翌日、三条の和泉家へ、六条別邸から直々に迎えの電気自動車が寄越された。
佐伯翁は、内裏に近い本邸を長男へ譲って久しい。
今は華族にしては珍しく、右京寄りの六条別邸を住まいとしていた。
紬路は、付添役の直橘に伴われて車へ乗った。
六条別邸へ着くと、二人は程なく客間へ通される。
障子は外されて広く取られ、畳の上には異国の蓄音機まで据えられており、即席の稽古場の様相を帯びている。
こうして異国の品が置かれていても、翁の屋敷そのものは奥まで全て和式なのだろうと、紬路は思った。
「まあ、可憐なお嬢さま」
紬路を迎えたのは、栗色の髪をきりりと結い上げた異人の女だった。
流暢な言葉で名乗り、裾を乱さぬよう膝を折って礼をする。
すらりとした長身に、動きやすそうな洋装がよく似合っていた。
その姿を見た途端、直橘は自分の立場を悟ったらしい。
「では、俺は控えております」
余計な口を挟まず、すっと一礼する。
紬路が振り返るより早く、直橘は広縁の方へ退いていった。
襖の向こうに気配だけが残る。
それでも、一人きりにされたわけではないと思える距離だった。
「舞踏の手ほどきを致します。よろしくお願いします」
異人の女は教師らしく、仕草の一つまで美しい。
紬路は思わず背を伸ばした。
車中で窮屈に思えて外してしまった手袋が、今になって気にかかった。
「どうぞ気負わず。最初は立ち方からでございます。拍は洋語で取らせて頂いておりますので、ご容赦を」
紬路は、さすがに拍くらいは覚えている筈よ、と素早く記憶を確認する。
作法を丸きり何も分からぬと思われるのは、異国の階位でいえば伯爵に当たる和泉家の娘として、癪であった。
「えぇ、よろしくお願いします」
その時、広間の向こうの扉が開いた。
入って来たのは、黒の燕尾服を着た若い青年だった。
一見すれば、舞踏の場に適った、ごく正しい装いに過ぎない。
けれど、近付いて来るにつれて、紬路の眼にもその生地と仕立ての良さが判った。
敵織は細やかで、下襟の張りも申し分ない。
袖口から覗く白い手袋の端まで、隙なく整えられている。
歩みは悠然としているようで、一分の隙もない。
磨き上げられた板敷に落ちる足音が整った拍を刻み、まるで、まだ流れてもいない円舞曲を、先に床へ置いていくような所作だった。
舞踏の教師は微笑み、青年を振り返った。
「練習のお相手を務めてくださいます方です。男性パートの方が必要ですからね。とてもお上手よ、ご安心なさって」
紬路は思わず、その足許から袖口へ視線を移した。
どこかで見たような気がする。
けれど直ぐには思い出せない。
ただ、こういう男は市井には滅多に居ない。
それだけは、はっきりと判った。
青年は何も言わず、ただ唇を引き結び、目を離さぬまま一礼した。
その仕草があまりにも端正で、一瞬見惚れていた紬路は返すべき礼を忘れた。
にこやかな笑顔を投げ掛けられ、漸く周章てて軽く伏礼を返す。
女学校で礼法を習って以来のことだったが、意外にも身体はまだ覚えていた。
「……どこかでお会いしたかしら?」
女から声を掛けるのは無作法だと思いつつも、既視感が礼法を超えてしまう。
困惑した気配もなく、その青年はほんの少し眉尻を下げた。
端正な顔立ちだけに、その僅かな変化が妙に痛々しく映る。
「あなたに覚えて頂けなかったのですね」
いかにも傷ついたように言ってみせてから、直ぐに気を取り直したように口許を緩めた。
名乗るまでもなく覚えていて欲しかったのだろうか。
それとも、一度だけでも目に留まっていたと、どこかで信じていたのだろうか。
その微笑みが、何とは無しにぎこちない。
作ったものだ、と、そう紬路にも知れた。
紬路は心の内で、そっと首を傾げる。
この青年に、落胆を抱かせる覚えはない。
次の瞬間、彼の面差しが、ふっと華やいだ。
何か、無邪気な悪巧みを思いついたように。
あるいは、僅かな仕返しを決めた少年のように。
「あなたの五ツ蔵の、つつ屋ですよ」
静かに告げられた屋号に、間が落ちる。
紬路にとって贔屓筋の客の名は忘れてよいものではい。
本当にお客様だったかしら、まさかそんな筈は、と紬路は絶句した。
ならば、確かめてみるしかない。
「お名前は?」
青年は虚を突かれたように、ほんの一拍だけ間を置いた。
「東……東風」
「変わったお名前ですのね。覚えていない筈はないのに」
「名乗りませんでしたから」
青年は気を悪くした風もなく、ただその無防備さを面白がるように目を細めた。
「額が足りなかったのかな」
「額?」
突然、別の話題に変えられて、紬路は戸惑った。
丸きりの戯れのようでいて、何がしかの真剣さが感じられる。
何か忘れているのかもしれないという気がした。
「店で使った額です。……あれでは、あなたの記憶に残るには足りなかったのでしょう」
先程から、彼は少しばかり揶揄うような気配を纏っている。
「覚えて頂くために、もっと通いましょう」
そう言うなり、青年は紬路の剥きだしの手を取った。
あまりに自然な所作だった。
驚くより早く、指先を掬われる。
いつの間にか、青年も白い手袋を外していたらしい。
触れた指先は、ひやりとしていた。
けれど重なったところから、じわりと熱を帯びてゆく。
指の腹が、紬路の指先を確かめるように僅かに動いた。
逃がさぬほど強くはないが、離す気もないような力加減。
曖昧な触れ方に、紬路は呼吸が意識されるのを覚えた。
その手が、つと目の高さまで持ち上げられる。
――口づけられる。
そう思った瞬間、紬路は身を強張らせた。
けれど東風の唇は、触れる寸前で留まった。
落ちたのは、ほんの少し温かな吐息だけ。
指先に触れたか触れぬかの距離で、熱だけが残る。
紬路は、自分が安堵したのか落胆したのか、判らなかった。
「……っ」
「いずれ、あなたに太客と言わせてみせますよ」
こんな風に手を取られるのも初めてだった。
まして、口づけられると思わされるなど。
実際には、唇は触れていない。
それなのに指先にはまだ温かな吐息が残っている。
触れられなかった場所が、却って甘く疼くようだった。
舞踏会の心配など、一瞬で何処かへ飛んでしまった。
佐伯翁は、内裏に近い本邸を長男へ譲って久しい。
今は華族にしては珍しく、右京寄りの六条別邸を住まいとしていた。
紬路は、付添役の直橘に伴われて車へ乗った。
六条別邸へ着くと、二人は程なく客間へ通される。
障子は外されて広く取られ、畳の上には異国の蓄音機まで据えられており、即席の稽古場の様相を帯びている。
こうして異国の品が置かれていても、翁の屋敷そのものは奥まで全て和式なのだろうと、紬路は思った。
「まあ、可憐なお嬢さま」
紬路を迎えたのは、栗色の髪をきりりと結い上げた異人の女だった。
流暢な言葉で名乗り、裾を乱さぬよう膝を折って礼をする。
すらりとした長身に、動きやすそうな洋装がよく似合っていた。
その姿を見た途端、直橘は自分の立場を悟ったらしい。
「では、俺は控えております」
余計な口を挟まず、すっと一礼する。
紬路が振り返るより早く、直橘は広縁の方へ退いていった。
襖の向こうに気配だけが残る。
それでも、一人きりにされたわけではないと思える距離だった。
「舞踏の手ほどきを致します。よろしくお願いします」
異人の女は教師らしく、仕草の一つまで美しい。
紬路は思わず背を伸ばした。
車中で窮屈に思えて外してしまった手袋が、今になって気にかかった。
「どうぞ気負わず。最初は立ち方からでございます。拍は洋語で取らせて頂いておりますので、ご容赦を」
紬路は、さすがに拍くらいは覚えている筈よ、と素早く記憶を確認する。
作法を丸きり何も分からぬと思われるのは、異国の階位でいえば伯爵に当たる和泉家の娘として、癪であった。
「えぇ、よろしくお願いします」
その時、広間の向こうの扉が開いた。
入って来たのは、黒の燕尾服を着た若い青年だった。
一見すれば、舞踏の場に適った、ごく正しい装いに過ぎない。
けれど、近付いて来るにつれて、紬路の眼にもその生地と仕立ての良さが判った。
敵織は細やかで、下襟の張りも申し分ない。
袖口から覗く白い手袋の端まで、隙なく整えられている。
歩みは悠然としているようで、一分の隙もない。
磨き上げられた板敷に落ちる足音が整った拍を刻み、まるで、まだ流れてもいない円舞曲を、先に床へ置いていくような所作だった。
舞踏の教師は微笑み、青年を振り返った。
「練習のお相手を務めてくださいます方です。男性パートの方が必要ですからね。とてもお上手よ、ご安心なさって」
紬路は思わず、その足許から袖口へ視線を移した。
どこかで見たような気がする。
けれど直ぐには思い出せない。
ただ、こういう男は市井には滅多に居ない。
それだけは、はっきりと判った。
青年は何も言わず、ただ唇を引き結び、目を離さぬまま一礼した。
その仕草があまりにも端正で、一瞬見惚れていた紬路は返すべき礼を忘れた。
にこやかな笑顔を投げ掛けられ、漸く周章てて軽く伏礼を返す。
女学校で礼法を習って以来のことだったが、意外にも身体はまだ覚えていた。
「……どこかでお会いしたかしら?」
女から声を掛けるのは無作法だと思いつつも、既視感が礼法を超えてしまう。
困惑した気配もなく、その青年はほんの少し眉尻を下げた。
端正な顔立ちだけに、その僅かな変化が妙に痛々しく映る。
「あなたに覚えて頂けなかったのですね」
いかにも傷ついたように言ってみせてから、直ぐに気を取り直したように口許を緩めた。
名乗るまでもなく覚えていて欲しかったのだろうか。
それとも、一度だけでも目に留まっていたと、どこかで信じていたのだろうか。
その微笑みが、何とは無しにぎこちない。
作ったものだ、と、そう紬路にも知れた。
紬路は心の内で、そっと首を傾げる。
この青年に、落胆を抱かせる覚えはない。
次の瞬間、彼の面差しが、ふっと華やいだ。
何か、無邪気な悪巧みを思いついたように。
あるいは、僅かな仕返しを決めた少年のように。
「あなたの五ツ蔵の、つつ屋ですよ」
静かに告げられた屋号に、間が落ちる。
紬路にとって贔屓筋の客の名は忘れてよいものではい。
本当にお客様だったかしら、まさかそんな筈は、と紬路は絶句した。
ならば、確かめてみるしかない。
「お名前は?」
青年は虚を突かれたように、ほんの一拍だけ間を置いた。
「東……東風」
「変わったお名前ですのね。覚えていない筈はないのに」
「名乗りませんでしたから」
青年は気を悪くした風もなく、ただその無防備さを面白がるように目を細めた。
「額が足りなかったのかな」
「額?」
突然、別の話題に変えられて、紬路は戸惑った。
丸きりの戯れのようでいて、何がしかの真剣さが感じられる。
何か忘れているのかもしれないという気がした。
「店で使った額です。……あれでは、あなたの記憶に残るには足りなかったのでしょう」
先程から、彼は少しばかり揶揄うような気配を纏っている。
「覚えて頂くために、もっと通いましょう」
そう言うなり、青年は紬路の剥きだしの手を取った。
あまりに自然な所作だった。
驚くより早く、指先を掬われる。
いつの間にか、青年も白い手袋を外していたらしい。
触れた指先は、ひやりとしていた。
けれど重なったところから、じわりと熱を帯びてゆく。
指の腹が、紬路の指先を確かめるように僅かに動いた。
逃がさぬほど強くはないが、離す気もないような力加減。
曖昧な触れ方に、紬路は呼吸が意識されるのを覚えた。
その手が、つと目の高さまで持ち上げられる。
――口づけられる。
そう思った瞬間、紬路は身を強張らせた。
けれど東風の唇は、触れる寸前で留まった。
落ちたのは、ほんの少し温かな吐息だけ。
指先に触れたか触れぬかの距離で、熱だけが残る。
紬路は、自分が安堵したのか落胆したのか、判らなかった。
「……っ」
「いずれ、あなたに太客と言わせてみせますよ」
こんな風に手を取られるのも初めてだった。
まして、口づけられると思わされるなど。
実際には、唇は触れていない。
それなのに指先にはまだ温かな吐息が残っている。
触れられなかった場所が、却って甘く疼くようだった。
舞踏会の心配など、一瞬で何処かへ飛んでしまった。



