三日夜餅が届かなかったことを、撫子は知っていた。
けれど、後朝の文が届いたことは、知らなかった。
そして、絶対に届く筈がないと思っていた。
否。
それだけではない。
撫子自身の許へ、後朝の文が届かなかったこと。
その事実にこそ、撫子は動揺していたのだ。
撫子とは三日夜はまだ過ぎていない。
ならば餅の有無だけでは、決定的な破綻とは言えない。
だが、同衾した筈の相手から、朝の文が来ない。
その理由は、一つしかない。
撫子は、紬路の三日夜の夜、東宮殿下ご自身を手に入れたつもりでいた。
東宮自身と夜を過ごしたと思えば、先の二朝のように細工する必要もないと思った。
だが、紬路の方へは、文が遅れず届いたと聞いた。
実際それは霜月の美しい、姉の花に似た山茶花だった。
ならば、撫子が契った相手とは――。
紬路は、震える指を袖の中で握り込んだ。
恐怖ではなく、もっと鋭いものだった。
糸が見え始めている。
撫子が隠したはずの糸。
魅了で絡め取り、誰にも辿らせまいとした縁の糸。
直橘を急ぎ探し出して、匿わなければならない。
否――すでに報告は上がっている。
魅了されている間の記憶はない。
だが――契ったという事実だけは、忘れてもらっては困るのだ。
ただの過ちで終わらせることも許されない。
撫子は、契ると同時に、即魅了を解き、逃げ道のない形で直橘に迫ったことだろう。事実として背負わせるために。
故に、東風も霍成も既に知る処だろう、対処されているか後ほど確認しよう。
「何を考えていらっしゃるの?」
撫子は、尖った調子で問いかける。
紬路は、自分が束の間、考えに沈んでいたことに気付いた。
「……わたくしを、嗤っているの!?」
だが、考えれば考える程、辻褄が合っていく。
東風は撫子が異能喪失したと伝えて来た直後に、紬路をまだ抱けないことを嘆いたのではなかったか。行為のあったことが念頭に浮かんだのだ。
「失礼いたしました。……嗤ったつもりもございません」
「嘘」
短い一言だった。
それだけで、撫子の焦りが窺い知れた。
「あなた、何か知っているのね」
「わたくしが?」
「そうよ。あなた、何かを知っていて、その顔をしている」
撫子が一歩近づく。
渡殿の曲がり角まで下がっていた女房たちが、同じように一歩動きかけた。
だが、その足取りは揃わなかった。
一人は遅れ、一人は早すぎ、一人は自分の袖を踏みかける。
紬路は、その乱れを見た。
人を縛る糸が、均一ではなくなっている。
「撫子さん」
紬路は、静かに名を呼んだ。
「宮中で人を惑わせることは、大変危ういことです」
撫子の瞳孔が、僅かに開いた。
その反応だけで十分だった。
「横紙破りなことをして人の本心を塗り込めるから、そうなるのです」
「何の話をしているの」
「さあ。ただ、噂を耳にしたものですから」
「噂……」
その一言で、撫子の顔に狼狽が走る。
あの夜のことが、脳裏を掠めていく。
誤って引き寄せた男。
確かめもせずに、奪った一夜。
魅了が解けた後の、あの目。
――あれが、どこまで知られているのか。
よもや、既に囁かれているのではないか。
心当たりがない筈がなく、脛に傷ある身ゆえの隠しきれぬ狼狽だった。
「新帝の御前で、女房が粗相をした、とか」
――あのことではない。
まだ、噂には上がっていない。
撫子の顔に、かすかな安堵が差す。
だが、それも一瞬のことだった。
袖を握る指が、みるみるうちに白くなる。
典侍としての務めを怠った――その噂だけでも、十分に不名誉だ。
「それは、あの娘が勝手に」
「勝手に?」
紬路は問い返した。
撫子は言葉に詰まる。
勝手に、という言い方は可怪しい。
操っていた者が、操りを失い始めている者の言葉だった。
糸が、ばらけ始めている。
「……あなた、何を言いたいの」
撫子は、どうにか平静を装っていた。
けれど、整えた言葉の端から、綻びが見え始めている。
紬路は、ほんの少し首を傾げた。
「いいえ。ただ、不思議に思いましたの」
「何が」
「三日夜餅のことも、後朝の文のことも――あまりに、よくご存じでいらっしゃるから」
言い方は柔らかく。
けれど、逃げ道を塞ぐように、じわじわと間合いを詰めていく。
「そうね。あなたも、後朝の文を貰えるに、足ることがあった筈ですものね」
その言葉は、音もなく落ちた。
撫子の呼吸が止まる。
知られているのか。
どこまで。誰に。
否定の言葉が浮かばない。
言い返す言葉が出てこない。
その自体が、紬路にとっては既に答えだった。
撫子は、後朝の文を貰っていないのだ。契った事実があるにも関わらず。
――もしも、紬路の許に本当に後朝の文が届いていたのであれば。
形式だけの文ではないかぎり、その差は、もはや覆しようがない。
後朝の和歌には、特別冷えた、あの朝についての一言が添えられていた――。
「あなたは――」
紬路は、一歩も動かぬまま、ただ視線だけを真っ直ぐに向けた。
魅了で操って夜の記憶が抜け落ちていたという言い訳も通らないのだ。
撫子は契り、純潔を失い、同時に異能も失った。
魅了は、解くか否かの撫子の意を待たず、既に解かれた筈だ。
目の前の直橘は、咄嗟に東宮の振りを忘れず、撫子にそのまま信じ込ませたまま退出し、上へ報告したのだ。
「魅了で、東宮さまを操ったと、思ったのでしょう」
その瞬間、撫子の瞳が大きく揺れた。
代わりに、喉の奥で微かな音が鳴る。
「……何を」
出たのは、否定の言葉ではない。確認だ。
「姉から聞いたことがございます。そのように強大な力を込めて異能を行使すると、異能を損なわれる、と」
紬路は、その続きを遮るように、静かに言葉を重ねた。
「もしくは撫子、あなたはもっと踏み込み……東宮さまと契ったのですね。そして処女を喪失して、魅了の力も喪失した」
紬路は、静かに告げた。
声を荒げるでもなく、ただ事実の形だけを正しく目の前に置く。
その一言で撫子の呼吸が乱れた。
指先が、震えている。
それを隠そうとしてこぶしを作り、逆に力が入りすぎたのか骨ばった白さが際立った。
後ろに控える女房たちもまた、揃わぬ動きでざわめいた。
一人は笑おうとして笑えず、もう一人は遅れて頷き、別の者はただ撫子の横顔を見つめている。
「でも、それは、東宮さまではございません」
風が、渡殿を抜けた。
誰も動かない。
ただ、その場に立つ者すべての耳に、その言葉だけが残った。
「ち、違うわ」
撫子が、漸く言葉を絞り出した。
だが、その否定はあまりに弱い。
誰かに聞かせるというより、自分自身へ言い聞かせているようだった。
「違う、そんな筈は……」
「それは、直橘と申す者です」
紬路は、あくまで穏やかに告げた。
責めるのではなく、隠されたものへ正しい名を与えるように。
「東宮殿下とよく似た背格好の、雑色の男」
その瞬間、撫子の顔から血の気が引いた。
膝が折れ、身体が後ろへ傾ぐ。
背後に控えていた乳姉妹と思しき女房が、慌ててその身を支えた。
それでも、撫子はまだ紬路を見ている。
否定したくとも、否定するための言葉がもう見つからないのだ。
「あなたは――」
紬路は、ほんの僅かに息を置いた。
「その雑色と、契られたのでしょう」
撫子の顔から、完全に血の気が引いた。
冬の光が当たり、それでも尚、白い顔だった。
「そんな……」
後ろの女官の一人が、思わずそう漏らした。
その一言には恐れが混じり、もはや魅了の効力は完全に失われているように見えた。
撫子は、何かを振り払うように首を振る。
「違うわ……違う、あれは……あれは東宮さま……。黄丹の衣が……」
言葉が崩れていく。
これまで完璧に整えられていた場が、端からほどけ始める。
今まで完璧に整えてきた操糸者の指が力を失くし、吊られていた者たちが一人、また一人と己の重みを取り戻していく。
残されたのは、頼みとしてきた魅了の異能を失った撫子自身の錯乱だけだった。
「……華族令嬢が」
紬路は、淡々と続けた。
「雑色の者と契られるなど、さぞや不本意でございましょうね」
その一言は、静かだった。
だが、撫子の心を抉るには十分だった。
「けれど、自業自得でございます」
紬路は、冷たい言葉で断じた。
その一言は撫子を刺すと同時に、己の内側にも刃を立てる。
それでも、止めるつもりはなかった。
ここで曖昧にすれば、人の心を踏みにじった者に勝機を与えてしまう。
奪われた者たちの痛みまで、また書き換えられてしまう。
「あなたは人の心を奪いました。だから直橘も、あなたを憐れむことさえできなかったのです」
撫子の睫毛が震える。
その一言が、ただ身持ちを崩した傷へ届いたことが分かった。
「本当なら彼にも言えた筈です。自分は東宮ではない、と。あなたを騙すつもりはない、と。たとえ雑色であっても、一人の男として、あなたの前に立つことはできた筈です」
けれど、その自由を奪ったのは撫子自身だった。
魅了によって相手の心を縛った瞬間、其処にあった筈の高貴な華族令嬢への憐れみも、その花を散らす躊躇も、拒絶も告白も、全て一緒くたに自ら封じ込めてしまったのだ。
「あなたが縛ったから、彼は黙った。あなたが奪ったから、彼は選べなかった」
紬路は、畳みかけた。
「それでいて、今更、騙されたとお嘆きになるのですか」
「止めて」
撫子の声が、震えた。
「止めなさい」
紬路は、僅かに憐憫の笑みを浮かべた。
「わたくしは、ただ事実を申し上げているだけでございます。だって、あの夜、わたくしは東宮殿下とご一緒していたのですもの」
白の華燭であることは知られているにせよ、東風が紬路を寵愛してくれていることに変わりはない。
撫子の膝が、揺れた。
立っていることすら、難しくなりかけている。
支えている女房の手に力が籠っている。
「……そんな筈はないわッ」
撫子は、とうとう悲鳴に近く、絶叫を上げた。
「……そんなに、お悔やみになることかしら」
「何ですって……?」
紬路は、撫子を見詰める。
「あなたが本当にその方をお慕いしていたのなら、契ったことをここまで悔いる筈がございません。たとえどんな身分の方であろうと」
撫子の唇が、ひくりと震えた。
何故なら――わたくしは。
東風のために、その道すら、考えたことがあるのだ。
最初は、ただの舞踏の練習相手だった。
手を取られ、導かれるままに歩幅を合わせるだけの、名も知らぬ相手。
けれど。
その言葉に、ふと耳を留めた。
その手の確かさに、思いがけず安堵した。
気づけば、視線が探している。
園遊会の人波の中でも、知らず知らずのうちにその姿を追っている。
――それが、恋だとは知らぬままに。
やがて名を知り、立場を知り。
尊い方だと、知っても気持ちは変わらなかった
離れることはできなかった。
何がどう変わってもずっと長い間、……たとえ、始めから破滅だと予言されていようとも――
「真に好いていたのなら、相手が東宮さまでなくとも、そこまで顔色を失うことはないでしょう」
「黙りなさい……ッ!」
「あなたが欲しかったのは、その方ではない。東宮という御名と、宮中で誰より高く立つ場所だったのですね」
撫子の白い指先は血の気が失せ、今にも骨が折れそうなほどである。
「そうよ……それで何が悪いの。顔も知らない相手に嫁がされるのよ。どうせなら」
「そのような縁談はお断りすることもできるのよ」
紬路の言葉は、驚くほど冷えていた。
望まぬ縁談への恨みと、人を操る罪とは、同じ秤に載せてよいものではない。
「人を魅了で縛っても、恋にはなりません。名を取り違えたまま契っても、愛にはなりません」
そこで、ほんの少しだけ間を置く。
「あなたは、人を繋げなかった。ただ奪って、勝ちたかっただけです。縁は奪うものではなく、結ぶものでございます」
渡殿の向こうから、誰かの足音が近づいてきた。
それに気づいた撫子は、漸く一歩退く。
だが、今更だった。
たとえこの場を取り繕ったところで、控えていた女官たちは、今朝のことを話の種にするだろう。もう魅了の異能は解けてしまっている。
「……紬路」
撫子は去り際に、紬路を睨んだ。
その美しい目の奥には、強い憎しみがあった。
「覚えておいでなさい」
「覚えております」
紬路は、まっすぐに受けた。
その返事に、撫子は一瞬だけたじろいだ。
やがて、衣擦れの音を残して一団は渡殿の向こうへ消えてゆく。
だが、その足並みは来た時よりも乱れていた。
残された紬路は、しばらくその場に立ち尽くした。
冬の風が、御簾の端を微かに揺らす。


