六条別邸では、異国商館の者を招いた晩餐が、時折催された。
政の表舞台を退いてなお、佐伯翁の眼は衰えていない。
その視線は、内裏の奥よりも、海の向こうとの貿易へ向けられているようだった。
絹、染料、硝子、香辛料、時計、薬種。
卓上に並ぶ皿や杯の陰で、品と銭と人の流れの話が、静かに行き交う。
紬路は初め、六条別邸の晩餐をただの礼儀作法の稽古場だと思っていた。
銀器の扱い、異国風の食事、会話の間の取り方。
商いに携わる娘として羞ずかしくないように、と。
けれど幾度か席を重ねるうち、そうではないと知った。
この席で置かれる一言で次の船荷が変わり、値が変わる。
遠い港で働く者の暮らしまで、ときには変わってしまう。
その夜も、招かれた客人はよく笑い、よく飲み、華やかな約束を残して帰って行った。
彼らの言葉はどこか菓子のように甘く、油断すればその上辺の心地よさだけが舌に残る。
佐伯翁は笑って受け流し、時折わざと耳の遠い振りをする。
交渉の表に立つのは、主に東風だった。
通詞も控えてはいたが、出番は殆どない。
異国の者が言い終えるより先に、東風は言葉の含みまで拾っていた。
流暢な洋語で渡り合い、穏やかな笑みのまま、相手の言葉の奥へ問いを差し入れていく。
商館の者がこの国の絹を褒めれば、東風は産地の名を伝える。
安い染料の話が出れば、なぜ外つ国ではその値で出せるのかを尋ねる。
新しい機械の利便を説かれれば、工場労働者の賃を何でもない顔で聞き返す。
どの問いも、礼を失してはいない。
むしろ相手を立てるような口ぶりだ。
なのに、答えるうち、相手の方が少しずつ言葉の置き場を失っていく。
紬路は、その度に不思議な気持ちになった。
この青年は、此れ迄会ったどの華族とも、見世で相手にして来たどの客とも違う。
心地よく寛がせながら、真に聞くべきことだけは決して取り逃がさない。
その鮮やかさが少し怖くて、晩餐の間、つい東風ばかりを目で追ってしまう。
けれど、それはもう晩餐の席に限ったことではない。
気付けばいつも、紬路の目は東風を探している。
異国商館の者たちが帰った食堂には、冷めた紅茶の香りだけが残っていた。
紬路は、忘れた手袋を探しに戻っただけだった。
その足が、食堂の奥でふと止まる。
窓辺に、独り佇む人影があった。
「……東風」
呼びかけると、青年が振り向いた。
姿勢も、着こなしも、指先の置き方も何一つ崩れていない。
なのに、何度も間近に見た黒曜石のような双眸がやけに遠かった。
「お疲れかしら?」
「いいえ」
東風は、いつものように微笑んだ。
けれど紬路には、その笑みが妙に届かないものに見える。
見世に立つようになってから、人の顔色を読む癖がついた。
客の欲しいものと、口にするものは必ずしも同じではない。
今の東風にも、それと似たものを感じる。
「異国商館との晩餐の後は、いつもこのように?」
「何か、変ですか?」
「いいえ。……お一人になった後の話です」
東風の返事が、ほんの一拍遅れた。
窓の外には、静まり返る六条別邸の庭が広がっている。
「ああ……人を下がらせて、風に当たっていただけです。少し、考えたいことがありましたので。姫に心配されるほど、弱く見えましたか?」
「いいえ。一人でいらっしゃる、強く見える方ほど、こうした時間もあるかとは存じます」
言ってから、出過ぎたことを口にしたと気付いた。
けれど東風は暗い翳りを帯びたまま、窓の外を見ていた。
「晩餐の席では、皆、笑いますね」
白い硝子窓の向こうで、木立の影が濃く沈んでいる。
東風はその夜の闇を見つめたまま、静かに続けた。
「商館の者は、この国をよい市場だと言う。ただ、異国の品の流れが速まれば、必ず削れるものがある」
「削れるもの……」
「安い染料が入れば、古い染め場が傷む。機械が入れば、手仕事が押される。異国の銭が入れば、値の付け方まで変わる。港は賑わるでしょう。都も華やぐでしょう」
安く、早く、同じものが幾つも揃う。
それは確かに便利で、買う者にはありがたい。
それでも、安さに慣れた客は、やがて手間の値を忘れる。
渡来の安い品が棚を埋めれば、昔ながらの染め場や織り場は、同じ土俵では太刀打ちできなくなる。
「その陰で、どこの手が痩せるのか。誰も直ぐには見ようとしない」
紬路は黙って聞いていた。
「入って来る船来品を止めることは、もうできないでしょう」
東風は窓の外を見たまま言った。
「ならば、こちらも出さねばならない。買う一方では、国が痩せ衰えてしまう。やがて生産技術を失くす悪循環に陥る。……外つ国の銭を入れる道筋が必要だ。然もなくば、いずれ都の華やぎも、ただの借り物となる」
「外つ国へ、此方の品を……?」
「はい。それも、この国でなければ作れぬものを。海の向こうの者が、相応の値を払ってでも手に入れたいと願うような」
その言葉に、紬路は生絹の反物を思い出した。
痩せた手。
上から急がされた艶。
無理を強いられた産地。
あの一反の中に見えたものを、東風はもっと大きな流れの中に見ているのだ。
「内裏では、血筋と席次だ。誰を后妃に上げるか。どの家格の姫、どの大臣家の顔を立てるか。……大切なことなのでしょう。けれど、それ許りを見ていては――いえ、それのみを謀っていては、国は立ち行かない」
この人は、誰かの縁談を語っているのではなかった。
帝妃の席次も、宮中の奥にある遠い噂ではない。
己が歩む道の背に、避け難く圧しかかる重みとして語っている。
「失礼ですが、あなたは、どのようなお役目を?」
「外交と、政のようなものです」
「治部省にお勤めなのかしら?」
東風は、それには答えなかった。
答えないことが、却って答えのように思われた。
身にまとう品位。
命じ慣れた物言い。
周囲が自然に一歩引く気配。
その全てが、一つの形へ寄っていく。
この青年には、内裏の奥でしか育たぬ、熟れた気配がある。
けれど紬路は、敢えてそこへ明瞭な名を与えなかった。
そうしてしまえば、今この場にいる青年を、遠い御簾の向こうへ押し返してしまう気がしていた。
「私の務めは……一つ見誤れば、災いは己一人に留まりません。けれど、身近に侍る者の多くは、私一人を安堵させる言葉ばかりを選びます。――うまくいっております。問題はございません。御心のままに。そう告げられる度、肝心なものほど、言葉の外へ取り溢されている気がするのです」
紬路の喉の奥が、きゅっと痛んだ。
高い場所に立つ者は、多くの人に囲まれる。
けれど、その人たちが皆、真実を言うとは限らない。
近くに人が多い程、却って孤独になることもあるのだろう。
この人は自ら傷付くことではなく、自分が見誤ることで誰かの暮らしを損なうことを怖れている。
その重みを抱えながら、それでも遠くを見ようとしている人なのだ。
「お一人で全てお決めになれば、その重みがあなたの肩へ落ちます」
言いながら、紬路は自分でも少し驚いた。
けれど、言葉はもう止まらなかった。
「……ならば、せめてその少しでも、わたくしにも持たせてくださいませ。外つ国との商いも、此れから学びます」
東風が、此方を振り返った。
今宵はずっと遠くにあった眼差しが、まっすぐ紬路へ戻って来ていた。
その目に問われている心地がする。
慰めではなく、本当にその重みを知る覚悟があるのか、と。
「では、……わたくしだけは、安心させる言葉を申し上げません。ずっと真実をお伝えします、とお約束しますわ」
「本当に?」
「ええ。……舞踏会が終わっても、お会いできる機会があれば、ですけれど」
言ってから、少しだけ眼を伏せた。
舞踏会が終われば、何もかも元へ戻る。
稽古も、晩餐の席も、つつ屋へふらりと現れるこの人との時間も、終わりを迎える。
そう思った途端、寂しさが静かに輪郭を持ち始めた。
まだ名の付かぬ感情なのに、別れの形だけが先に見えている。
「お会いできる機会があれば、ですか」
東風は、紬路《つつじ》の言葉を繰り返した。
「あなたは終わってしまえば、別れられるとでも思っているの?」
その一言が、別れを当然のものとして薄く垂らしていた帳を、指先で掬い上げるように揺らした。
その向こうに、二人が別れない道もある。
舞踏会の後も、この人との時間へ続いていく道が。
見ないようにしていたその道が、夜の灯りに照らされるように、闇の奥から仄かに浮かび上がった。
「……怖れを知らぬ方より、遥か遠くを見て、公平さを欠くことの怖さをご存じの方を、わたくしはずっと勇ましいと思いますわ」
初めて逢った日に、答えを逸らした時と同じだ。
肝心な時に、言葉を届かない場所へ逃がしている。
そう判っていて、紬路は慎ましく睫毛を伏せた。
それ以上踏み込まれれば、この人を怖ろしく思わないどころか、有りうべからざる感情を認めてしまいそうだった。
その孤独に触れたいと願い始めていることまで。
東風は、ふっと笑った。
真実を差し出すと約したばかりの娘が、自分の心だけは絹の奥へ隠そうとしている。
そのいじらしさに触れるように、ほんの僅か、自嘲の色が口許を掠めた。
「守るだけなら、ここまで苦しくはならなかった」
「え?」
「いえ」
東風は、窓硝子に映る夜の庭へ、再び視線を移した。
けれど次に紡がれた言葉には、言い紛らすにはあまりに深い響きがあった。
「あなたに、もう一度、私と宮中を選んで頂かねばならない」
もう一度。
その響きに、紬路の胸の奥が微かに揺れた。
かつて自分が手放したものを、もう一度差し出されているような。
あるいは、この人が長く抱えてきた悔いの名を、知らず聞いてしまったような。
東風は、視座の高い宮中へ戻る人だ。
紬路は、今や見世先へ戻る娘に過ぎない。
それを弁えていれば、傷付かずに済む筈だった。
この人の言葉を、自分へ向けられたものとして受け取ってはならない。
傷ついた心に沁み入る言葉をくれるからといって、それを特別と思うなど、あまりに浅ましい。
父の官位を足場に、誰かに選ばれる未来へ縋っていた娘。
その足場を失って初めて、自分には何もなかったのだと思い知った娘。
そんな娘が、万に一つ、東風に本当に見初められていたとして。
それは救いではなく、破滅の入口だ。
文子は言った。
紬路の相は、皇統に触れている。
女御として召されるならば、破滅を免れる。
けれど更衣として召されれば、必ず破滅する、と。
破滅するのは、紬路自身なのか。
それとも紬路を通して、皇統へ災いが降りかかるという意味なのか。
きっと文子にも観えなかったのだ。
だから、あれ以上は言わなかった。
「私は最早、あなたと道を分かつことはできないと思っている」
惹かれてはならない。
この人の孤独を見てしまったからといって、自分だけが寄り添えるなどと思ってはならない。
そう思おうとするのに。
別れられるとでも思っているの、という一言が、耳に残っている。
静寂が垂れ込め、蜜蝋の影が短く揺れている。
外の植木が夜風に擦れる音がした。
ふと見ると、長卓の端に置き忘れた白い手袋が一双あった。
紬路はそこへ目を留め、漸く本来の用を思い出す。
「それは、わたくしの忘れ物です」
東風は手袋を取り上げ、此方へ差し出した。
紬路が受け取ろうとした拍子に、片方の手袋が僅かにずれる。
白い布の端を追った指先が、ほんの一瞬、東風の指に直に触れた。
触れたのは指先だけなのに、互いに動く契機を失ったように、短い間が落ちる。
先に離れたのは、紬路の方だった。
けれど離した傍から、名残惜しさが薄く残ってしまう。
「あなたは舞踏会が楽しみですか?」
「……少しだけ」
「私は、まだあなたと離れたくない」
本当は怖い。
噂の中へ戻ることも。
華族令嬢たちの目に晒されることも。
けれど同時に、思ってしまう。
そこへ行けば、この人が見ている景色の一端に触れられるのではないかと。
「不思議です。今夜は手を取り合って踊っている時より、あなたを近くに感じます」
思わず零れた言葉に、紬路自身が驚いた。
それを受けて東風は、今夜初めて、本当に笑ったように見えた。
「私もです」
紬路が惹かれているのは、甘い言葉だけではない。
美しい顔立ちでも、舞踏の巧みさでもない。
この人が、高い場所に立つ者の寂しさを抱えながら、独り遠くを見ているからだ。
慰められる言葉に囲まれながら、誰よりも真実に飢えているような孤独。
その陰の一端を見てしまってから、外つ国との貿易への憧れでは済まなくなっていた。
「紬路姫」
「はい」
「あなたは、私が見落とすものを見てくれますか?」
「見落とすもの……?」
「そして、私が遠くを見過ぎる時は、足許を支えて欲しい」
それが踊りの話ではないことくらい、紬路にも判った。
国を見る人の足許を支える。
遠くへ向けられた目が、すぐ傍の痛みを見落とす時、それを拾う。
その役目を、紬路は求められている。
それは、美しいと言われるより、ずっと深く響いた。
「では、東風さまも」
「私も?」
「わたくしには何もないと思い込む時は……違うと、仰言ってくださいますか」
言い終えた後、顔が熱くなった。
選ばれなかった痛みを、人に埋めてもらおうとしている。
それが間違いだと、もう判っているのに。
紬路が作るべき価値は、紬路自身の手で作らねばならない。
見世に立ち、品を選び、客に向き合い、商いの中で少しずつ積み上げていくものだ。
それでも、時々は崩れそうになる。
その時に、違う、と言ってくれる人が欲しいと思ってしまった。
浅ましい願いだろうか。
そう思ったのに、東風は笑わなかった。
困ったようにも、嬉し気にもならなかった。
ただ、託されたものの重さを受け止めるように、まっすぐ紬路を見た。
「何度でも」
短い答えだった。
「あなたは美しいだけの飾りではない。落ちぶれた姫でも、商いに身を置く姫でもない。私が見た紬路姫は、そのどれ一つだけにも当て嵌まり切らない」
そうした呼び名のどれでもなく、東風は紬路自身を見てくれている。
何を見て、何を守ろうとし、何を美しいと思うのか。
その一番奥を、まっすぐに。
「今は、これ以上は申しません」
東風の声は穏やかだった。
けれど、その奥にあるものは隠し切れていない。
「ですが、いずれ……」
言葉の先を遮るように、外の気配が俄かに動いた。
遅れていた馬車が、門前へ近付いて来たのだ。
車輪の音が、六条の夜へ静かに滑り込んで来た。
政の表舞台を退いてなお、佐伯翁の眼は衰えていない。
その視線は、内裏の奥よりも、海の向こうとの貿易へ向けられているようだった。
絹、染料、硝子、香辛料、時計、薬種。
卓上に並ぶ皿や杯の陰で、品と銭と人の流れの話が、静かに行き交う。
紬路は初め、六条別邸の晩餐をただの礼儀作法の稽古場だと思っていた。
銀器の扱い、異国風の食事、会話の間の取り方。
商いに携わる娘として羞ずかしくないように、と。
けれど幾度か席を重ねるうち、そうではないと知った。
この席で置かれる一言で次の船荷が変わり、値が変わる。
遠い港で働く者の暮らしまで、ときには変わってしまう。
その夜も、招かれた客人はよく笑い、よく飲み、華やかな約束を残して帰って行った。
彼らの言葉はどこか菓子のように甘く、油断すればその上辺の心地よさだけが舌に残る。
佐伯翁は笑って受け流し、時折わざと耳の遠い振りをする。
交渉の表に立つのは、主に東風だった。
通詞も控えてはいたが、出番は殆どない。
異国の者が言い終えるより先に、東風は言葉の含みまで拾っていた。
流暢な洋語で渡り合い、穏やかな笑みのまま、相手の言葉の奥へ問いを差し入れていく。
商館の者がこの国の絹を褒めれば、東風は産地の名を伝える。
安い染料の話が出れば、なぜ外つ国ではその値で出せるのかを尋ねる。
新しい機械の利便を説かれれば、工場労働者の賃を何でもない顔で聞き返す。
どの問いも、礼を失してはいない。
むしろ相手を立てるような口ぶりだ。
なのに、答えるうち、相手の方が少しずつ言葉の置き場を失っていく。
紬路は、その度に不思議な気持ちになった。
この青年は、此れ迄会ったどの華族とも、見世で相手にして来たどの客とも違う。
心地よく寛がせながら、真に聞くべきことだけは決して取り逃がさない。
その鮮やかさが少し怖くて、晩餐の間、つい東風ばかりを目で追ってしまう。
けれど、それはもう晩餐の席に限ったことではない。
気付けばいつも、紬路の目は東風を探している。
異国商館の者たちが帰った食堂には、冷めた紅茶の香りだけが残っていた。
紬路は、忘れた手袋を探しに戻っただけだった。
その足が、食堂の奥でふと止まる。
窓辺に、独り佇む人影があった。
「……東風」
呼びかけると、青年が振り向いた。
姿勢も、着こなしも、指先の置き方も何一つ崩れていない。
なのに、何度も間近に見た黒曜石のような双眸がやけに遠かった。
「お疲れかしら?」
「いいえ」
東風は、いつものように微笑んだ。
けれど紬路には、その笑みが妙に届かないものに見える。
見世に立つようになってから、人の顔色を読む癖がついた。
客の欲しいものと、口にするものは必ずしも同じではない。
今の東風にも、それと似たものを感じる。
「異国商館との晩餐の後は、いつもこのように?」
「何か、変ですか?」
「いいえ。……お一人になった後の話です」
東風の返事が、ほんの一拍遅れた。
窓の外には、静まり返る六条別邸の庭が広がっている。
「ああ……人を下がらせて、風に当たっていただけです。少し、考えたいことがありましたので。姫に心配されるほど、弱く見えましたか?」
「いいえ。一人でいらっしゃる、強く見える方ほど、こうした時間もあるかとは存じます」
言ってから、出過ぎたことを口にしたと気付いた。
けれど東風は暗い翳りを帯びたまま、窓の外を見ていた。
「晩餐の席では、皆、笑いますね」
白い硝子窓の向こうで、木立の影が濃く沈んでいる。
東風はその夜の闇を見つめたまま、静かに続けた。
「商館の者は、この国をよい市場だと言う。ただ、異国の品の流れが速まれば、必ず削れるものがある」
「削れるもの……」
「安い染料が入れば、古い染め場が傷む。機械が入れば、手仕事が押される。異国の銭が入れば、値の付け方まで変わる。港は賑わるでしょう。都も華やぐでしょう」
安く、早く、同じものが幾つも揃う。
それは確かに便利で、買う者にはありがたい。
それでも、安さに慣れた客は、やがて手間の値を忘れる。
渡来の安い品が棚を埋めれば、昔ながらの染め場や織り場は、同じ土俵では太刀打ちできなくなる。
「その陰で、どこの手が痩せるのか。誰も直ぐには見ようとしない」
紬路は黙って聞いていた。
「入って来る船来品を止めることは、もうできないでしょう」
東風は窓の外を見たまま言った。
「ならば、こちらも出さねばならない。買う一方では、国が痩せ衰えてしまう。やがて生産技術を失くす悪循環に陥る。……外つ国の銭を入れる道筋が必要だ。然もなくば、いずれ都の華やぎも、ただの借り物となる」
「外つ国へ、此方の品を……?」
「はい。それも、この国でなければ作れぬものを。海の向こうの者が、相応の値を払ってでも手に入れたいと願うような」
その言葉に、紬路は生絹の反物を思い出した。
痩せた手。
上から急がされた艶。
無理を強いられた産地。
あの一反の中に見えたものを、東風はもっと大きな流れの中に見ているのだ。
「内裏では、血筋と席次だ。誰を后妃に上げるか。どの家格の姫、どの大臣家の顔を立てるか。……大切なことなのでしょう。けれど、それ許りを見ていては――いえ、それのみを謀っていては、国は立ち行かない」
この人は、誰かの縁談を語っているのではなかった。
帝妃の席次も、宮中の奥にある遠い噂ではない。
己が歩む道の背に、避け難く圧しかかる重みとして語っている。
「失礼ですが、あなたは、どのようなお役目を?」
「外交と、政のようなものです」
「治部省にお勤めなのかしら?」
東風は、それには答えなかった。
答えないことが、却って答えのように思われた。
身にまとう品位。
命じ慣れた物言い。
周囲が自然に一歩引く気配。
その全てが、一つの形へ寄っていく。
この青年には、内裏の奥でしか育たぬ、熟れた気配がある。
けれど紬路は、敢えてそこへ明瞭な名を与えなかった。
そうしてしまえば、今この場にいる青年を、遠い御簾の向こうへ押し返してしまう気がしていた。
「私の務めは……一つ見誤れば、災いは己一人に留まりません。けれど、身近に侍る者の多くは、私一人を安堵させる言葉ばかりを選びます。――うまくいっております。問題はございません。御心のままに。そう告げられる度、肝心なものほど、言葉の外へ取り溢されている気がするのです」
紬路の喉の奥が、きゅっと痛んだ。
高い場所に立つ者は、多くの人に囲まれる。
けれど、その人たちが皆、真実を言うとは限らない。
近くに人が多い程、却って孤独になることもあるのだろう。
この人は自ら傷付くことではなく、自分が見誤ることで誰かの暮らしを損なうことを怖れている。
その重みを抱えながら、それでも遠くを見ようとしている人なのだ。
「お一人で全てお決めになれば、その重みがあなたの肩へ落ちます」
言いながら、紬路は自分でも少し驚いた。
けれど、言葉はもう止まらなかった。
「……ならば、せめてその少しでも、わたくしにも持たせてくださいませ。外つ国との商いも、此れから学びます」
東風が、此方を振り返った。
今宵はずっと遠くにあった眼差しが、まっすぐ紬路へ戻って来ていた。
その目に問われている心地がする。
慰めではなく、本当にその重みを知る覚悟があるのか、と。
「では、……わたくしだけは、安心させる言葉を申し上げません。ずっと真実をお伝えします、とお約束しますわ」
「本当に?」
「ええ。……舞踏会が終わっても、お会いできる機会があれば、ですけれど」
言ってから、少しだけ眼を伏せた。
舞踏会が終われば、何もかも元へ戻る。
稽古も、晩餐の席も、つつ屋へふらりと現れるこの人との時間も、終わりを迎える。
そう思った途端、寂しさが静かに輪郭を持ち始めた。
まだ名の付かぬ感情なのに、別れの形だけが先に見えている。
「お会いできる機会があれば、ですか」
東風は、紬路《つつじ》の言葉を繰り返した。
「あなたは終わってしまえば、別れられるとでも思っているの?」
その一言が、別れを当然のものとして薄く垂らしていた帳を、指先で掬い上げるように揺らした。
その向こうに、二人が別れない道もある。
舞踏会の後も、この人との時間へ続いていく道が。
見ないようにしていたその道が、夜の灯りに照らされるように、闇の奥から仄かに浮かび上がった。
「……怖れを知らぬ方より、遥か遠くを見て、公平さを欠くことの怖さをご存じの方を、わたくしはずっと勇ましいと思いますわ」
初めて逢った日に、答えを逸らした時と同じだ。
肝心な時に、言葉を届かない場所へ逃がしている。
そう判っていて、紬路は慎ましく睫毛を伏せた。
それ以上踏み込まれれば、この人を怖ろしく思わないどころか、有りうべからざる感情を認めてしまいそうだった。
その孤独に触れたいと願い始めていることまで。
東風は、ふっと笑った。
真実を差し出すと約したばかりの娘が、自分の心だけは絹の奥へ隠そうとしている。
そのいじらしさに触れるように、ほんの僅か、自嘲の色が口許を掠めた。
「守るだけなら、ここまで苦しくはならなかった」
「え?」
「いえ」
東風は、窓硝子に映る夜の庭へ、再び視線を移した。
けれど次に紡がれた言葉には、言い紛らすにはあまりに深い響きがあった。
「あなたに、もう一度、私と宮中を選んで頂かねばならない」
もう一度。
その響きに、紬路の胸の奥が微かに揺れた。
かつて自分が手放したものを、もう一度差し出されているような。
あるいは、この人が長く抱えてきた悔いの名を、知らず聞いてしまったような。
東風は、視座の高い宮中へ戻る人だ。
紬路は、今や見世先へ戻る娘に過ぎない。
それを弁えていれば、傷付かずに済む筈だった。
この人の言葉を、自分へ向けられたものとして受け取ってはならない。
傷ついた心に沁み入る言葉をくれるからといって、それを特別と思うなど、あまりに浅ましい。
父の官位を足場に、誰かに選ばれる未来へ縋っていた娘。
その足場を失って初めて、自分には何もなかったのだと思い知った娘。
そんな娘が、万に一つ、東風に本当に見初められていたとして。
それは救いではなく、破滅の入口だ。
文子は言った。
紬路の相は、皇統に触れている。
女御として召されるならば、破滅を免れる。
けれど更衣として召されれば、必ず破滅する、と。
破滅するのは、紬路自身なのか。
それとも紬路を通して、皇統へ災いが降りかかるという意味なのか。
きっと文子にも観えなかったのだ。
だから、あれ以上は言わなかった。
「私は最早、あなたと道を分かつことはできないと思っている」
惹かれてはならない。
この人の孤独を見てしまったからといって、自分だけが寄り添えるなどと思ってはならない。
そう思おうとするのに。
別れられるとでも思っているの、という一言が、耳に残っている。
静寂が垂れ込め、蜜蝋の影が短く揺れている。
外の植木が夜風に擦れる音がした。
ふと見ると、長卓の端に置き忘れた白い手袋が一双あった。
紬路はそこへ目を留め、漸く本来の用を思い出す。
「それは、わたくしの忘れ物です」
東風は手袋を取り上げ、此方へ差し出した。
紬路が受け取ろうとした拍子に、片方の手袋が僅かにずれる。
白い布の端を追った指先が、ほんの一瞬、東風の指に直に触れた。
触れたのは指先だけなのに、互いに動く契機を失ったように、短い間が落ちる。
先に離れたのは、紬路の方だった。
けれど離した傍から、名残惜しさが薄く残ってしまう。
「あなたは舞踏会が楽しみですか?」
「……少しだけ」
「私は、まだあなたと離れたくない」
本当は怖い。
噂の中へ戻ることも。
華族令嬢たちの目に晒されることも。
けれど同時に、思ってしまう。
そこへ行けば、この人が見ている景色の一端に触れられるのではないかと。
「不思議です。今夜は手を取り合って踊っている時より、あなたを近くに感じます」
思わず零れた言葉に、紬路自身が驚いた。
それを受けて東風は、今夜初めて、本当に笑ったように見えた。
「私もです」
紬路が惹かれているのは、甘い言葉だけではない。
美しい顔立ちでも、舞踏の巧みさでもない。
この人が、高い場所に立つ者の寂しさを抱えながら、独り遠くを見ているからだ。
慰められる言葉に囲まれながら、誰よりも真実に飢えているような孤独。
その陰の一端を見てしまってから、外つ国との貿易への憧れでは済まなくなっていた。
「紬路姫」
「はい」
「あなたは、私が見落とすものを見てくれますか?」
「見落とすもの……?」
「そして、私が遠くを見過ぎる時は、足許を支えて欲しい」
それが踊りの話ではないことくらい、紬路にも判った。
国を見る人の足許を支える。
遠くへ向けられた目が、すぐ傍の痛みを見落とす時、それを拾う。
その役目を、紬路は求められている。
それは、美しいと言われるより、ずっと深く響いた。
「では、東風さまも」
「私も?」
「わたくしには何もないと思い込む時は……違うと、仰言ってくださいますか」
言い終えた後、顔が熱くなった。
選ばれなかった痛みを、人に埋めてもらおうとしている。
それが間違いだと、もう判っているのに。
紬路が作るべき価値は、紬路自身の手で作らねばならない。
見世に立ち、品を選び、客に向き合い、商いの中で少しずつ積み上げていくものだ。
それでも、時々は崩れそうになる。
その時に、違う、と言ってくれる人が欲しいと思ってしまった。
浅ましい願いだろうか。
そう思ったのに、東風は笑わなかった。
困ったようにも、嬉し気にもならなかった。
ただ、託されたものの重さを受け止めるように、まっすぐ紬路を見た。
「何度でも」
短い答えだった。
「あなたは美しいだけの飾りではない。落ちぶれた姫でも、商いに身を置く姫でもない。私が見た紬路姫は、そのどれ一つだけにも当て嵌まり切らない」
そうした呼び名のどれでもなく、東風は紬路自身を見てくれている。
何を見て、何を守ろうとし、何を美しいと思うのか。
その一番奥を、まっすぐに。
「今は、これ以上は申しません」
東風の声は穏やかだった。
けれど、その奥にあるものは隠し切れていない。
「ですが、いずれ……」
言葉の先を遮るように、外の気配が俄かに動いた。
遅れていた馬車が、門前へ近付いて来たのだ。
車輪の音が、六条の夜へ静かに滑り込んで来た。



