内裏の空気は、日に日に霜を含んだように冷え始めた。
庭の草木は色を失い、渡殿を吹き抜ける風にも、絹の着物に袖を通すような冷たさがある。
近頃、撫子が新帝より叱責を受けたという噂が、薄い霞のように広がっている。
何でも、側近の女房の一人が不自然に取り乱し、式次第を誤ったのだという。粗相で済む話ではない。
撫子の周囲では、ここ数日、人の振る舞いに綻びが出始めていた。
心を置き去りにされた人形のように動きだけが先へ滑っていた女学校の同級たちの、あの虚ろな顔を思い浮かべると、紬路の胸には深い同情が湧き上がった。
魅了に掛かった者は、確かに従う。
けれど従っていた間のことを、何一つ覚えていないようだ。前後不覚の手違いがあるのも無理からぬことであるが、責めを負うのは本人たちばかりなのだった。
だが、東風の話によれば、撫子はとうとう魅了の異能を失ったという。
そこまで把握しておきながら告発できないでいるのは、搦手しか及ばないからだろうか。
それに、強大な異能の行使の後にそのような状態に通常はなると姉からも聞いているが、一体何があったというのだろう。
入侍五日目の朝、紬路は昭陽舎から自分の北舎へ戻ろうとしていた。
渡殿を南に出た時、向こうから数人の女房を従えた一団が現れた。先頭に立つ姫は、艶やかな衣を重ね、冬の光を受けてなお華やかに見えた。
撫子である。
内裏十七殿の一つ、温明殿から出て来たばかりのところだった。
紬路は足を止めたが、引き返すには遅く、避けるには近すぎた。
「あら」
撫子は、まるで待ち伏せていたように微笑んだ。
その笑みは以前と変わらず美しい。
けれど、唇の端が僅かに乾いている。
「紬路さんじゃない。こんな処で」
「ご機嫌よう、撫子さん」
紬路は礼を崩さず、軽く頭を下げた。
こちらから刃を抜くつもりはない。
だが、鞘に収めたまま斬れる言葉もある。
「近ごろは、随分独りでお静かにお過ごしのようね。東宮さまのお側に上がられたというのに」
撫子の後ろで、女官の一人が薄く笑った。
けれど、その笑みは唇だけに貼りついていた。
「御機嫌よう、更衣さま」
目元は遅れて、何を笑うべきか探すように彷徨い、喉から漏れた言葉も半拍ずれている。
笑っている本人がなぜ笑っているのかを知らぬまま、糸に引かれて口角だけを上げたようだった。
噂は本当のようだ。
魅了が解けかかっている。
「宮中の作法を学ぶ仕切りでございます」
「へえ……。宮中の作法を学んでいるというのに洋装なの」
「……」
「更衣ねえ……。衣を扱いながら、東宮さまの御衣も脱がせられず、自分も洋装の着たきり雀。――ずいぶんと、滑稽だこと」
くす、と笑いが重なる。
白い華燭であることは、昭陽舎付きの命婦たちから、とうに伝わっているのだろう。別々に御寝あそばされているご様子である、と。
命婦たちの上司も、言わずもがなの撫子率いる内侍司だ。
洋装で宮中を歩き回る紬路に、無作法だと疑りの目を向けて来る女官女房たちが居ることに気が付いてはいるが、これだから昭陽北舎付きの命婦も全員信じることはできないのだ。
重ねた着物に毒を染み込ませる、蛇を忍ばせる、そうして何食わぬ顔をすることは容易い。
紬路は慎ましく目を伏せる。
その睫毛の影から、女官たちの顔を静かに窺った。
見れば、以前は一本の糸で引かれるように揃っていた動きが、今は少しずつ乱れている。
笑う者。
怯えたように唇を噛む者。
撫子の顔色を見てから、慌てて表情を取り繕う者。
それぞれの女官の面に、操られた顔ではない、本人たちの感情がうっすらと覗き始めていた。
「まあ。殊勝なこと」
撫子は袖で口元を隠した。
勤務中のことから扇を持っていないようだが、白い指が、ほんの少しだけ震えているが見えた。
「けれど、お気の毒ね。三日夜の餅も届かなかったのでしょう? わたくし急がせましたのにね。……あら、だから婚礼が成らなかったのかしらァ」
言葉は、刃先だけを飾った小刀のようだった。
周りの女房たちが、待っていたように息を呑む。
三日夜餅。
婚姻が確かに成ったことを示す、象徴である。
それが届かないよう妨害しておきながら、重ねて追い討ちをかけるように撫子が噂を流したのだろう。
東宮の寵は薄い。入侍は形ばかり。
三日夜餅はなかった。後朝の文も遅かった。
そう宮中に思わせたくて。
紬路は、目を伏せた。
恥じ入ったのではない。言葉の置き所を、ほんの少し選んだだけだった。
「ええ。…… 三日夜餅は、届きませんでした」
撫子の笑みが深くなる。
勝ち誇るには早い、と思いながらも、勝ったと信じたい者の顔だった。
「まあァ。何てこと。見つけ次第、折檻してやりませんとね」
「けれど、昨日の朝は後朝の御文が届きました」
その瞬間、渡殿の風が止まったように感じられた。
撫子の目元から、色が一つ抜ける。
「……き、後朝の御文?」
「はい。夜が明けるより早くに」
紬路は、敢えて言葉を荒げなかった。
怒りを見せれば、相手はそこへ逃げ込む。
穏やかに整えた言葉で事実だけを置く方が、よほど逃げ場を奪うのだ。
女学校で嫌というほど学んできた。
「随分と早いお文でした。三日目の開けは、わたくしが起きるよりも先に、もう届けられていた程で」
「そ、そんな筈はッ」
撫子の口から、思わず零れた言葉だった。
慌てて袖で口を覆ったが、取り繕うにはもう遅い。
彼女自身も、そう悟ったらしい。
珍しく言葉を失くしているようだ。
顔色が途端に悪くなり、記憶を繰り、一人で何かを思い返して確かめている様子だ。
後ろの女房たちが、互いに顔を見合わせた。
魅了で縛られていても、動揺が走ったのだろう。
「そんな筈、とは?」
紬路は小首を傾げた。
問いながら、胸の内では冷えたものが音もなく形を取ってゆく。
撫子は、何かを知っている。
三日夜餅が届かぬことだけではない。
後朝の文が絶対届くはずがないと、強く信じるだけの理由があるのだ。
しかも、前二回とはまた違う理由だ。
「いえ。ただ、……随分とお早いことで」
「後朝の文は、早さにこそ想いが現れ出ると聞きました」
僅かに視線を上げる。
「ええ――わたくし、東宮さまに溺愛されておりますの」
言い切る。
その場の空気が張り詰めた。
紬路は、目を逸らさない。
撫子の頬に、薄い紅が差す。
怒りか、焦りか、それとも別の何かか。
「共寝し、夜離れの後、どれほど早く筆を取り、どれほど早く相手の許へ届けるか。和歌が自然と口をついて出づるほどなら、想いも深いのだと」
「……ご立派な知識ですこと」
「その後、教えていただいたのです。東宮さまに。……夜の御殿の御帳台の中で、優しく」
撫子の表情が、今度こそ崩れた。
ほんの一瞬であったが、紬路にははっきりと見えた。
美しく整えられた顔の奥で、何かが割れる。
自分の知っている事実と、今ここで聞かされた事実が、噛み合わずに軋んでいるようだ。
「東宮さまは……」
撫子は、その名を舌の上で確かめるように繰り返した。
恋しさではない。むしろ、辻褄の合わぬものに触れた困惑が滲んでいる。
「えぇ」
「……可怪しいわ」
それは取り落とした独り言ちたような、微かな呟きだった。
だが冬の朝の渡殿の静けさの中では、聞き逃すには十分過ぎる程近い。
「何が、可怪しいのでしょう」
紬路が問うと、撫子ははっと顔を上げた。
その目には、先程までの余裕がない。
「な、何でもありませんわ。ただ、三日夜餅もなく、後朝の文だけでお喜びになれるなんて、大層な貧乏根性ですのね、と思っただけ……」
撫子は笑おうとした。
けれど笑みは、扇の上でうまく結ばれなかった。
その時、撫子の背後に控えていた女房の一人が一歩前へ出た。
止めるような、支えるような動きである。
女官にしては撫子との距離が近すぎ、しかも魅了にかかっている気配もない。
紬路が直橘を身近に置いているように、おそらく撫子もまた実家から連れて来た私的な使用人、もしかすると乳姉妹を伴って参内しているのだろう。
「姫さま」
「黙って」
撫子は、刃を含んだように言い放つ。
女房は弾かれたように頭を垂れ、その肩だけが小刻みに震えていた。
魅了が、荒れている。
紬路は息を潜めた。
以前の撫子なら、人を操る時ほど優美で妖し気な雰囲気を纏っていた。
だが今は違う。糸を引く手が乱れ、操られる者の身体にまで歪みが出ている。
「撫子さん」
「……何かしら」
「お疲れなのではございませんか」
紬路は、あくまで労り案じるように言った。
その言い方が、撫子の神経を逆撫でしたらしい。
「わたくしが?」
「お顔の色が、優れません」
「余計なお世話ですわ」
撫子は袖を下ろして、女官たちに手を振った。
少し離れて待っていなさい、という意味だ。
「あなたこそ、せいぜいお気をつけなさいませ。宮中は、見世などの店先とは違いますのよ。あなたのお相手になるのは皆、高貴なる宮廷人だわ」
「ご忠告痛み入りますが、お客様も大切な方たちですのよ」
撫子は去ろうとしない。
じっと紬路を見ている。その目は、紬路ではなく、紬路の背後にあるものを探しているようだった。
東宮の痕跡。
東宮の寵。
あるいは、自分が手に入れた筈のものが、本当に其処にあったのかを。
「……あの夜」
撫子が、ふいに低く呟いた。
「はい?」
「い、いいえ」
撫子はすぐに口を閉ざし、かぶりを振った。
だが、紬路は聞き逃さなかった。
あの夜。
それは、三日目の夜を指しているのではないか。
撫子は焦ったのだ。
三日夜餅を封じ、文の伝達を止め、人を遠ざけた。
それでも何かが思い通りにならず、焦った。
そして――。
紬路の脳裏に、直橘の姿が過った。
東宮と背格好の似た男。
名代に立てられた者。
まさか。
喉の奥が、冷たく狭まる。
だが、この場で口に出すことはできない。
もし、三日夜の日に――
撫子は、東宮に魅了をかけたつもりで――もし、奪い取って契ったつもりだったとしたら。
けれど、もし相手が直橘だったのなら。
魅了とは、ただ人の心を奪う力ではない。
より正確に言えば――まだ誰にも触れられていない心の隙間に入り込み、その形をなぞる力である。
人は、完全には自分だけのものではない。
家に属し、役に属し、縁に縛られ、それでも尚、心の奥底にだけは、誰にも触れられていない領域を残している。
魅了は、そこに触れる。
命令するのではない。ねじ伏せるのでもない。
ただ、相手が自分でそう思ったかのように、自然に選ばせる。
だが同時に、それは極めて繊細な均衡の上に成り立っている。
魅了を使う側は、誰にも属さぬ存在でなければならないのだろう。
誰かに心を預けた瞬間、その者の形に染まり、他者の心へ滑り込む余白を失う。
言い換えればおそらく直橘と契った――その人違いで純潔を失ったことが、撫子の魅了の艶詞を崩し始めているのだ。


