「紬路姫」
東風は、低く名を呼んだ。
先ほどまで三日夜の吉日を告げていた部屋の空気は、もう甘やかなものではなかった。灯は同じように揺れているのに、火影の縁までもが鋭く尖って見える。
「私は閉門を命じてくる。左近衛、右近衛も呼びに遣る。文子姫と離れないでください。この昭陽北舎に籠もって」
「東風……」
呼び止めようとした声は、喉の奥で頼りなく細った。
違う。今は東風ではなく、殿下とお呼びすべきなのだろう。
それでも、胸の奥で真っ先に浮かぶ名は、やはり東風だった。
紬路にとって、彼はまだ、あの舞踏の練習で手を取ってくれた東風なのだ。
東風は一瞬だけ振り返り、紬路の方へ歩み寄ると、触れるか触れないかの距離でその肩先へ手を伸ばしかけた。
だが、その手は途中で止まる。
代わりに、ほんの僅かに身を屈めた。
息が、触れる。
言葉になるよりも先に、距離が失われた。
唇が、触れた。
深くではない。
確かめるように、一瞬だけ。
それだけで、胸の奥が強く打つ。
逃げる間も、戸惑う間もなかった。
次の瞬間には、もう離れている。
東風は何事もなかったかのように距離を取り、僅かに目を伏せた。
その表情には、先ほどまでの静けさとは異なる、押し留めた何かが滲んでいた。
「必ず戻ります」
それだけを残して、東風は出て行った。
衣擦れの音が遠ざかるにつれ、昭陽北舎の内は、外界から切り離されたように深く沈んでゆく。
紬路は文子と向かい合い、ただ待った。
待つということが、これほど恐ろしいものだとは知らなかった。
何かが起こっていると判っている。
しかもそれは、自分を大切にしてくれた老翁の身に迫っている。
それなのに、自分の足で其処へ向かうこともできないでいる。
「大丈夫よ」
文子が言った。
その手は膝の上で強く握られている紬路の手の上に優しく重なる。
女学校の頃、試験の前夜に震えていたときと、どこか似ていた。
「……本当に?」
「ええ。少なくとも、あなたを一人にはしないわ」
その言葉に、紬路は小さく頷いた。
外では、遠く人の走る足音がする。
門を閉じる声、誰何する声、何かを押し留めようとする慌ただしさが、夜の底を波のように伝って来た。
その時だった。
御簾の向こうで、何かが倒れる音がした。
続いて、荒い息遣い。
衣を引きずる音。制止する女房の悲鳴が、途中で断ち切られる。
次の瞬間、撫子が飛び込んで来た。
髪は乱れ、結い上げたはずの黒髪が幾筋も頬に張りついている。
艶やかだった衣は裾を引き裂き、重ねの色も乱れていた。
それでもなお、撫子は美しかった。
美しいからこそ、その崩れ方が、見る者の息を詰まらせるほど痛々しい。
その腕には、錦に包まれた重みが抱えられていた。
濃い紫の御袱紗の間から、冷たい金属の光が僅かに覗く。
鏡の縁らしきものが灯を受け、淡く白い光を返した。
周囲にばら撒いている布の内には、長い箱がある。剣を納めるものだと、見ただけで知れた。
それから小さな唐櫃の紐がほどけかけ、勾玉を連ねたような翡翠が青くはみ出ている。落とした拍子に箱が割れたのだろう。
乳姉妹と思しき女房が、その後ろから縋るように現れる。
彼女もまた青ざめていた。
二人がかりでなければ、持ち出すことなどが適わなかったのだろう。
「紬路――ッ」
撫子は、名を裂くように呼んだ。
掠れた響きの底に、燃え尽きぬ憎しみだけが残っている。
「あなただけは許さない」
「……わたしが、何をしたと?」
「うるさいわッ!」
撫子の唇が震える。
次の瞬間、その言葉は、もう形を保たなかった。
「うるさい! うるさい!」
「撫子ッ」
名を呼ばれても、撫子は止まらない。
内側で、支えていたものが音を立てずに崩れ落ちていく。
怒りか、嫉妬か、悔しさか。
もはや本人にすら、分けて扱うことはできないのだろう。
「どうして……どうして、あなたなの」
唇の端から、独り言のように漏れる。
「わたくしが選ばれる筈だったのに。……だから、わたくしがお兄様に渡すのよ」
周囲の空気が、ひやりと強張った。
「婚儀を結び、皇統を……」
そこまで言って、撫子ははっと口を閉ざした。
だが、もう遅い。
語られるはずのなかった企ては、確かに独白としてその場へ落ちていた。
神器を渡し、婚儀によって血筋を移す。
それは、皇統そのものを奪おうとする言葉だった。
皇位簒奪だ。
本来の継承を退け、神器をもって、別の者を帝に立てるつもりなのだ。
文子が、紬路の背後から袖を広げて前へ出た。
皇統を害すつもりがあるのなら、東宮妃たる親友も危ないと見たのだ。
その背は大きくはない。けれど、逃げぬ決心をした静かな強さがあった。
撫子は、初め文子をただの女房と思ったようだった。
だが、火影が文子の顔を照らした瞬間、その目が見開かれる。
「……文子?」
名を呼ぶ声には、驚きと、蔑みと、そして思い出したような怒りが混じっていた。
ともすれば、撫子が紬路に向ける憎悪以上のものだ。
女学校の中庭、すれ違いざまに交わした笑み。密やかな噂。そうした古い空気が、三人の間に一瞬だけ蘇った。
「へぇ。あなたも入内でもしたの」
撫子は、歪んだ笑みを浮かべた。
その視線が、文子の陰陽衣を舐めるように辿る。
「嘘よ、聞いてるわ。大変な評判だそうじゃない。あなたの洞見の異能」
「撫子……」
「うるさいのよッ」
撫子は、剣を持ち上げた。
その拍子に、鏡を包んだ布がずれ、丸い光が一瞬だけ部屋の壁を走り、鏡が落ちた。
誰の顔も映していないはずなのに、その光は妙に生き物めいて、紬路の胸を冷たく撫でた。
「そうか。お前が先を見て、注進して回っていたのね。道理で」
撫子は、そこで漸く腑に落ちたように目を細めた。
「紬路が入侍する前から、東宮を挿げ替えておけたのも。こちらが標的を変える度、一緒に練った計画が少しずつ狂っていったのも。……全部、お前が居たからなんだわ」
唇が歪む。剣を構え直す。
長く絡まっていた不首尾の糸が、今、一つの名へ結び直されていく。
納得は慰めにならず、逃げ場を失った憎しみだけを、ありありと形にした。
「全部、お前の所為だったんだわ。お前は出会ったときから、わたくしの天敵だった」
「……」
「おのれ文子、絶対に許さないわ。末代まで祟ってやる」
文子の肩が、ひくりと強張った。
けれど、紬路の前から退くことはなかった。
震えを呑み込むように息を整え、撫子を正面から見据える。
「どうして、神器を……」
その問いは責めるというより、祈りに近かった。
まだ引き返せる場所がどこかに残っているのだと、探しているようだった。
撫子は笑った。
笑いながら、泣いているようにも見えた。
「帝でも東宮でも、どちらだって構わなかったわ。妃になりたかっただけよ!」
言葉が落ちた瞬間、昭陽北舎の内の空気がひどく遠くなった。
「……あさましいわ」
文子の言葉が落ちた。
錆びついているとはいえ、抜き身の剣を前にしているというのに、退く気配はない。
怒りに任せて踏み込むのでもなく、ただ、堪えきれぬものを抱えた背が、すぐそこにあった。
「そんなことのために……翁を……」
紬路も続ける。
文子独りを立ち向かわせる訳にはいかない。
翁。
六条別邸の門口に立つ、佐伯翁の姿が浮かぶ。
入侍する朝、謀叛の罪を着せられた父に代わって祝してくれた人。
いつも、此方がまだ見ぬ悲しみまで知っているような眸をしていた。
それでも最後には、必ず笑ってくれた人だった。
その笑みが、不意に遠ざかる。
手を伸ばしても届かぬ場所へ、連れ去られていくように。
否。
遠ざかったのではない。
――紬路の内側へ、沈み込んで来た。
身体の奥で、何かが開く。
言葉にならぬものが、深い水底から立ち上がってくる。
自分のものではない記憶が、指先を通って流れ込んで来る。
古い香の匂い。
冷えた畳。
閉じた瞼の裏に残る、赤く歪んだ呪の人形。
そして、穏やかな老いの気配を帯びた言葉が、喉の奥から迫り上がる。
それは確かに、佐伯翁のものだった。


