「だ、駄目です……手袋はきちんとお嵌めになって」
「これは失礼」
まるで詫びる気のない声だった。
その口許にだけ、淡い笑みが残っている。
紬路の狼狽を、どこか自覚的に愉しんでいる。
東風が手袋を外していたのも過失などではなく、直に触れる為だろう。
紬路にも、それくらいは判る。
判るからこそ、余計に頬が熱くなった。
礼法を失しても構わないと、侮られたのだろうか。
何も知らぬ無作法な娘と、思われたのだろうか。
それでも東風の眼差しは、そうした侮りとは少し違った物語を描いているようにしか思えなかった。
揶揄うようでいて、見下してはいない。
甘やかに困らせて、紬路が言葉を返すのを待ち望んでいる何かだ。
「でも、もう触れてしまいました」
「そ、それとこれとは話が別です」
「別でしょうか」
「別です。わたくしは淑女なのですから、そう軽々しく手など取られては困ります。今、きちんと……」
言いながら、紬路は背を向けた。
持って来ていた手袋を取り上げ、指先へ滑り込ませる。
けれど、一度ではうまく嵌まらなかった。
先ほど触れられた指が、まだ妙に熱を持っている。
伯爵令嬢はたとえ未婚であっても淑女の呼称を持つ。
何も可笑しなことは言っていない筈だ。
そう自分に言い聞かせながら、紬路は指先へ力を込めた。
その時、背後に気配が近付いた。
東風が一歩、間を詰めたようだ。
足音らしい足音はしなかった。
ふと気付けば、東風の顔は吐息が髪に触れそうなほど近く、紬路の頭のすぐ上にあった。
「軽々しく、ですか」
「えぇ。慣れぬ段取りで、わたくしにも落ち度はありましたけれど」
入室の折から、きちんと手袋を嵌めておくべきだった。
本来なら、あんな風に素手を取らせてはならない。
作法を一つ外せば、相手に踏み込む隙を与える。
ならばこれは、手痛い教訓と思えばいい。
次は、同じ過ちはしない、と硬く決心する。
「困ったな」
少しも困っていない証拠に、彼の口許は大きな笑みを浮かべている。
「嬉しくて、どうしても慎重になれそうにない……」
「そういうことを口にされるのは、礼儀作法として、どうかと思われますわ」
いちいち真に受けてはならない。
甘い言葉で初心な娘を困らせて愉しむ、厄介な練習相手に過ぎない。
紬路はそう己に言い聞かせた。
「ああ、そうだ」
東風が、ふと思い出したように、紬路の背中から言い足す。
不覚にも隙を見せて詰められた間のまま、声が上から降って来た。
「舞踏会でこうして言い寄られても、きちんとあしらえるようにした方がいい。男は皆、あなたに注目するだろうから」
紬路は牽制の言葉を探しながら、徐に振り返った。
黒い双眸が、思っていたよりずっと近くにある。
その奥に、ふっと悪戯めいた光が差した。
「ええ、そうですわね。付け入る隙などないと思わせませんと。わたくしは商談のために参るのですから。――きっと注目されますもの。華族令嬢が商いなんて、と」
東風は、一瞬だけ黙った。
どうやら言葉の受け取られ方が、少しばかり意図と違ったらしい。
紬路は束の間の勝利感を味わった。
甘い意味に受け取った瞬間、また掌の上で翻弄される。
だからこそ商いの話にすり替えた。
実際、舞踏会は今の紬路にとって遊興の場ではない。
つつ屋の名と評判を広めるための、またとない機会である。
誰かに見初められるわけにはいかない。
それこそが、文子の観た破滅へ続く道なのだから。
「可愛らしい、と称賛されるのがお嫌いなのですか?」
東風が手袋を嵌め直した手を恭しく差し出している。
舞踏の稽古が始まったのだ。
断る言葉は遅れた。
否、もともとが練習の為に此処へ来たのだ。
紬路は、手袋を嵌めた手を差し出した。
素肌のまま指先が触れ合った、あの一瞬。
あれだけで、全てが頭から飛んでしまった。
二度と、あんなことがあってはならない。
そう思うのに、東風の手を見た途端、指先が裏切るようにあの熱を思い出してしまう。
手から引かれて、東風の腕の内に囲われた。
その懐の距離だけが、俄かに世界から切り離されたように狭く感じられる。
うまく顔さえも上げられない。
「下を見ないで」
吐息を含むような声が、耳朶を撫でた。
紬路は弾かれたように顔を上げる。
近い。
正面から息遣いまで届きそうな距離だ。
夜の色を溶かしたような眸が、逸らすことも許さぬ静けさで、まっすぐ紬路を瞶めている。
「これは失礼」
まるで詫びる気のない声だった。
その口許にだけ、淡い笑みが残っている。
紬路の狼狽を、どこか自覚的に愉しんでいる。
東風が手袋を外していたのも過失などではなく、直に触れる為だろう。
紬路にも、それくらいは判る。
判るからこそ、余計に頬が熱くなった。
礼法を失しても構わないと、侮られたのだろうか。
何も知らぬ無作法な娘と、思われたのだろうか。
それでも東風の眼差しは、そうした侮りとは少し違った物語を描いているようにしか思えなかった。
揶揄うようでいて、見下してはいない。
甘やかに困らせて、紬路が言葉を返すのを待ち望んでいる何かだ。
「でも、もう触れてしまいました」
「そ、それとこれとは話が別です」
「別でしょうか」
「別です。わたくしは淑女なのですから、そう軽々しく手など取られては困ります。今、きちんと……」
言いながら、紬路は背を向けた。
持って来ていた手袋を取り上げ、指先へ滑り込ませる。
けれど、一度ではうまく嵌まらなかった。
先ほど触れられた指が、まだ妙に熱を持っている。
伯爵令嬢はたとえ未婚であっても淑女の呼称を持つ。
何も可笑しなことは言っていない筈だ。
そう自分に言い聞かせながら、紬路は指先へ力を込めた。
その時、背後に気配が近付いた。
東風が一歩、間を詰めたようだ。
足音らしい足音はしなかった。
ふと気付けば、東風の顔は吐息が髪に触れそうなほど近く、紬路の頭のすぐ上にあった。
「軽々しく、ですか」
「えぇ。慣れぬ段取りで、わたくしにも落ち度はありましたけれど」
入室の折から、きちんと手袋を嵌めておくべきだった。
本来なら、あんな風に素手を取らせてはならない。
作法を一つ外せば、相手に踏み込む隙を与える。
ならばこれは、手痛い教訓と思えばいい。
次は、同じ過ちはしない、と硬く決心する。
「困ったな」
少しも困っていない証拠に、彼の口許は大きな笑みを浮かべている。
「嬉しくて、どうしても慎重になれそうにない……」
「そういうことを口にされるのは、礼儀作法として、どうかと思われますわ」
いちいち真に受けてはならない。
甘い言葉で初心な娘を困らせて愉しむ、厄介な練習相手に過ぎない。
紬路はそう己に言い聞かせた。
「ああ、そうだ」
東風が、ふと思い出したように、紬路の背中から言い足す。
不覚にも隙を見せて詰められた間のまま、声が上から降って来た。
「舞踏会でこうして言い寄られても、きちんとあしらえるようにした方がいい。男は皆、あなたに注目するだろうから」
紬路は牽制の言葉を探しながら、徐に振り返った。
黒い双眸が、思っていたよりずっと近くにある。
その奥に、ふっと悪戯めいた光が差した。
「ええ、そうですわね。付け入る隙などないと思わせませんと。わたくしは商談のために参るのですから。――きっと注目されますもの。華族令嬢が商いなんて、と」
東風は、一瞬だけ黙った。
どうやら言葉の受け取られ方が、少しばかり意図と違ったらしい。
紬路は束の間の勝利感を味わった。
甘い意味に受け取った瞬間、また掌の上で翻弄される。
だからこそ商いの話にすり替えた。
実際、舞踏会は今の紬路にとって遊興の場ではない。
つつ屋の名と評判を広めるための、またとない機会である。
誰かに見初められるわけにはいかない。
それこそが、文子の観た破滅へ続く道なのだから。
「可愛らしい、と称賛されるのがお嫌いなのですか?」
東風が手袋を嵌め直した手を恭しく差し出している。
舞踏の稽古が始まったのだ。
断る言葉は遅れた。
否、もともとが練習の為に此処へ来たのだ。
紬路は、手袋を嵌めた手を差し出した。
素肌のまま指先が触れ合った、あの一瞬。
あれだけで、全てが頭から飛んでしまった。
二度と、あんなことがあってはならない。
そう思うのに、東風の手を見た途端、指先が裏切るようにあの熱を思い出してしまう。
手から引かれて、東風の腕の内に囲われた。
その懐の距離だけが、俄かに世界から切り離されたように狭く感じられる。
うまく顔さえも上げられない。
「下を見ないで」
吐息を含むような声が、耳朶を撫でた。
紬路は弾かれたように顔を上げる。
近い。
正面から息遣いまで届きそうな距離だ。
夜の色を溶かしたような眸が、逸らすことも許さぬ静けさで、まっすぐ紬路を瞶めている。



