昭陽舎の灯は落とされ、帳の内には焚き染められた仄かな香だけが残っている。
毎夜、護るためと御帳台に呼ばれては、東風の求める腕に抱かれる。
今日もまた召し出され、指先でそっと帳をなぞったところだ。
いつの間にか、それが合図となっていた。
紬路は、宮中にあって、あえて洋装を纏っていた。
視線を散らし、立場を曖昧にするための装いだ。
だが、夜だけは違う。
薄い長襦袢に、単衣を重ね、その上から打掛を軽く羽織る。
肌を隠すようでいて、僅かに気配だけを残す装い。
――撫子。
その名が、胸の奥を抉る。
あの女の視線は形あるものだけでなく、心の綻びまでも見抜くようで、不用意に隙を晒せば何処から侵入されるか分からない。
「……おいで」
待ちきれぬように気配が動いた。
灯りに照らされた影を纏いながら、帳の内へ滑り込む。
褥の上で、距離がなくなる。
ただ、手が伸び、姿容貌を確かめるようになぞる。
素肌に触れられる前から、息が浅くなる。
東風は毎夜、紬路の打掛すら脱がせようとはしない。
歯止めが利かなくなることを怖れているのだ。
望めば、全てを手に入れられる身であるはずなのに。
人も、地位も、名も。
この世に在るものの殆どは、その一声で動く。
それでも。
毎夜、この帳の内に限っては、違っていた。
指先は、確かめるように辿るだけ。
衣の合わせに触れても、それ以上は踏み込まない。
まるで、自らに枷を課しているかのように。
東風は、深く息を落とした。
抑えている。
抱き寄せる腕の強さが、それを物語っていた。
「最初に鑑賞会で見初めたときから、離す気はなかった」
その言葉は静かだったが、覆しようのない確かさを帯びていた。
軽く語られているのに、長く抱え続けてきた執着が滲む。
「顔を上げ、いずれも着飾った綺羅星のような姫たちの中で、あなたは何か異なる気配を湛えていた」
そこで東風は一度、言葉を切った。
あの日の紬路を思い返しているように、視線が少し遠くなる。
「私の妃にしようとしたところで、邪魔が入ったのです。鑑賞会の際には私はまだ東宮という権力を揮える立場ではなかった」
感情は抑えられている。
だが、その奥で、押し殺された怒りが燻っていた。
「あなたが魅了の異能を用い、前の帝に不敬を働いたのだと、私に讒言する者があった」
宮中において、帝への不敬。
それは、只の噂では済まされない。
「……お信じになられたのですか」
東風は答えなかった。
ただ、腕の中の距離を僅かに詰める。
「どう見るか」
その問いに、試す気配はなかった。
紬路は、目を伏せる。
あの日、つつ屋の軒下で。
東風は、ただ反物を買い求める客として其処にいた。
けれど、投げかけられた問いは、どれも品を選ぶだけのものではなかった。
この絹を遠き国へ渡すなら、何を改め何を残すべきか。
紬路は、一つずつ答えた。
艶だけを見たのではない。
着る者の顔立ち、身分、場、そしてその先にある商いの流れまで結びつけて。
答える度、東風の眼差しが変わっていった気がした。
反物ではなく、紬路自身の奥にあるものを、測られているように。
姉のような強大な異能は、ついぞ現れ出なかった。
それでも、人を見、物を見、世の流れを読むことなら、紬路にもできる。
東風はそこを見込んで、讒言を信じなかったのかもしれなかった。
「……信じていらしたのなら、今こうしていらっしゃる筈もなく」
そう答えると、抱き寄せる腕に力が入った。
息を吐いたのか、それとも、言葉を呑み込んだのか。
「ああ」
短く、肯定が落ちる。
「くだらぬ」
低く吐き捨てられる。
「だが、動けなくなった。私に求心力が足りなかった。……何一つ、疵なく輝いていたあなたを深く傷つけた」
抑えたままの言葉の奥に、悔いと執着が重なっている。
それが、長く紬路を望んできた事実を、何よりも雄弁に語っていた。
「そして直に話をしてみると利発で、商いを通して世の中を広く識る、真に見事な姫だということを知りました」
称えられるほど、かつてと今との隔たりが、際立って感じられる。
まだ東風を知る前の自分は何と頼りなく、狭い世界に閉じていたことか。
「つつ屋の軒下で、撫子という令嬢があなたを愚弄していたのも見ていました」
紬路は弾かれたように顔を上げた。
いつのことだったか、はっきりとは思い出せない。
だが、あれは確か店を任されて間もない頃、まだ何もかも手探りで足場も定まらぬまま、ただ必死に瑠衣と二人で店先に立っていた頃のことではなかったか。
東風と出会うより、前の筈だ。
胸の内で、何かがずれる。
辻褄が、合わない。
怪訝そうな面持ちになった紬路に、東風が先回りする。
「そなたは東宮妃にと望まれた身だ。……ずっと以前から護衛があったし、私自身も時間を作っては何度も逢いに、――いや見に行っていたのだ」
それは護衛や身辺調査という名目に過ぎない。
本当は、ただ確かめたかったのだ。そこに在ることを。
本来ならば、近付いてはならぬ距離だった。
触れれば、立場も、秩序も、全てを歪めてしまう。
それでも。
足は止まらなかった。
理で押し留める度、別の何かがそれを上回る。
許されぬと知りながら、なお求めてしまう衝動。
遠くから一目見るだけでいいと、自らに言い聞かせる。
それで足りるはずだと、何度も思い直す。
だが――
一度その姿を目にすれば、次を次を望まずにはいられない。
距離を守ることでしか保てぬ均衡を、自ら崩しかねないことを、誰よりも知っているのに。
それでも見ずに逢わずには、いられなかった。
何一つ手に入らぬものなどない筈の身で、ただ一人の女に対してだけ、許されぬ形でしか近付けない。
それでも尚、求めてしまう。今宵もこうして、触れられぬ先を知りながら、触れている。
本来ならば、ここで止めねばならない。
その先へは、決して踏み込んではならぬはずなのに。
それでも、腕を離すことができない。
奪うことはできぬ。
だが、離すこともできぬ。
その狭間で、尚、求めている。
それ自体が、既に理を越えていた。
毎夜、護るためと御帳台に呼ばれては、東風の求める腕に抱かれる。
今日もまた召し出され、指先でそっと帳をなぞったところだ。
いつの間にか、それが合図となっていた。
紬路は、宮中にあって、あえて洋装を纏っていた。
視線を散らし、立場を曖昧にするための装いだ。
だが、夜だけは違う。
薄い長襦袢に、単衣を重ね、その上から打掛を軽く羽織る。
肌を隠すようでいて、僅かに気配だけを残す装い。
――撫子。
その名が、胸の奥を抉る。
あの女の視線は形あるものだけでなく、心の綻びまでも見抜くようで、不用意に隙を晒せば何処から侵入されるか分からない。
「……おいで」
待ちきれぬように気配が動いた。
灯りに照らされた影を纏いながら、帳の内へ滑り込む。
褥の上で、距離がなくなる。
ただ、手が伸び、姿容貌を確かめるようになぞる。
素肌に触れられる前から、息が浅くなる。
東風は毎夜、紬路の打掛すら脱がせようとはしない。
歯止めが利かなくなることを怖れているのだ。
望めば、全てを手に入れられる身であるはずなのに。
人も、地位も、名も。
この世に在るものの殆どは、その一声で動く。
それでも。
毎夜、この帳の内に限っては、違っていた。
指先は、確かめるように辿るだけ。
衣の合わせに触れても、それ以上は踏み込まない。
まるで、自らに枷を課しているかのように。
東風は、深く息を落とした。
抑えている。
抱き寄せる腕の強さが、それを物語っていた。
「最初に鑑賞会で見初めたときから、離す気はなかった」
その言葉は静かだったが、覆しようのない確かさを帯びていた。
軽く語られているのに、長く抱え続けてきた執着が滲む。
「顔を上げ、いずれも着飾った綺羅星のような姫たちの中で、あなたは何か異なる気配を湛えていた」
そこで東風は一度、言葉を切った。
あの日の紬路を思い返しているように、視線が少し遠くなる。
「私の妃にしようとしたところで、邪魔が入ったのです。鑑賞会の際には私はまだ東宮という権力を揮える立場ではなかった」
感情は抑えられている。
だが、その奥で、押し殺された怒りが燻っていた。
「あなたが魅了の異能を用い、前の帝に不敬を働いたのだと、私に讒言する者があった」
宮中において、帝への不敬。
それは、只の噂では済まされない。
「……お信じになられたのですか」
東風は答えなかった。
ただ、腕の中の距離を僅かに詰める。
「どう見るか」
その問いに、試す気配はなかった。
紬路は、目を伏せる。
あの日、つつ屋の軒下で。
東風は、ただ反物を買い求める客として其処にいた。
けれど、投げかけられた問いは、どれも品を選ぶだけのものではなかった。
この絹を遠き国へ渡すなら、何を改め何を残すべきか。
紬路は、一つずつ答えた。
艶だけを見たのではない。
着る者の顔立ち、身分、場、そしてその先にある商いの流れまで結びつけて。
答える度、東風の眼差しが変わっていった気がした。
反物ではなく、紬路自身の奥にあるものを、測られているように。
姉のような強大な異能は、ついぞ現れ出なかった。
それでも、人を見、物を見、世の流れを読むことなら、紬路にもできる。
東風はそこを見込んで、讒言を信じなかったのかもしれなかった。
「……信じていらしたのなら、今こうしていらっしゃる筈もなく」
そう答えると、抱き寄せる腕に力が入った。
息を吐いたのか、それとも、言葉を呑み込んだのか。
「ああ」
短く、肯定が落ちる。
「くだらぬ」
低く吐き捨てられる。
「だが、動けなくなった。私に求心力が足りなかった。……何一つ、疵なく輝いていたあなたを深く傷つけた」
抑えたままの言葉の奥に、悔いと執着が重なっている。
それが、長く紬路を望んできた事実を、何よりも雄弁に語っていた。
「そして直に話をしてみると利発で、商いを通して世の中を広く識る、真に見事な姫だということを知りました」
称えられるほど、かつてと今との隔たりが、際立って感じられる。
まだ東風を知る前の自分は何と頼りなく、狭い世界に閉じていたことか。
「つつ屋の軒下で、撫子という令嬢があなたを愚弄していたのも見ていました」
紬路は弾かれたように顔を上げた。
いつのことだったか、はっきりとは思い出せない。
だが、あれは確か店を任されて間もない頃、まだ何もかも手探りで足場も定まらぬまま、ただ必死に瑠衣と二人で店先に立っていた頃のことではなかったか。
東風と出会うより、前の筈だ。
胸の内で、何かがずれる。
辻褄が、合わない。
怪訝そうな面持ちになった紬路に、東風が先回りする。
「そなたは東宮妃にと望まれた身だ。……ずっと以前から護衛があったし、私自身も時間を作っては何度も逢いに、――いや見に行っていたのだ」
それは護衛や身辺調査という名目に過ぎない。
本当は、ただ確かめたかったのだ。そこに在ることを。
本来ならば、近付いてはならぬ距離だった。
触れれば、立場も、秩序も、全てを歪めてしまう。
それでも。
足は止まらなかった。
理で押し留める度、別の何かがそれを上回る。
許されぬと知りながら、なお求めてしまう衝動。
遠くから一目見るだけでいいと、自らに言い聞かせる。
それで足りるはずだと、何度も思い直す。
だが――
一度その姿を目にすれば、次を次を望まずにはいられない。
距離を守ることでしか保てぬ均衡を、自ら崩しかねないことを、誰よりも知っているのに。
それでも見ずに逢わずには、いられなかった。
何一つ手に入らぬものなどない筈の身で、ただ一人の女に対してだけ、許されぬ形でしか近付けない。
それでも尚、求めてしまう。今宵もこうして、触れられぬ先を知りながら、触れている。
本来ならば、ここで止めねばならない。
その先へは、決して踏み込んではならぬはずなのに。
それでも、腕を離すことができない。
奪うことはできぬ。
だが、離すこともできぬ。
その狭間で、尚、求めている。
それ自体が、既に理を越えていた。


