その翌日、東風は宣言通り、つつ屋に現れた。
ふらりと暖簾を潜った風体ではある。
けれど商いに不慣れな様子も、品位を隠しきれぬ佇まいも、却って何処か目に付いていた。
つつ屋に立つ時、紬路は和装を避けている。
絹を扱うには袖が長過ぎるし、客の目が品ではなく、売り手の衣へと流れてしまうからだ。
白い立襟に、細く留めた袖口。
腰には、小さな帳面を差している。
女学生の名残を留めた姿ではある。
けれどそこに、縁談を待つばかりの娘の影はもう薄い。
「紬路姫」
名を呼ばれた瞬間、息が僅かに遅れた。
視線を上げる前から、東風だと判ってしまう。
店先の騒めきも、反物を広げる音も遠のいた。
つつ屋は自分の見世蔵であり、相手は客である。
それなのにあろうことか、突然身装が気にかかり始めた。
華族に生まれた娘として、東風の目に野暮ったく映ってはいないだろうか、と。
それを自覚した途端、背筋のあたりを細い顫えが過った。
「どのようなものをお探しでございましょうか」
顔を上げると、東風は逢えた喜びを抑えるように、目もとを仄かに明るくしていた。
「成程、姫は見世先では、いつもより毅然とされている」
つつ屋に不在ならば、六条別邸へ向かえば事足りた筈だ。
その素直な発露が何故だか憎らしく、眩しいほど危うく思われる。
だからこそ、紬路は一層澄ました顔で、東風に向ける言葉を返した。
「東風さま、……佐伯の蔵では、姫とお呼びになるのはお控えください」
一瞬、二人の眼が交錯した。
商いに立つ華族令嬢。
東風の目は、その立場が紬路を傷付けていないか、誇りを損なわせていないか、慎重に窺うような眼差しをしていた。
「ご用は何かしら?」
「……よく売れるものを」
妙な答えだ。
贈り物でも、自分の好みでも、値頃でもない。
東風は、どの品に客の手が伸び、どの色が足を止めさせるのかを知りたがっている。
紬路は帳面を閉じた。
これは反物を選ぶ客の問いではない。
商いの流れを覗こうとする者の問いだった。
「此方は北より入りました生絹でございます。見目もよく、値も頃合い、用途も広い。今ならば、よく売れる品かと」
東風は反物を広げ、暫し黙って見下ろした。
「あなたは、これを良い品と思いますか」
「良い品であることと、よく売れることは少し違います」
「違うのか」
また、客らしからぬ問いだった。
布を見ているようで、その奥にある作り手の気配まで量ろうとしている。
「ええ。これは、よく売れる反物でございます。けれど長く続く反物ではございません」
「何故、そう思う?」
紬路は反物の端を指先にかけた。
美しい。
美しいが、浅い。
「艶が急いております」
「艶?」
「本当に良い絹の艶は、もう少し奥から出ます。此方は上から無理に整えた光に見えます。糸の撚りも少し強い。織りも揃っておりますが、揃い過ぎていて、手の呼吸がございません」
言い過ぎた、と気付いた。
商いとしては踏み込み過ぎの範疇である。
けれど東風は、反物そのものではない何かを、静かに測っているようだった。
「手の呼吸ねえ……。あなたが布から産地のことまで紐解けるということは相判った」
「織り手が布と話していない、という意味でございます。ただ急かされ、指図の通りに織った生絹です」
「と、言うと?」
「判る、とは申せません。ただ、思う処はございます」
「申してみよ」
その言い方が、ふいに客らしくなかった。
返答を当然のものとし、返された意見を裁くことに慣れた者の気配だ。
「繭の扱いが、少し粗いのです。糸を多く取ろうとしたのでしょう。良い紡ぎ手が製糸場へ取られたか、あるいは問屋が量を急がせたか」
「紡ぎ手の娘たちか」
「仰言る通り、養蚕の家にも、繰糸の場にも、織りの場にも、仕立ての針子にも、娘たちの手がございます。けれど働き手は無限ではありません。糸を急がせれば、どこかの手が痩せます。手が痩せれば、布も痩せます」
一反の生絹の奥には、桑畑がある。
繭を煮る湯気がある。
夜更けまで糸を引く娘の息がある。
東風は、それらを初めて一つの流れとして見たように、熱心に反物へ目を落としていた。
「では、此の反物はどこの無理だと思いますか」
紬路はすぐには答えなかった。
布耳を擦り、裏へ返し、ほんの少し灯りへ透かす。
商いの店先である筈なのに、その間、二人の前には別の重みがあった。
「土地ではなく、仕切る者の無理強いでございましょう」
「何故だ」
「土地そのものが悪いなら、もっと根から荒れます。此方には、まだ良いものを作る力が残っております。けれど、早く、多く、見目よく。そう上から命じた者がいるように思えます」
東風は再び黙り込んだ。
外では人力俥の車輪が低く鳴り、店先の暖簾が時折微かに揺れている。
「……それを、あなたなら如何する」
「如何、とは」
「この反物を前にした商人は、どう振る舞う」
「安く仕入れ、高く売る者もおりましょう。よく売れる品でございますから」
「あなたであれば、だ」
紬路自身の了見を問う響きだ。
観念して、胸中を伝えなければなるまい。
「わたくしなら、数を絞ります」
「売れるのにか」
「売れるからでございます」
紬路は反物の端へ指を添えた。
「これを評判の品にしてしまえば、作り手は猶も急かされます。客は安く見目よいものを望む。問屋は数を望む。桑畑は疲れてゆく」
反物一反の向こうに、見えぬ手が幾つも重なっている。
それを知らぬふりで売り捌くことも、商いには違いない。
だが、それだけでは続かないのもまた、商いというものだろう。
「二年、三年は儲かりましょう。しかし、その先で産地が傷みます。絹の信用は、土地の信用でございます」
最早絹の話であって、絹のみの話ではなかった。
東風の表情から、買い手の仮面が剥がれて来ている。
紬路は、小さく違和感が鳴るのを感じた。
それは、もっと鋭い直感に近かった。
この人は反物に映る、国の傷を見たのだ。
「……反物は、嘘を吐かぬのだな」
「見る者が見れば、……と、条件付きではございますが」
言い添えた途端、紬路は、更に口を開きたくなる自分に気付いた。
東風には、人の口を開かせる何かがある。
つい内々にしまっていた考えまで押し出されてしまうのだ。
「それに、嘘をつくのは売る者と買う者、両方でございます。……産業の流れの内では皆、互いに知っているのです」
言ってしまってから、また少しだけ悔いた。
あまりに差し出がましい。
「ですから本来であれば、もっと上の……為政者のような者から治めて頂かなくては」
空気が、ほんの一瞬だけ張り詰めた。
けれど東風の面には緊張こそあれ、怒りはなかった。
「あなたの名は……紬路」
ふいにぽつりと、その名を噛みしめるように口に乗せる。
ただの呼びかけではなく、踏み込んで来ようとする気配さえも感じられる。
「良い名だ。糸の路と書くのか」
「はい」
「ならば、そなたは名の通り、糸の道を辿る者なのだな」
あなたではなく、そなた。
思いがけぬ熱が、紬路の奥に灯った。
美しいと言われたのではない。
愛らしいと言われたのでもない。
けれど、此れまで誰にも正面から見られなかったものを、この青年だけが見つけてしまった。
紬路が何を選び、何を守り、何を美しいと思うのか。
そうした最奥へと、自分が気付くより先に手を伸ばされたような心地がした。
ふらりと暖簾を潜った風体ではある。
けれど商いに不慣れな様子も、品位を隠しきれぬ佇まいも、却って何処か目に付いていた。
つつ屋に立つ時、紬路は和装を避けている。
絹を扱うには袖が長過ぎるし、客の目が品ではなく、売り手の衣へと流れてしまうからだ。
白い立襟に、細く留めた袖口。
腰には、小さな帳面を差している。
女学生の名残を留めた姿ではある。
けれどそこに、縁談を待つばかりの娘の影はもう薄い。
「紬路姫」
名を呼ばれた瞬間、息が僅かに遅れた。
視線を上げる前から、東風だと判ってしまう。
店先の騒めきも、反物を広げる音も遠のいた。
つつ屋は自分の見世蔵であり、相手は客である。
それなのにあろうことか、突然身装が気にかかり始めた。
華族に生まれた娘として、東風の目に野暮ったく映ってはいないだろうか、と。
それを自覚した途端、背筋のあたりを細い顫えが過った。
「どのようなものをお探しでございましょうか」
顔を上げると、東風は逢えた喜びを抑えるように、目もとを仄かに明るくしていた。
「成程、姫は見世先では、いつもより毅然とされている」
つつ屋に不在ならば、六条別邸へ向かえば事足りた筈だ。
その素直な発露が何故だか憎らしく、眩しいほど危うく思われる。
だからこそ、紬路は一層澄ました顔で、東風に向ける言葉を返した。
「東風さま、……佐伯の蔵では、姫とお呼びになるのはお控えください」
一瞬、二人の眼が交錯した。
商いに立つ華族令嬢。
東風の目は、その立場が紬路を傷付けていないか、誇りを損なわせていないか、慎重に窺うような眼差しをしていた。
「ご用は何かしら?」
「……よく売れるものを」
妙な答えだ。
贈り物でも、自分の好みでも、値頃でもない。
東風は、どの品に客の手が伸び、どの色が足を止めさせるのかを知りたがっている。
紬路は帳面を閉じた。
これは反物を選ぶ客の問いではない。
商いの流れを覗こうとする者の問いだった。
「此方は北より入りました生絹でございます。見目もよく、値も頃合い、用途も広い。今ならば、よく売れる品かと」
東風は反物を広げ、暫し黙って見下ろした。
「あなたは、これを良い品と思いますか」
「良い品であることと、よく売れることは少し違います」
「違うのか」
また、客らしからぬ問いだった。
布を見ているようで、その奥にある作り手の気配まで量ろうとしている。
「ええ。これは、よく売れる反物でございます。けれど長く続く反物ではございません」
「何故、そう思う?」
紬路は反物の端を指先にかけた。
美しい。
美しいが、浅い。
「艶が急いております」
「艶?」
「本当に良い絹の艶は、もう少し奥から出ます。此方は上から無理に整えた光に見えます。糸の撚りも少し強い。織りも揃っておりますが、揃い過ぎていて、手の呼吸がございません」
言い過ぎた、と気付いた。
商いとしては踏み込み過ぎの範疇である。
けれど東風は、反物そのものではない何かを、静かに測っているようだった。
「手の呼吸ねえ……。あなたが布から産地のことまで紐解けるということは相判った」
「織り手が布と話していない、という意味でございます。ただ急かされ、指図の通りに織った生絹です」
「と、言うと?」
「判る、とは申せません。ただ、思う処はございます」
「申してみよ」
その言い方が、ふいに客らしくなかった。
返答を当然のものとし、返された意見を裁くことに慣れた者の気配だ。
「繭の扱いが、少し粗いのです。糸を多く取ろうとしたのでしょう。良い紡ぎ手が製糸場へ取られたか、あるいは問屋が量を急がせたか」
「紡ぎ手の娘たちか」
「仰言る通り、養蚕の家にも、繰糸の場にも、織りの場にも、仕立ての針子にも、娘たちの手がございます。けれど働き手は無限ではありません。糸を急がせれば、どこかの手が痩せます。手が痩せれば、布も痩せます」
一反の生絹の奥には、桑畑がある。
繭を煮る湯気がある。
夜更けまで糸を引く娘の息がある。
東風は、それらを初めて一つの流れとして見たように、熱心に反物へ目を落としていた。
「では、此の反物はどこの無理だと思いますか」
紬路はすぐには答えなかった。
布耳を擦り、裏へ返し、ほんの少し灯りへ透かす。
商いの店先である筈なのに、その間、二人の前には別の重みがあった。
「土地ではなく、仕切る者の無理強いでございましょう」
「何故だ」
「土地そのものが悪いなら、もっと根から荒れます。此方には、まだ良いものを作る力が残っております。けれど、早く、多く、見目よく。そう上から命じた者がいるように思えます」
東風は再び黙り込んだ。
外では人力俥の車輪が低く鳴り、店先の暖簾が時折微かに揺れている。
「……それを、あなたなら如何する」
「如何、とは」
「この反物を前にした商人は、どう振る舞う」
「安く仕入れ、高く売る者もおりましょう。よく売れる品でございますから」
「あなたであれば、だ」
紬路自身の了見を問う響きだ。
観念して、胸中を伝えなければなるまい。
「わたくしなら、数を絞ります」
「売れるのにか」
「売れるからでございます」
紬路は反物の端へ指を添えた。
「これを評判の品にしてしまえば、作り手は猶も急かされます。客は安く見目よいものを望む。問屋は数を望む。桑畑は疲れてゆく」
反物一反の向こうに、見えぬ手が幾つも重なっている。
それを知らぬふりで売り捌くことも、商いには違いない。
だが、それだけでは続かないのもまた、商いというものだろう。
「二年、三年は儲かりましょう。しかし、その先で産地が傷みます。絹の信用は、土地の信用でございます」
最早絹の話であって、絹のみの話ではなかった。
東風の表情から、買い手の仮面が剥がれて来ている。
紬路は、小さく違和感が鳴るのを感じた。
それは、もっと鋭い直感に近かった。
この人は反物に映る、国の傷を見たのだ。
「……反物は、嘘を吐かぬのだな」
「見る者が見れば、……と、条件付きではございますが」
言い添えた途端、紬路は、更に口を開きたくなる自分に気付いた。
東風には、人の口を開かせる何かがある。
つい内々にしまっていた考えまで押し出されてしまうのだ。
「それに、嘘をつくのは売る者と買う者、両方でございます。……産業の流れの内では皆、互いに知っているのです」
言ってしまってから、また少しだけ悔いた。
あまりに差し出がましい。
「ですから本来であれば、もっと上の……為政者のような者から治めて頂かなくては」
空気が、ほんの一瞬だけ張り詰めた。
けれど東風の面には緊張こそあれ、怒りはなかった。
「あなたの名は……紬路」
ふいにぽつりと、その名を噛みしめるように口に乗せる。
ただの呼びかけではなく、踏み込んで来ようとする気配さえも感じられる。
「良い名だ。糸の路と書くのか」
「はい」
「ならば、そなたは名の通り、糸の道を辿る者なのだな」
あなたではなく、そなた。
思いがけぬ熱が、紬路の奥に灯った。
美しいと言われたのではない。
愛らしいと言われたのでもない。
けれど、此れまで誰にも正面から見られなかったものを、この青年だけが見つけてしまった。
紬路が何を選び、何を守り、何を美しいと思うのか。
そうした最奥へと、自分が気付くより先に手を伸ばされたような心地がした。



