その日のうちに、噂は宮中を巡り始めた。
初めは、渡殿の端に落ちた小さな囁きだった。
それが女房の袖から袖へ、蔵人の足音の間へ、膳を運ぶ手元へと移っていく。
誰も大きくは語らない。
だが、誰もが知っている。
新帝の典侍であった撫子が、東宮殿下と取り違えて、雑色の男と契ったらしい。
しかも、その夜を境に、異能を失ったらしい。
噂は尾を引き、形を変え、やがて一つの結論へと収まっていった。
――魅了が揮われていたのよ、しかもその姫は、己の仕掛けた糸に絡め取られたらしいわ、と。
「撫子さまが、雑色と……」
誰も最後までは言わない。
けれど、言わぬからこそ、残された空白に人の想像が入り込む。
「まあァ」
「厭いやァだ、まさか!」
「……でも、あの取り乱しようは」
「華族令嬢として、もうお嫁に行けませんわね」
扇の陰で、女房たちの目が細められる。
怖れるべきことを口にしている筈なのに、零れる言葉には妙な艶があった。
ねっとりと舌に絡ませるように、人の失意を味わっているのが見て取れる。
高く咲いた花が、泥の上に落ちる。
その様を、誰もが憐れむ振りをして見たがる。
殊にその者は、宮中の女官女房に不本意な振る舞いを幾度も強いてきたのだ。
たとえ記憶に残らずとも、心の底には薄い澱のようなものが沈む。その残滓が、知らず知らずのうちに撫子という典侍の印象を曇らせていた。
紬路は、自分の昭陽北舎へ戻っても尚、あの対峙の場に漂っていた粘るような気配を振り払えずにいた。
勝った、とは思えなかった。
ただ、糸を一本、切っただけである。
その切れた糸の先が、どこへ跳ねるか。
まだ誰にも判らぬような心地がしていた。
やがて夕刻近くになり、東風と文子が訪れて来た。
続いて、陰陽寮から遣わされた占い道具も運び込まれる。
聞けば、文子がこの処忙しそうにしていたのは、正式に陰陽寮に官職を得たからだという。
「顔色が悪いわ、紬路」
男性と同じ直衣姿の文子は、座るなりそう言った。
「……少し、撫子に言い過ぎたかも」
「言わなければ、あなたが潰されていたわ。覚えていて? あなたは異能で運命を曲げられて、破滅する筈だったの」
「内裏で異能を揮ったのです。まして、人の心を縛った。やむを得なかったと考えます」
文子に続き、東風も言い添えた。
二人とも、慰めているのではない。
ただ、事実を事実として、紬路の前に置いている。
立っていられるだけの足場として。
「それに撫子は行き過ぎたのよ。魅了が崩れた以上、今度は皆、恨みも込めて自分の口で語り始めるもの」
紬路は目を伏せた。
恐ろしいのは、そこだった。
魅了に縛られていた者たちは、撫子を恨むだろう。己が操られていたことを認めたくない者もある筈だ。その羞恥や怨嗟は、形を変え、また別の噂になる。
「……準備ができたみたい。もう一度観るわね」
陰陽寮の庶務職の者たちが引いて行く。
灯は落とされ、白い料紙と筮竹は既に並べられていた。
薄闇の中、文子の横顔だけが、火影に淡く浮かんでいる。
「撫子の糸が切れたなら、紬路の未来も変わっている筈」
文子は束ねた筮竹を静かに捌いた。
細い竹の触れ合う音が、からり、と小さく鳴る。
現れた数を料紙に書き留め、また筮竹を分ける。
卜筮の気配は、華やかな占いではない。
ただ、まだ形にならぬものの輪郭を、暗がりから少しずつ掬い上げるような静けさがあった。
この数か月で、その所作もすっかり板についている。
紬路は、頼もしさを覚えながら文子を見ている。
「三日夜餅の……欠けた儀が、戻ろうとしてる」
紬路の指先が、膝の上で止まる。
どうして文子の口から、その言葉が出たのだろう。
まだ、話していないのに。
あるいは、東風が伝えたのだろうか。
どうも二人は、どこかで相談までしていた気配がある。
自分の知らぬところで自分を守るための糸が幾つも結ばれていたのだと思うと、ありがたくもあり、また少しだけ悔しくもあった。
「選び直す」
からり、とまた筮竹が鳴った。
紬路は、その言葉を胸の内で繰り返した。
あの夜、東風は触れなかった。
触れたいと言いながら、触れなかった。
更衣の身では子をなせぬ。
望まぬ形で、そなたに無体を働くつもりはない。
あのとき告げられた言葉が、今になって真の重みを持つ。
「此れ、成就なり」
文子が低く言った。
それから、くすりと笑う。
「まるでもう一度、吉縁が巡ってくるように見えるわ」
「文子……」
「あなたへの呪詞は解けたみたいよ。――よろしいではないの。今度は、餅にも文にも、誰にも邪魔されない夜になるわ」
頬に熱が上る。
紬路は嬉しいのか、恥ずかしいのか、自分でも判らない。
ただ、胸の奥が痛いほど高鳴っていた。
その時だった。
文子の手を離れた一本の筮竹が、ふいに料紙の上を転がった。
誰も押していない。
火鉢の炭が、ぱちりと小さく爆ぜる。
墨で書き留めた数の端が、じわりと滲んだ。
文子の顔色が変わった。
「……何」
文子の笑みが、すっと消えた。
料紙の上に、黒い染みのような影が浮かび上がっている。
墨ではない。
濡れているのでもない。
それなのに、紙の奥底が焼け爛れてゆくように、昏い色がじりじりと広がっていった。
「引き上げた呪詞の矛先が現れます」
文子の表情が強張った。
「誰に」
紬路は、自分の口から落ちた問いが、思いのほか冴えていたことに気づく。
文子は答えなかった。
いや、答えられぬのだ。
筮竹を取り落とすまいとするように押さえた指が、目に見えて震えている。
次の瞬間、料紙の端に、名が浮かび上がった。
――佐伯翁、怨。
紬路の喉が、ひゅっと鳴った。
「……佐伯翁が?」
問いというより、信じたくない事実を口にしただけだった。
その名が自分の中で形を持った途端、足元が崩れるような感覚がした。
東風が、すぐ横で料紙を覗き込む。
次いで、文子の手元へ目を移した。
「まだ、死ではありません」
断じるような一言だった。
紬路を落ち着かせるため、文子が先に発した言葉だった。
その間も、必死に料紙の滲みを追っている。
黒く浮いた文字の端を、逃すまいとするように、筮竹を握る指に力を込めていた。
「けれど、呪が向かっています。とても強い。古い血筋を、身内から身内へと辿る呪です。身に受ければ、老衰に見せかけて命を落とす」
紬路の脳裏に、六条別邸の門口に立つ老翁の姿が浮かんだ。
罪人と濡れ衣を着せられた父に代わって、婚儀へ送り出してくれた人。
いつも何もかもを知った上で、穏やかに笑っていた人。
「お助けせねば」
立ち上がろうとした、その時。
外から、慌ただしい足音が近づいた。
「東宮殿下、紬路の梨壺更衣さま」
女房が几帳の外に伏していた。
普段ならば衣の乱れ一つ見せぬはずの者が、肩で息をしている。
「急ぎのお召しでございます。蔵司から」
紬路が顔を上げると、女房は膝をついたまま、青ざめた面を更に伏せた。
次に告げることの重さに、己の身体まで支えきれぬようだった。
「温明殿にて……三種の神器が、持ち出された形跡があるとのご報告が入ったそうにございます」
その場の空気が、完全に凍った。
温明殿。
皇位の徴を納める殿。
皇統の証拠が持ち出され、害されようとしている。
撫子が出て来た、あの場所。
紬路は、ゆっくりと息を吸った。
佐伯翁への呪い。
消えた撫子。
そして、持ち出された三種の神器。
ばらばらに見えた糸が、一つ処へと結ばれていく。


