東風の昭陽舎に続けて召され、三日めの夜。
共に三日夜餅を頂く段となったときのこと――
待てども、祝いの亥の子餅が一向に届かない。
膳は整い、火鉢の炭の端が静かに赤々と燃えている。
遣いに出した命婦に何度確かめても、手配は済んでいる筈ですとしか返答がなかった。
ふいに渡殿の奥で、微かな笑いが一つ、灯の外に逃げていく気配がした。
名は出さずとも、誰の差し金かは明らかだ。
後宮の全ての女官を束ねる筈の典侍、撫子だ。
女官を権威か異能かで脅し、餅を届けぬよう厳命を振りかざしているのだろう。
もしかすると紬路以上に事情を粗方把握している東風は、眉一つ動かさず、冷えた膳に箸をつけ始める。
急ぎ、誰か女官なり女房なりを味方に付けなければならない。
紬路は洋礼装の端を握りしめた。
祝うべき夜に、祝いの儀式の主役たる餅が欠けている。
東風と話し合い、紬路は宮中でも特例として洋装で通すことにした。
盛装は撫子を刺激して余計な波を招く、着付けを手伝う筈の命婦も魅了されて妨害してくるとの判断からのことだったが、東風は少し残念そうにはしている。
「三日夜餅がなくとも、気持ちは変わりませんからね」
夕餉が終わった後、隣から添えられた穏やかな一言に、紬路の肩から力が抜けた。
東風は手を差し出し、そっと紬路を立ち上がらせて導いていく。
御帳台の内は、灯を落とした後の温もりが整えられていた。
触れるか触れないかの距離で、東風の腕が背に回る。
抱き寄せる力はごく控えめで、少しの間だ。
硬い胸に押し付けられ、こめかみがまた、とくとくと鼓動を打つのを感じる。
舞踏の折に覚えたはずの距離だが、何度でも身が震えてしまう。
やがて、東風の指先が打掛の縁を整えた。
「冷えます。褥に」
几帳が静かに立てられた。
隔てはあるのに、気配はすぐ傍にあった。
灯の外で、東風の声が優しく落ちる。
「おやすみなさい」
その夜、紬路は解かれたままの心で目を閉じた。
紬路の起床は遅い。
目を覚ます頃には、東風の気配はもうなく、政務へ出た後だった。
枕辺に僅かに残る温もりを求めて、手を差し伸べてみる。
手早く洋装を身に着け朝の身支度を終えると、紬路は、帳の外へ出た。
板敷の先、蔵司へ通じる渡殿は、朝の光を細く引き込んでいる。
夜の名残はもうなく、足音だけが乾いた板に返った。
各地の荘園より届いた箱にはそれぞれ、産地と納品の印。
中には反物が、今朝も山のように納められている。
大量の布の匂いに、湿りを避けるために敷かれた藁の匂いが淡く混じっている。
もともと更衣とは、帝の被服の一切を司る女官の職名だったものである。
やむなく更衣入侍となった紬路だが、もともと反物を見るのが何より好きな性分で、入内した姫君たちはとかく暇を持て余すと囁かれる宮中にあってもいつまでも飽かずにいられた。
入侍した日の朝、御衣櫃に納めるはずの御衣が、どうにも落ち着かぬ光を返していた。
手に取っても指先に僅かなざらつきと糊がまばらに残っている。
東風の威信に関わることと思えば、見過ごす訳にはいかなかった。
「殿下がこのままお召しになれば、袖口が割れます」
思わず口をついて出た。
場の空気が一瞬だけ止まる。
「……どなたの手配かしら」
周囲の女房たちの視線が揃う。
運び込んでいた雑色の手が、反物の上で止まった。
皆、誰かの所為にしたいような様子だ。
紬路はこのままでは埒が明かないと思い、短く息を吐く。
「差し替えなさい。お湿しを入れてから仕立て直すのです」
指示が落ちる。
それから少しずつ蔵司の者は、紬路に付き従うようになった。
もともと内侍司とは、後宮十二司の中で一番折り合いの悪い官職の者たちであることも幸いした。
皇位の徴たる象徴、神璽――所謂、三種の神器の管理業務を撫子の束ねる内侍司に奪われてからは悲憤に暮れていたのだ。
そのことがあってから紬路は、撫子に対して、異能がなくとも味方を得る糸口を掴み始めていた。
入侍四日目、昼食を摂りに紬路が昭陽北舎へ戻ると、料紙に花を添えた後朝の文が届いていた。聞けば、紬路が気付かなかっただけで、もう朝方には届いていたという。
添えられているのは、一枝の山茶花。
姉の名の由来ともなった椿に似た花である。
だが、その花は首を落とさない。
花びらは一枚ずつ、崩れるように散り、また静かに咲き継ぐ。
――私の愛は、途切れない。
そう言いたいのだろう。
艶を抑えた白が、静かに紙の端へ寄り添っている。
――夜のことを、言葉にせずとも忘れぬように。
そう言われた気がして、紬路は思わず指先で花びらに触れた。
柔らかなはずのそれは、どこか確かな重みを持っている。
後朝の和歌と共に添えられた文は短い。
――今朝も冷えました。どうか温かく。
ただそれだけで、夜離れが、確かに残っていた。
けれど、可怪しなことだった。
ここ二夜、撫子は確かに手を回していた。
人も物も、近づくものは皆、魅了に操られて遠ざけられていた。
後朝の文は、届く早さにこそ価値が置かれるという。
夜が明けて尚、皇子が余韻に溺れ、和歌一つ直ぐに詠めるようでなくては、想いの浅さを疑われる。
共寝し別れたその後、どれほど早く筆を取り、どれほど早く東宮妃の許へ届けるか。
また、どれほど愛しさに満ち足りて、和歌が自然と口をついて出づるものだったか。
その早さこそが、夜を越えてなお残る想いの深さを示すものとされていた。
だからこそ撫子は、二朝続けて確実に遅れるよう、細工してきたのである。
それでも、この文は届いた。何かが可怪しい。
紬路は、もう一度山茶花を見やった。
その夜も、東風は続けて紬路を夜の御殿へと召した。
灯は低く、几帳の内は静かに整えられている。
「一つ、吉報が入りました」
向かい合うや否や、東風は言った。
「新帝の典侍が異能を失ったそうです」
「……それでは、撫子は」
「ああ。これ以上、あのような振る舞いはできまい」
穏やかな物言いだった。
だが、言葉と言葉の間に、何かを測るような間が挟まる。
ただ異能を失っただけではない。
撫子の身に、何か取り返しのつかぬことが起きたのだ。
「どのように――」
だが、紬路の疑問は遮られた。
紬路を見やりながら、切なげにため息を漏らす。
「まだ何があるか判らぬ。そなたを抱くことは控える」
紬路は、頬に熱が上り、顔が紅潮するのを覚えた。
あまりに直截な言い様に、返す言葉が見つからない。
「更衣である以上、軽々しく子をなすわけにはいかぬ」
東風は静かに続ける。
「だが――、一度抱けば、留めが利かなくなりそうでな」
低く落とされた言葉が、すぐ傍で肌をなぞるように残る。
身じろぎ一つで触れ合ってしまいそうで、息は熱を孕んだまま行き場を失った。
息一つするのすら、自ずから意識されてきてしまう。
「のちに位が改まれば、その子は皇子として扱われぬ」
「……」
「臣として外へ出される運命となる」
それが宮中の理であった。
どの御位の母から生まれたかで、全てが決まる。
母が更衣であれば、何時儚き身とならぬとも限らぬ。
数ならぬ身として扱われるのだ。
東風は、そのように生まれ落ち、育ち、計略によって堕ちていった宮たちを幾人も見てきたのだろう。
表向きは病、あるいは不運と片づけられながら二度と戻らず、ある者は名を奪われ、ある者は宮中の奥深くで息を絶やしたのだ。
言葉の奥に、他人事として見過ごしてきたわけではない者の苦さが滲んでいた。
「望まぬ形で、そなたに無体を働くつもりはないのです」
東風はそう言って、手を伸べた。
触れるか触れぬかの距離で、その手はいつも止まる。
求めていないわけではない。
むしろ抑えているからこそ、その指先に熱が宿る。
臣下も何もかも踏み越えれば、全てを得られる人である筈なのに。
それでも東風は、その境を越えようとはしなかった。


