見世蔵のつつじ姫 〜異能なし令嬢は、東宮さまに溺愛される〜

 六条別邸では、異国商館の者を招いた晩餐が、時折(ときおり)(もよお)された。

 (まつりごと)の表舞台を退いてなお、佐伯(おう)の眼は衰えていない。
 その視線は、内裏(だいり)の奥よりも、海の向こうとの貿易へ向けられているようだった。

 絹、染料、硝子(ガラス)、香辛料、時計、薬種。
 卓上に並ぶ皿や杯の陰で、品と銭と人の流れの話が、静かに行き交う。

 紬路(つつじ)は初め、六条別邸の晩餐をただの礼儀作法の稽古場だと思っていた。
 銀器の扱い、異国風の食事、会話の()の取り方。
 商いに携わる娘として()ずかしくないように、と。

 けれど幾度か席を重ねるうち、そうではないと知った。
 この席で置かれる一言で次の船荷が変わり、値が変わる。
 遠い港で働く者の暮らしまで、ときには変わってしまう。



 その夜も、招かれた客人はよく笑い、よく飲み、華やかな約束を残して帰って行った。
 彼らの言葉はどこか菓子のように甘く、油断すればその上辺の心地よさだけが舌に残る。

 佐伯翁は笑って受け流し、時折わざと耳の遠い振りをする。

 交渉の表に立つのは、主に東風(こち)だった。

 通詞(つうじ)も控えてはいたが、出番は(ほとん)どない。
 異国の者が言い終えるより先に、東風(こち)は言葉の含みまで拾っていた。
 流暢な洋語で渡り合い、穏やかな笑みのまま、相手の言葉の奥へ問いを差し入れていく。

 商館の者がこの国の絹を褒めれば、東風(こち)は産地の名を伝える。
 安い染料の話が出れば、なぜ()つ国ではその値で出せるのかを尋ねる。
 新しい機械の利便を説かれれば、工場労働者の賃を何でもない顔で聞き返す。

 どの問いも、礼を失してはいない。
 むしろ相手を立てるような口ぶりだ。
 なのに、答えるうち、相手の方が少しずつ言葉の置き場を失っていく。

 紬路(つつじ)は、その度に不思議な気持ちになった。
 この青年は、()(まで)会ったどの華族とも、見世で相手にして来たどの客とも違う。

 心地よく(くつろ)がせながら、真に聞くべきことだけは決して取り逃がさない。
 その鮮やかさが少し怖くて、晩餐の間、つい東風(こち)ばかりを目で追ってしまう。

 けれど、それはもう晩餐の席に限ったことではない。
 気付けばいつも、紬路(つつじ)の目は東風(こち)を探している。



 異国商館の者たちが帰った食堂には、冷めた紅茶の香りだけが残っていた。

 紬路(つつじ)は、忘れた手袋(グローヴ)を探しに戻っただけだった。

 その足が、食堂の奥でふと止まる。
 窓辺に、独り佇む人影があった。

「……東風(こち)

 呼びかけると、青年が振り向いた。
 姿勢も、着こなしも、指先の置き方も何一つ崩れていない。

 なのに、何度も間近に見た黒曜石のような双眸がやけに遠かった。

「お疲れかしら?」
「いいえ」

 東風(こち)は、いつものように微笑んだ。
 けれど紬路(つつじ)には、その笑みが妙に届かないものに見える。

 見世に立つようになってから、人の顔色を読む癖がついた。
 客の欲しいものと、口にするものは必ずしも同じではない。

 今の東風(こち)にも、それと似たものを感じる。

「異国商館との晩餐の後は、いつもこのように?」
「何か、変ですか?」
「いいえ。……お一人になった後の話です」

 東風(こち)の返事が、ほんの一拍遅れた。
 窓の外には、静まり返る六条別邸の庭が広がっている。

「ああ……人を下がらせて、風に当たっていただけです。少し、考えたいことがありましたので。姫に心配されるほど、弱く見えましたか?」
「いいえ。一人でいらっしゃる、強く見える方ほど、こうした時間もあるかとは存じます」

 言ってから、出過ぎたことを口にしたと気付いた。
 けれど東風(こち)は暗い(かげ)りを帯びたまま、窓の外を見ていた。

「晩餐の席では、皆、笑いますね」

 白い硝子(ガラス)窓の向こうで、木立の影が濃く沈んでいる。
 東風(こち)はその夜の闇を見つめたまま、静かに続けた。

「商館の者は、この国をよい市場だと言う。ただ、異国の品の流れが速まれば、必ず削れるものがある」
「削れるもの……」
「安い染料が入れば、古い染め場が傷む。機械が入れば、手仕事が押される。異国の銭が入れば、値の付け方まで変わる。港は賑わるでしょう。都も華やぐでしょう」

 安く、早く、同じものが幾つも揃う。
 それは確かに便利で、買う者にはありがたい。

 それでも、安さに慣れた客は、やがて手間の値を忘れる。
 渡来の安い品が棚を埋めれば、昔ながらの染め場や織り場は、同じ土俵では太刀打(たちう)ちできなくなる。

「その陰で、どこの手が痩せるのか。誰も()ぐには見ようとしない」

 紬路(つつじ)は黙って聞いていた。

「入って来る船来品を止めることは、もうできないでしょう」

 東風(こち)は窓の外を見たまま言った。

「ならば、こちらも出さねばならない。買う一方では、国が痩せ衰えてしまう。やがて生産技術を失くす悪循環に陥る。……()つ国の銭を入れる道筋が必要だ。()もなくば、いずれ都の華やぎも、ただの借り物となる」
()つ国へ、此方(こちら)の品を……?」
「はい。それも、この国でなければ作れぬものを。海の向こうの者が、相応の値を払ってでも手に入れたいと願うような」

 その言葉に、紬路(つつじ)生絹(すずし)の反物を思い出した。

 痩せた手。
 上から急がされた艶。
 無理を強いられた産地。

 あの一反の中に見えたものを、東風(こち)はもっと大きな流れの中に見ているのだ。

内裏(だいり)では、血筋と席次だ。誰を后妃に上げるか。どの家格の姫、どの大臣家の顔を立てるか。……大切なことなのでしょう。けれど、それ(ばか)りを見ていては――いえ、それのみを(はか)っていては、国は立ち行かない」

 この人は、誰かの縁談を語っているのではなかった。

 帝妃の席次も、宮中(きゅうちゅう)の奥にある遠い噂ではない。
 己が歩む道の背に、避け(がた)()しかかる重みとして語っている。

「失礼ですが、あなたは、どのようなお役目を?」
「外交と、(まつりごと)のようなものです」
治部省(じぶしょう)にお勤めなのかしら?」

 東風(こち)は、それには答えなかった。
 答えないことが、(かえ)って答えのように思われた。

 身にまとう品位。
 命じ慣れた物言い。
 周囲が自然に一歩引く気配。
 その全てが、一つの形へ寄っていく。

 この青年には、内裏(だいり)の奥でしか育たぬ、(こな)れた気配がある。

 けれど紬路(つつじ)は、()えてそこへ明瞭な名を与えなかった。
 そうしてしまえば、今この場にいる青年を、遠い御簾(みす)の向こうへ押し返してしまう気がしていた。

「私の(つと)めは……(ひと)つ見誤れば、災いは己一人に留まりません。けれど、身近に(はべ)る者の多くは、私一人を安堵させる言葉ばかりを選びます。――うまくいっております。問題はございません。御心(みこころ)のままに。そう告げられる度、肝心なものほど、言葉の外へ取り(こぼ)されている気がするのです」

 紬路(つつじ)の喉の奥が、きゅっと痛んだ。

 高い場所に立つ者は、多くの人に囲まれる。
 けれど、その人たちが皆、真実を言うとは限らない。
 近くに人が多い程、(かえ)って孤独になることもあるのだろう。

 この人は自ら傷付くことではなく、自分が見誤ることで誰かの暮らしを損なうことを怖れている。
 その重みを抱えながら、それでも遠くを見ようとしている人なのだ。

「お一人で全てお決めになれば、その重みがあなたの肩へ落ちます」

 言いながら、紬路(つつじ)は自分でも少し驚いた。
 けれど、言葉はもう止まらなかった。

「……ならば、せめてその少しでも、わたくしにも持たせてくださいませ。()つ国との商いも、()れから学びます」

 東風(こち)が、此方(こちら)を振り返った。

 今宵はずっと遠くにあった眼差(まなざ)しが、まっすぐ紬路(つつじ)へ戻って来ていた。
 その目に問われている心地がする。
 慰めではなく、本当にその重みを知る覚悟があるのか、と。

「では、……わたくしだけは、安心させる言葉を申し上げません。ずっと真実をお伝えします、とお約束しますわ」
「本当に?」
「ええ。……舞踏会が終わっても、お会いできる機会があれば、ですけれど」

 言ってから、少しだけ眼を伏せた。

 舞踏会が終われば、何もかも元へ戻る。
 稽古も、晩餐の席も、つつ屋へふらりと現れるこの人との時間も、終わりを迎える。

 そう思った途端、寂しさが静かに輪郭を持ち始めた。
 まだ名の付かぬ感情なのに、別れの形だけが先に見えている。

「お会いできる機会があれば、ですか」

 東風(こち)は、紬路《つつじ》の言葉を繰り返した。

「あなたは終わってしまえば、別れられるとでも思っているの?」

 その一言が、別れを当然のものとして薄く垂らしていた(とばり)を、指先で(すく)い上げるように揺らした。

 その向こうに、二人が別れない道もある。
 舞踏会の後も、この人との時間へ続いていく道が。
 見ないようにしていたその道が、夜の灯りに照らされるように、闇の奥から(ほの)かに浮かび上がった。

「……怖れを知らぬ方より、遥か遠くを見て、公平さを欠くことの怖さをご存じの方を、わたくしはずっと勇ましいと思いますわ」

 初めて逢った日に、答えを()らした時と同じだ。
 肝心な時に、言葉を届かない場所へ逃がしている。

 そう判っていて、紬路(つつじ)は慎ましく睫毛(まつげ)を伏せた。

 それ以上踏み込まれれば、この人を怖ろしく思わないどころか、有りうべからざる感情を認めてしまいそうだった。
 その孤独に触れたいと願い始めていることまで。

 東風(こち)は、ふっと笑った。
 真実を差し出すと約したばかりの娘が、自分の心だけは絹の奥へ隠そうとしている。
 そのいじらしさに触れるように、ほんの僅か、自嘲の色が口許を(かす)めた。

「守るだけなら、ここまで苦しくはならなかった」
「え?」
「いえ」

 東風(こち)は、窓硝子(ガラス)に映る夜の庭へ、再び視線を移した。
 けれど次に紡がれた言葉には、言い紛らすにはあまりに深い響きがあった。

「あなたに、もう一度、私と宮中(きゅうちゅう)を選んで頂かねばならない」

 もう一度。

 その響きに、紬路(つつじ)の胸の奥が(かす)かに揺れた。

 かつて自分が手放したものを、もう一度差し出されているような。
 あるいは、この人が長く抱えてきた悔いの名を、知らず聞いてしまったような。

 東風(こち)は、視座の高い宮中(きゅうちゅう)へ戻る人だ。
 紬路(つつじ)は、今や見世先へ戻る娘に過ぎない。

 それを(わきま)えていれば、傷付かずに済む(はず)だった。

 この人の言葉を、自分へ向けられたものとして受け取ってはならない。
 傷ついた心に()み入る言葉をくれるからといって、それを特別と思うなど、あまりに浅ましい。

 父の官位を足場に、誰かに選ばれる未来へ(すが)っていた娘。
 その足場を失って初めて、自分には何もなかったのだと思い知った娘。

 そんな娘が、万に一つ、東風(こち)に本当に見初められていたとして。
 それは救いではなく、破滅の入口だ。

 文子(あやこ)は言った。
 紬路(つつじ)の相は、皇統に触れている。

 女御として召されるならば、破滅を免れる。
 けれど更衣として召されれば、必ず破滅する、と。

 破滅するのは、紬路(つつじ)自身なのか。
 それとも紬路(つつじ)を通して、皇統へ災いが降りかかるという意味なのか。

 きっと文子(あやこ)にも()えなかったのだ。
 だから、あれ以上は言わなかった。

「私は最早(もはや)、あなたと道を分かつことはできないと思っている」

 惹かれてはならない。
 この人の孤独を見てしまったからといって、自分だけが寄り添えるなどと思ってはならない。

 そう思おうとするのに。
 別れられるとでも思っているの、という一言が、耳に残っている。

 静寂が垂れ込め、蜜蝋の影が短く揺れている。
 外の植木が夜風に擦れる音がした。

 ふと見ると、長卓の端に置き忘れた白い手袋(グローヴ)が一双あった。
 紬路(つつじ)はそこへ目を留め、(ようや)く本来の用を思い出す。

「それは、わたくしの忘れ物です」

 東風(こち)は手袋を取り上げ、此方(こちら)へ差し出した。

 紬路(つつじ)が受け取ろうとした拍子に、片方の手袋(グローヴ)(わず)かにずれる。
 白い布の端を追った指先が、ほんの一瞬、東風(こち)の指に(じか)に触れた。
 触れたのは指先だけなのに、互いに動く契機を失ったように、短い()が落ちる。

 先に離れたのは、紬路(つつじ)の方だった。
 けれど離した(そば)から、名残惜しさが薄く残ってしまう。

「あなたは舞踏会が楽しみですか?」
「……少しだけ」
「私は、まだあなたと離れたくない」

 本当は怖い。
 噂の中へ戻ることも。
 華族令嬢たちの目に晒されることも。

 けれど同時に、思ってしまう。

 そこへ行けば、この人が見ている景色の一端に触れられるのではないかと。

「不思議です。今夜は手を取り合って踊っている時より、あなたを近くに感じます」

 思わず(こぼ)れた言葉に、紬路(つつじ)自身が驚いた。

 それを受けて東風(こち)は、今夜初めて、本当に笑ったように見えた。

「私もです」

 紬路(つつじ)が惹かれているのは、甘い言葉だけではない。
 美しい顔立ちでも、舞踏の巧みさでもない。

 この人が、高い場所に立つ者の寂しさを抱えながら、独り遠くを見ているからだ。
 慰められる言葉に囲まれながら、誰よりも真実に飢えているような孤独。

 その陰の一端を見てしまってから、()つ国との貿易への憧れでは済まなくなっていた。

紬路(つつじ)姫」
「はい」
「あなたは、私が見落とすものを見てくれますか?」
「見落とすもの……?」
「そして、私が遠くを見過ぎる時は、足(もと)を支えて欲しい」

 それが踊りの話ではないことくらい、紬路(つつじ)にも判った。

 国を見る人の足(もと)を支える。
 遠くへ向けられた目が、すぐ(そば)の痛みを見落とす時、それを拾う。

 その役目を、紬路(つつじ)は求められている。

 それは、美しいと言われるより、ずっと深く響いた。

「では、東風(こち)さまも」
「私も?」
「わたくしには何もないと思い込む時は……違うと、仰言(おっしゃ)ってくださいますか」

 言い終えた後、顔が熱くなった。

 選ばれなかった痛みを、人に埋めてもらおうとしている。
 それが間違いだと、もう判っているのに。

 紬路(つつじ)が作るべき価値は、紬路(つつじ)自身の手で作らねばならない。
 見世に立ち、品を選び、客に向き合い、商いの中で少しずつ積み上げていくものだ。

 それでも、時々は崩れそうになる。
 その時に、違う、と言ってくれる人が欲しいと思ってしまった。

 浅ましい願いだろうか。

 そう思ったのに、東風(こち)は笑わなかった。
 困ったようにも、嬉し気にもならなかった。

 ただ、託されたものの重さを受け止めるように、まっすぐ紬路(つつじ)を見た。

「何度でも」

 短い答えだった。

「あなたは美しいだけの飾りではない。落ちぶれた姫でも、商いに身を置く姫でもない。私が見た紬路(つつじ)姫は、そのどれ一つだけにも当て()まり切らない」

 そうした呼び名のどれでもなく、東風(こち)紬路(つつじ)自身を見てくれている。

 何を見て、何を守ろうとし、何を美しいと思うのか。
 その一番奥を、まっすぐに。

「今は、これ以上は申しません」

 東風(こち)の声は穏やかだった。
 けれど、その奥にあるものは隠し切れていない。

「ですが、いずれ……」

 言葉の先を遮るように、外の気配が(にわ)かに動いた。
 遅れていた馬車が、門前へ近付いて来たのだ。

 車輪の音が、六条の夜へ静かに滑り込んで来た。