫子のいるあたりから憤怒と怨嗟の籠もった甲高い悲鳴が上がる。
ずっと紬路に視線を向けて、一部始終を見ていたのだ。
「――東宮殿下が……!」
「お姿が、見えませぬ……!」
騒めきが一気に膨れ上がり、人の流れが乱れる。
本来ならば、その中心にいるべき――と、今はされている人物が此処に居るのだ。
「紬路お嬢様」
直橘の調子は低く、抑え込まれている。
二人きりになればその装いは解け、いつもの言葉へと戻る。
直橘は周囲に目を配ってから、目深に被っていた雑袍を脱いだ。
「今、自分は東宮殿下の身代わりの影として、内裏に寝起きしております」
その言葉が、内側に深く沈む。
意味が形を結ぶ前に、重さだけが残った。
「……影」
思わず、繰り返した。
その一語が、現実から少し外れたもののように響く。
「はい」
彼は頷き、さらに身を寄せる。
他へ漏れぬようにと、距離を詰める所作だった。
「急ぎ、申し上げたいことがございます」
一瞬、言葉を切る。
茂みの陰は外の喧噪が嘘のように近く、そして遠い。
「御身――狙われていらっしゃいます」
外の騒めきが、波のように押し寄せ、また遠のいた。
「……これ以上は、口止めされております。戻らねばなりません」
それだけ告げると直橘は踵を返した。
呼び止める間もなく、その背は喧騒の中へと溶けてゆく。
反物や渡来ものを紬路と相談しながら選び、大量に買い付けてゆく。
「……随分と、思い切りがよろしいのね」
「必要なものを選んでいるだけですよ」
金の使い方に迷いはない。
糸や織りの生産工程を話すと、殊に興味を示す。
気がつけば、そうした際のやり取りを一人になって何度も思い返している。
舞踏練習を離れている間でさえ、東風の存在は大きくなりつつあった。
多忙なようで、今日の園遊会にも現れなかった。
だが、舞踏会には必ず参加すると約束してくれていた。
「壁の花で居るのは、お嫌でしょう?」
あのとき礼儀正しい顔のまま、双眸を細めた姿を思い出す。
余計なお世話だ、と言い返すことはできなかった。
二人とも、紬路が壁の花になるなどと本気では考えていない。
揶揄いとも励ましともつかぬ、ちょっとした戯れだった。
東風のことを考えると、稽古時の距離の近さまで、どうしても思い出される。
逃げ場のない近さで引き寄せられること。
背へ、掌が回されること。
洋礼装越しにも、相手の体温が伝わること。
踊りの足許は覚えていくのに、心だけがままならない浮遊感。
……あれを、人前で。
紬路は、指先で持扇の骨をそっと押さえた。
舞踏会は、もうすぐだ。
その時だった。
園遊会の入口の辺りで、ざわりと人の流れが割れた。
騒めきが、波のように伝わって来る。
門のあたりから、庭の奥へ。
人の集まる場所から、さらにその外側へ。
「東宮殿下が――」
「お出ましに……!」
押し殺した言葉が、低い波紋となって広がった。
それまでの笑いが、一つずつ消えていく。
扇の揺れも、茶器を持つ手も、誰もが僅かに止めた。
人垣の奥で、一際濃い色が揺れる。
やがて、若い男が姿を現した。
その衣の色に紬路は息を呑む。
――黄丹。
千年以上に渡り、禁色として人から遠ざけられてきた色。
陽を受けて、静かに、しかし確かに光を返す。
ただ眩しく鮮やかなばかりではない。
見る者の目を、逸らさせぬ色だった。
周囲の人々が、一人、また一人と身を引く。
道が、自然に開けてゆく。
頭を垂れる気配が、連なって伝わる。
その中を、彼は緩やかに進んでくる。
歩みは静かで、けれど一分の隙もない。
紬路は、気付かぬうちに息を止めていた。
「……え」
だが、思わず声が漏れた。
その面差し、その目の光。
見間違えようもない。
直橘だった。
どうして此処に、どうしてその禁色で。
あり得ない。
東宮に身をやつした直橘は人々の間を抜け、やがて菊の並ぶ一角へと歩みを進めた。
周囲の娘たちが息を詰めるように見守る中、ふと足を止める。
視線が、此方へ向いた。
紬路は咄嗟に目を伏せる。
次の瞬間には足音が近づいていた。
「……そちらのご令嬢」
他人《ひと》には届かぬ距離で、言葉が置かれる。
顔を上げると、直橘はすぐ其処にいた。
「はい」
今、この場では、直橘は東宮と見なされている。
紬路の私的使用人とはいえ、返事をせぬわけにはいかない。
周囲の視線も少しずつ集まって来ている。
直橘に手を引かれ、紬路は茂みの陰へと引き込まれた。
その直後、撫子のいるあたりから憤怒と怨嗟の籠もった甲高い悲鳴が上がる。
ずっと紬路に視線を向けて、一部始終を見ていたのだ。
「――東宮殿下が……!」
「お姿が、見えませぬ……!」
騒めきが一気に膨れ上がり、人の流れが乱れる。
本来ならば、その中心にいるべき――と、今はされている人物が此処に居るのだ。
「紬路お嬢様」
直橘の調子は低く、抑え込まれている。
二人きりになればその装いは解け、いつもの言葉へと戻る。
直橘は周囲に目を配ってから、目深に被っていた雑袍を脱いだ。
「今、自分は東宮殿下の身代わりの影として、内裏に寝起きしております」
その言葉が、内側に深く沈む。
意味が形を結ぶ前に、重さだけが残った。
「……影」
思わず、繰り返した。
その一語が、現実から少し外れたもののように響く。
「はい」
彼は頷き、さらに身を寄せる。
他へ漏れぬようにと、距離を詰める所作だった。
「急ぎ、申し上げたいことがございます」
一瞬、言葉を切る。
茂みの陰は外の喧噪が嘘のように近く、そして遠い。
「御身――狙われていらっしゃいます」
外の騒めきが、波のように押し寄せ、また遠のいた。
「……これ以上は、口止めされております。戻らねばなりません」
それだけ告げると直橘は踵を返した。
呼び止める間もなく、その背は喧騒の中へと溶けてゆく。



