「では、本日の手ほどきはここまでにいたしましょう」
「えぇ……ありがとうございました」
教師がそう告げたときには、紬路は全身の力が抜けたようになっていた。
背筋を伸ばして立っているだけで、脇も背もじんと重い。
足先にはまだ力が残っている筈なのに、どこか自分のものではないようだった。
洋装の襟の内にこもった熱も汗も鬱陶しく、今すぐ湯に浸かりたいとさえ思う。
「飲み込みがお早い。次はもっと楽に踊れますよ」
「ありがとう存じます」
「それと、佐伯翁からお話があるそうです。浴室もお貸しくださるとか」
「いいのかしら……でも、翁には逆らえないわね」
半ば観念して答えると、黙って聞いていた東風が、ふと思い出したように口を挟んだ。
「直橘を暫くお借りしたいのですが」
「……?」
「あなたの主馬寮――失礼。車宿番かな。別当のような、あの青年です」
「え、えぇ、それは判りますけれど」
どうして今、その名が出るのだろう。
問いの訣を測りかねていると、東風は何でもないことのように続けた。
「まさか、あなたの恋人ではないでしょうね」
「ち、違うわよ」
思わず返事が跳ねた。
疑っているというより、その速さまで量っているような眼差しだ。
直橘が馬車を駆っているのだ。
借り出されてしまえば、帰りの足は――。
そう思いかけて、紬路ははたと気付いた。
そういえば、行きは佐伯家から迎えの電気自動車が来ていたのだった。
ならば、帰りの心配は要らない。
それでも、わざわざ直橘を求める理由が判らなかった。
それに、主馬寮とは、宮中の厩を掌る役職だ。
馬丁を指して、ふと出る言葉ではない。
「少し頼みたいことがありまして」
「……唐突ですのね」
「あなたの次に気になっていたものですから」
「そういう言い方をなさらないでくださいませ」
また、紬路の反応を見ているのか、わざと境目の曖昧な言い方をする。
あるいは直橘を特別に庇うかどうかまで、確かめているようだった。
「では言い直しましょう。翁にとって、是非借り出したい人手なのだそうです」
そのときだけ、東風の声音は妙に本気を帯びていた。
まるで、欲しかった答えはもう得た、とでもいうように。
「秋の司召で宮中に召し上げられましょう」
ただの雑色には破格の待遇だ。
一体、直橘に何をさせようというのだろう。
湯を借りた後、紬路は用意されていた薄物の洋装に袖を通した。
客間には洋式の卓子が据えられ、夕餉の席には東風も同席している。
椅子の脇で足を止めると、東風が自然な所作で背へ回った。
椅子を引かれ、紬路は一瞬遅れて、それが着席を助けるためだと気付く。
「……ありがとう」
浅く礼を述べて腰を下ろす。
座るだけのことなのに、背後に立たれると、先ほどの舞踏の間の近さを思い出してしまった。
「今宵から舞踏会まで、儂が紬路姫をお預かりいたしましょう」
佐伯翁は、茶をもう一杯勧めるような気軽さでそう言った。
さすがの紬路も、目を丸くする。
「舞踏の稽古だけでは足りますまい。姫には晩餐作法も身につけて頂かねば」
「翁の仰るとおりです。あちらの舞踏会では、洋式の晩餐が供されることもあります」
「儂も席には着くが、献立だけはご容赦願いたい」
東風まで涼しい顔で口を添えるものだから、どうやら冗談ではないらしい。
「我が家の洋食は、この東風と楽しんでくだされ」
東風の所作は、一挙手一投足まで隙がない。
食事作法なら紬路にも身についている筈だった。
それでも彼を前にすると、自分の作法など子供騙しに思えてしまう。
紬路は、僅かに息を吐いた。
どのみち三条へ戻っても、気の晴れぬ思いを持て余すばかりだ。
おまけに、直橘まで借り出されている。
六条別邸は右京寄りにあり、五ツ蔵のつつ屋にも近い。
朝の支度にも余裕ができるし、異国の客人と晩餐を共にするなら、いずれ身につけねばならぬ作法でもある。
そう数え上げてみれば、断る理由の方が少なかった。
紬路は腹を決めた。
左京三条の和泉邸へ遣いをやり、佐伯翁の申し出を受けることにした。
「えぇ……ありがとうございました」
教師がそう告げたときには、紬路は全身の力が抜けたようになっていた。
背筋を伸ばして立っているだけで、脇も背もじんと重い。
足先にはまだ力が残っている筈なのに、どこか自分のものではないようだった。
洋装の襟の内にこもった熱も汗も鬱陶しく、今すぐ湯に浸かりたいとさえ思う。
「飲み込みがお早い。次はもっと楽に踊れますよ」
「ありがとう存じます」
「それと、佐伯翁からお話があるそうです。浴室もお貸しくださるとか」
「いいのかしら……でも、翁には逆らえないわね」
半ば観念して答えると、黙って聞いていた東風が、ふと思い出したように口を挟んだ。
「直橘を暫くお借りしたいのですが」
「……?」
「あなたの主馬寮――失礼。車宿番かな。別当のような、あの青年です」
「え、えぇ、それは判りますけれど」
どうして今、その名が出るのだろう。
問いの訣を測りかねていると、東風は何でもないことのように続けた。
「まさか、あなたの恋人ではないでしょうね」
「ち、違うわよ」
思わず返事が跳ねた。
疑っているというより、その速さまで量っているような眼差しだ。
直橘が馬車を駆っているのだ。
借り出されてしまえば、帰りの足は――。
そう思いかけて、紬路ははたと気付いた。
そういえば、行きは佐伯家から迎えの電気自動車が来ていたのだった。
ならば、帰りの心配は要らない。
それでも、わざわざ直橘を求める理由が判らなかった。
それに、主馬寮とは、宮中の厩を掌る役職だ。
馬丁を指して、ふと出る言葉ではない。
「少し頼みたいことがありまして」
「……唐突ですのね」
「あなたの次に気になっていたものですから」
「そういう言い方をなさらないでくださいませ」
また、紬路の反応を見ているのか、わざと境目の曖昧な言い方をする。
あるいは直橘を特別に庇うかどうかまで、確かめているようだった。
「では言い直しましょう。翁にとって、是非借り出したい人手なのだそうです」
そのときだけ、東風の声音は妙に本気を帯びていた。
まるで、欲しかった答えはもう得た、とでもいうように。
「秋の司召で宮中に召し上げられましょう」
ただの雑色には破格の待遇だ。
一体、直橘に何をさせようというのだろう。
湯を借りた後、紬路は用意されていた薄物の洋装に袖を通した。
客間には洋式の卓子が据えられ、夕餉の席には東風も同席している。
椅子の脇で足を止めると、東風が自然な所作で背へ回った。
椅子を引かれ、紬路は一瞬遅れて、それが着席を助けるためだと気付く。
「……ありがとう」
浅く礼を述べて腰を下ろす。
座るだけのことなのに、背後に立たれると、先ほどの舞踏の間の近さを思い出してしまった。
「今宵から舞踏会まで、儂が紬路姫をお預かりいたしましょう」
佐伯翁は、茶をもう一杯勧めるような気軽さでそう言った。
さすがの紬路も、目を丸くする。
「舞踏の稽古だけでは足りますまい。姫には晩餐作法も身につけて頂かねば」
「翁の仰るとおりです。あちらの舞踏会では、洋式の晩餐が供されることもあります」
「儂も席には着くが、献立だけはご容赦願いたい」
東風まで涼しい顔で口を添えるものだから、どうやら冗談ではないらしい。
「我が家の洋食は、この東風と楽しんでくだされ」
東風の所作は、一挙手一投足まで隙がない。
食事作法なら紬路にも身についている筈だった。
それでも彼を前にすると、自分の作法など子供騙しに思えてしまう。
紬路は、僅かに息を吐いた。
どのみち三条へ戻っても、気の晴れぬ思いを持て余すばかりだ。
おまけに、直橘まで借り出されている。
六条別邸は右京寄りにあり、五ツ蔵のつつ屋にも近い。
朝の支度にも余裕ができるし、異国の客人と晩餐を共にするなら、いずれ身につけねばならぬ作法でもある。
そう数え上げてみれば、断る理由の方が少なかった。
紬路は腹を決めた。
左京三条の和泉邸へ遣いをやり、佐伯翁の申し出を受けることにした。



