その日、紬路は畳紙を検品しながら、行き交う女たちの帯や髪飾りに、以前よりも明らかに流行の匂いが混じるのを感じていた。
右京は、時代の変わり目そのもののようだ。
女も職を持ち、日に日に装いを華やかにしていく。
華族令嬢の生まれでなくとも、買い物を楽しむ者は確実に増えていた。
「まあァ。やっぱり、あなたでしたのね」
転がすような笑いに、紬路の指先が止まった。
軒先に立っていたのは、女学校時代の同級、撫子である。
白藍の絽に、銀糸の夏帯。
撫子と桔梗を散らした涼しげな装い。
襟の刺繍半襟からは、逆山形の玉の肌が覗き、帯留めには小さな白蝶貝までが綺羅めいていた。
その後ろには、取り巻きらしい娘が二人。
同じ角度で扇を持ち、同じ拍子で微笑む様は、まるで糸に引かれる人形のようだった。
「お久しゅうございますわね、紬路さん」
「……撫子さん。右京へいらっしゃるとは存じませんでした」
洋装であることが、急に悔やまれた。
正式な和装であれば、今この都で紬路の右に出る者はない筈なのに。
「ええ、近頃この辺りが面白いと聞きましたの。蔵屋敷街も、随分様変わりしたのでしょう? 商人と奉公人ばかりの住む湿地と聞いていたのに、今ではまるで見世物小屋のようですのね」
女学校時代の誰かから、漏れ聞いて来たに違いない。
くす、と撫子が笑うと、背後の娘たちまで同じ拍子で口元を綻ばせた。
「聖なる乙姫の撫子さまが、わざわざお越し下さったのよ」
「罪人の娘が開く見世蔵にまで」
「ありがたく思うべきよね」
笑みの角度まで揃っている様子が、人形めいていて気味が悪い。
ただ撫子の望む形を擦っているだけなのか、表面的な悪意が不気味さを増している。
称揚の形を取りながら、中身が虚ろなのだ。
紬路は、努めて神妙にすることにした。
ここで口を開けば、相手の思う壺だと判ったからだ。
「来てみて成程と思いましたわ。華族の娘が見世物に立つというなら、皆さま見にいらっしゃる筈ですもの。ふふ」
「……何をおっしゃりたいの」
「あら、別段大したことでは。……珍しいことですわね、と申し上げているだけですわ」
撫子は、軒先に置かれた紅差しの箱へ指先を伸ばした。
けれど触れる寸前、汚れものでも避けるように、すっと手を引く演技をしてのける。
男の目を惹くための棒紅。
それを扱う見世に立つ、紬路。
撫子は、見世蔵ごと紬路を下賤な商いの女に仕立て上げようとしているのだ。
「かつては東宮妃候補とまで言われた娘が、今はこうして人目に晒されている。……皆さまがお話の種になさっている訣ですわねえ」
撫子はわざと誰か伝えに聞いたのだと匂わせている。
大仰に持扇を広げ、その上から視線を流してくる。
突然、通りの騒めきが、遠のいていくように感じられた。
扇とは、本来、やんごとない姫君の姿を人目に触れさせぬためのもの。
御簾も几帳も屏風も、皆同じである。
その当て擦りを、紬路が解さぬ筈もなかった。
それでも、華族令嬢の矜持として。
親友にも姉にも悟られぬよう、顔色一つ変えずに来たのだ。
撫子などの前で、表情一つ崩してやるものか、と決心する傍から、撫子は畳み掛けてくる。
「お気の毒ですこと。高い処へ上がりかけた方ほど、落っこちるとよく目立ちますのねえ」
「撫子さん」
呼びかけたところで、撫子は止まらない。
むしろ、漸く効いて来たとでも思ったのだろう、声の端々にかつての同級を追い詰めることへの愉悦が滲んでいる。
「卑賤な人々にまで頭を下げ、お気に召すよう、愛想を尽くして暮らしておいでなのかしら。お可哀想にねえ」
その声に、取り巻きの娘たちが肩を寄せ合う。
恍惚とした面差しのまま、次の言葉を待っている様子は異能の行使の結果にさえ見えた。
「あァ、判りましたわ! お父さまが罷免なされて、お家がご破産してお仕舞いになりましたのね!? ……それとも、特別な異能もないし、ご当主のお姉さまに追い出されてしまったの?」
紬路は、言い返さなかった。
今、守るべきものは自分の面目ではない。
つつ屋の名なのだ。
「ねえ、紬路さん。こうして見世物に立って、見知らぬ殿方のお相手までなさるのでしょう? 女が品を見せて、お声をかけて、にこやかに笑って。その御心を留め、お金を頂くのですもの。……何が違うのかしら。親元からも離れ、お二階に上がればお部屋もあるみたいですし…」
後ろの娘たちが、まあァ、と芝居がかって目を見開く。
その反応まで、初めから用意されていたようだった。
見世蔵には奉公人が住める造りのものも多い。
けれど、そうした邪推をされる謂れはない。
「そのうち、春を販ぐことにも慣れてお仕舞いなのかしらね。――かつては東宮さまのお妃とも目されていた方がねえ」
撫子は言いながら、扇を唇へ当て、ひどく美しく微笑した。
通りの騒めきが、今度こそ消えた気がした。
東宮は、春宮とも書く。
侮辱としては、あまりにも不敬で、露骨な仄めかしだった。
しかも言い返せない立場の紬路に向かって。
そんな撫子の下劣さに、怒りさえ直ぐには追いつかなかった。
「厭ですわ、そんな顔をなさらないで。わたくし、心配して差し上げているのよ。――家の外で女が身を立てるなど、その方面しかありませんものねェ。……皆さん、そう勘繰っていらっしゃるのよ。それを、わたくしが出向いて、ご忠告差し上げたに参りましただけなの」
その瞬間、紬路の内側で、何かが音を立てて破れた。
異能を目方に量られて家へ入るだけの女が、何を言う。
嫁ぐという名目で家から家へ差し出されるのよりも、本当に下劣だと言えるの。
自分の意思で切り拓いて、選び取ったことなどないくせに。
――そうした、冷たい怒りだった。
「お引き取りください」
自分でも驚くほど、整った声だった。
撫子が目を瞬く。
「まあァ、怖い」
「ここは見世蔵です。お買い物でないなら、他のお客様のご迷惑になります」
「……わたくしに指図なさるの」
「えぇ。お客さまではありませんもの」
取り巻きたちの笑みが、揃って固まった。
撫子の扇が、唇の前でぴたりと止まる。
華族令嬢としてではない。
この見世蔵を預かる者として、紬路はそこに立っていた。
「お金がないって不幸ね。どなたか賤しい商人の、お妾にでもなられたの? こんな見世物小屋を与えられるなんて。三条のお屋敷とは随分と離れて囲われていらっしゃるのね」
「わたくしはただ、此処で働いておりますから……帰ってよ」
働く、という言葉に、撫子の眉がぴくりと動いた。
華族の娘が自ら口にするべき言葉ではない、とでも言いたげだった。
「商いは、見世物ではございません。まして、あなたの仰言るような者と一緒にされる筋合いもないわ」
「……っ」
「品を人に渡し、その対価を頂く。名を懸けて、責めを負って、それで漸く成る仕事です。――ご存じないなら踏みにじらないで」
撫子の顔から笑みが薄れた。
取り巻きたちも、判子を押したような無表情で動きを失っている。
「あなたは品を見に来たのではなく、人を傷つけに来ただけです」
沈黙が落ちた。
やがて撫子は、背後の者へ僅かに顎を引く。
「……まあ、そろそろ失礼いたしますわ。これ以上長居しては、鄙女の感覚が移って来そうですもの」
去り際の撫子は、言葉ほど悠然としていなかった。
最後に向けた一瞥には、怯えにも似たものが何処か混じっていた。
まるで、自分の方こそ、何かを見抜かれたのではないかと疑っているように。
撫子たちは、往来に停めていた馬車へ戻っていった。
扉が閉まり、やがて馬の蹄と車輪の音が通りの向こうへ遠ざかる。
つつ屋には、漸くいつもの騒めきが戻って来た。
客の声。
反物を広げる音。
奥で瑠衣が客を迎える華やかな調子。
それでも紬路は、直ぐには動けなかった。
疲れた頭の芯が、じんと痺れている。
その見世蔵の脇、立てかけた戸の陰。
一人の男が身を潜めている。
撫子の去った方角を、黙したまま見つめていた。
いつから其処に居たのか、人目を避けるように身を置いては居る。
しかし、ただの通りすがりにしては、あまりに佇まいが整い過ぎていた。
一度目に留まれば、立ち姿から滲むものまでは隠しようがない。
すらりとした背。
乱れなく重ねられた指。
僅かに伏せられた睫毛。
その下に、今しがた起きた出来事の全てを見透かすような鋭い眼差しがある。
通りの騒めきが、其処だけ妙に薄く引いて見えていた。
右京は、時代の変わり目そのもののようだ。
女も職を持ち、日に日に装いを華やかにしていく。
華族令嬢の生まれでなくとも、買い物を楽しむ者は確実に増えていた。
「まあァ。やっぱり、あなたでしたのね」
転がすような笑いに、紬路の指先が止まった。
軒先に立っていたのは、女学校時代の同級、撫子である。
白藍の絽に、銀糸の夏帯。
撫子と桔梗を散らした涼しげな装い。
襟の刺繍半襟からは、逆山形の玉の肌が覗き、帯留めには小さな白蝶貝までが綺羅めいていた。
その後ろには、取り巻きらしい娘が二人。
同じ角度で扇を持ち、同じ拍子で微笑む様は、まるで糸に引かれる人形のようだった。
「お久しゅうございますわね、紬路さん」
「……撫子さん。右京へいらっしゃるとは存じませんでした」
洋装であることが、急に悔やまれた。
正式な和装であれば、今この都で紬路の右に出る者はない筈なのに。
「ええ、近頃この辺りが面白いと聞きましたの。蔵屋敷街も、随分様変わりしたのでしょう? 商人と奉公人ばかりの住む湿地と聞いていたのに、今ではまるで見世物小屋のようですのね」
女学校時代の誰かから、漏れ聞いて来たに違いない。
くす、と撫子が笑うと、背後の娘たちまで同じ拍子で口元を綻ばせた。
「聖なる乙姫の撫子さまが、わざわざお越し下さったのよ」
「罪人の娘が開く見世蔵にまで」
「ありがたく思うべきよね」
笑みの角度まで揃っている様子が、人形めいていて気味が悪い。
ただ撫子の望む形を擦っているだけなのか、表面的な悪意が不気味さを増している。
称揚の形を取りながら、中身が虚ろなのだ。
紬路は、努めて神妙にすることにした。
ここで口を開けば、相手の思う壺だと判ったからだ。
「来てみて成程と思いましたわ。華族の娘が見世物に立つというなら、皆さま見にいらっしゃる筈ですもの。ふふ」
「……何をおっしゃりたいの」
「あら、別段大したことでは。……珍しいことですわね、と申し上げているだけですわ」
撫子は、軒先に置かれた紅差しの箱へ指先を伸ばした。
けれど触れる寸前、汚れものでも避けるように、すっと手を引く演技をしてのける。
男の目を惹くための棒紅。
それを扱う見世に立つ、紬路。
撫子は、見世蔵ごと紬路を下賤な商いの女に仕立て上げようとしているのだ。
「かつては東宮妃候補とまで言われた娘が、今はこうして人目に晒されている。……皆さまがお話の種になさっている訣ですわねえ」
撫子はわざと誰か伝えに聞いたのだと匂わせている。
大仰に持扇を広げ、その上から視線を流してくる。
突然、通りの騒めきが、遠のいていくように感じられた。
扇とは、本来、やんごとない姫君の姿を人目に触れさせぬためのもの。
御簾も几帳も屏風も、皆同じである。
その当て擦りを、紬路が解さぬ筈もなかった。
それでも、華族令嬢の矜持として。
親友にも姉にも悟られぬよう、顔色一つ変えずに来たのだ。
撫子などの前で、表情一つ崩してやるものか、と決心する傍から、撫子は畳み掛けてくる。
「お気の毒ですこと。高い処へ上がりかけた方ほど、落っこちるとよく目立ちますのねえ」
「撫子さん」
呼びかけたところで、撫子は止まらない。
むしろ、漸く効いて来たとでも思ったのだろう、声の端々にかつての同級を追い詰めることへの愉悦が滲んでいる。
「卑賤な人々にまで頭を下げ、お気に召すよう、愛想を尽くして暮らしておいでなのかしら。お可哀想にねえ」
その声に、取り巻きの娘たちが肩を寄せ合う。
恍惚とした面差しのまま、次の言葉を待っている様子は異能の行使の結果にさえ見えた。
「あァ、判りましたわ! お父さまが罷免なされて、お家がご破産してお仕舞いになりましたのね!? ……それとも、特別な異能もないし、ご当主のお姉さまに追い出されてしまったの?」
紬路は、言い返さなかった。
今、守るべきものは自分の面目ではない。
つつ屋の名なのだ。
「ねえ、紬路さん。こうして見世物に立って、見知らぬ殿方のお相手までなさるのでしょう? 女が品を見せて、お声をかけて、にこやかに笑って。その御心を留め、お金を頂くのですもの。……何が違うのかしら。親元からも離れ、お二階に上がればお部屋もあるみたいですし…」
後ろの娘たちが、まあァ、と芝居がかって目を見開く。
その反応まで、初めから用意されていたようだった。
見世蔵には奉公人が住める造りのものも多い。
けれど、そうした邪推をされる謂れはない。
「そのうち、春を販ぐことにも慣れてお仕舞いなのかしらね。――かつては東宮さまのお妃とも目されていた方がねえ」
撫子は言いながら、扇を唇へ当て、ひどく美しく微笑した。
通りの騒めきが、今度こそ消えた気がした。
東宮は、春宮とも書く。
侮辱としては、あまりにも不敬で、露骨な仄めかしだった。
しかも言い返せない立場の紬路に向かって。
そんな撫子の下劣さに、怒りさえ直ぐには追いつかなかった。
「厭ですわ、そんな顔をなさらないで。わたくし、心配して差し上げているのよ。――家の外で女が身を立てるなど、その方面しかありませんものねェ。……皆さん、そう勘繰っていらっしゃるのよ。それを、わたくしが出向いて、ご忠告差し上げたに参りましただけなの」
その瞬間、紬路の内側で、何かが音を立てて破れた。
異能を目方に量られて家へ入るだけの女が、何を言う。
嫁ぐという名目で家から家へ差し出されるのよりも、本当に下劣だと言えるの。
自分の意思で切り拓いて、選び取ったことなどないくせに。
――そうした、冷たい怒りだった。
「お引き取りください」
自分でも驚くほど、整った声だった。
撫子が目を瞬く。
「まあァ、怖い」
「ここは見世蔵です。お買い物でないなら、他のお客様のご迷惑になります」
「……わたくしに指図なさるの」
「えぇ。お客さまではありませんもの」
取り巻きたちの笑みが、揃って固まった。
撫子の扇が、唇の前でぴたりと止まる。
華族令嬢としてではない。
この見世蔵を預かる者として、紬路はそこに立っていた。
「お金がないって不幸ね。どなたか賤しい商人の、お妾にでもなられたの? こんな見世物小屋を与えられるなんて。三条のお屋敷とは随分と離れて囲われていらっしゃるのね」
「わたくしはただ、此処で働いておりますから……帰ってよ」
働く、という言葉に、撫子の眉がぴくりと動いた。
華族の娘が自ら口にするべき言葉ではない、とでも言いたげだった。
「商いは、見世物ではございません。まして、あなたの仰言るような者と一緒にされる筋合いもないわ」
「……っ」
「品を人に渡し、その対価を頂く。名を懸けて、責めを負って、それで漸く成る仕事です。――ご存じないなら踏みにじらないで」
撫子の顔から笑みが薄れた。
取り巻きたちも、判子を押したような無表情で動きを失っている。
「あなたは品を見に来たのではなく、人を傷つけに来ただけです」
沈黙が落ちた。
やがて撫子は、背後の者へ僅かに顎を引く。
「……まあ、そろそろ失礼いたしますわ。これ以上長居しては、鄙女の感覚が移って来そうですもの」
去り際の撫子は、言葉ほど悠然としていなかった。
最後に向けた一瞥には、怯えにも似たものが何処か混じっていた。
まるで、自分の方こそ、何かを見抜かれたのではないかと疑っているように。
撫子たちは、往来に停めていた馬車へ戻っていった。
扉が閉まり、やがて馬の蹄と車輪の音が通りの向こうへ遠ざかる。
つつ屋には、漸くいつもの騒めきが戻って来た。
客の声。
反物を広げる音。
奥で瑠衣が客を迎える華やかな調子。
それでも紬路は、直ぐには動けなかった。
疲れた頭の芯が、じんと痺れている。
その見世蔵の脇、立てかけた戸の陰。
一人の男が身を潜めている。
撫子の去った方角を、黙したまま見つめていた。
いつから其処に居たのか、人目を避けるように身を置いては居る。
しかし、ただの通りすがりにしては、あまりに佇まいが整い過ぎていた。
一度目に留まれば、立ち姿から滲むものまでは隠しようがない。
すらりとした背。
乱れなく重ねられた指。
僅かに伏せられた睫毛。
その下に、今しがた起きた出来事の全てを見透かすような鋭い眼差しがある。
通りの騒めきが、其処だけ妙に薄く引いて見えていた。



