その翌々日の昼下がり、紬路と瑠衣は、つつ屋の帳場で並んで帳面を広げていた。
客足は一段落し、店内には帳面を繰る紙の音と算盤の珠を弾く乾いた音とが、時折響く。
ふいに、店先がざわりと揺れた。
人の気配が、普段よりも荒い。
「……何かしら?」
顔を上げた紬路の前に、息を切らした男が現れる。
佐伯翁の内孫にして、姉の許嫁、佐伯霍成だった。
普段の落ち着きが嘘のように、肩で息をしている。
袖口にはうっすらと土が跳ね、裾も乱れていた。
早馬を駆って来たものらしい。
「お義兄さま……?」
紬路が立ち上がる。
その一歩を詰める前に、霍成が口を開いた。
「――紬路」
顔色が明らかに悪い。
それでいて、どこか急いている。
「落ち着いて聞け」
その一言で、胸の奥が冷たくなる。
「……何が、ございましたの」
霍成は、一瞬だけ言葉を選ぶように視線を落とした。
やがて、顔を上げる。
「東宮妃として入侍とのこと、宣下が下った」
時間が、止まったように感じられた。
「……えっ」
思わず漏れたそれは、ひどく間の抜けたものだった。
自分で発した言葉のはずなのに、耳に届くまでに妙な間がある。
わたくしのことだろうか。
どうして、今更――。
胸の奥で、言葉にならぬ疑問が渦を巻いた。
あれ程、唯一つの縁を欲しがっていた頃には、何の沙汰もなかった。
待って、待って、身を落とし、もう待つことを諦めかけた今頃に、なぜ。
なぜ今頃になって、手を差し伸べるような沙汰が下るのだろう。
「異例だが、更衣として」
続けられた言葉が、すぐには意味を結ばない。
音としては届いているのに、頭の中で形を成さない。
東宮妃。
更衣入侍。
その二つが、互いに押し合うように並び、どうにも噛み合わないまま留まる。あり得ないはずのものを、無理に一つへ押し込められているような、その言葉の奇妙な歪み。
――そして、破滅。
文子の洞見によれば、更衣入侍では破滅の運命にある。
紬路は、思わず額に手を当てた。
指先が冷たくて気持ちいい。
「……一寸、お待ちになって」
紬路が瑠衣を振り返ると、二の句を継げなくなったその様子を察して、瑠衣が代わりに霍成へ矢継ぎ早に問いを投げかける。
「それは、どういうことですの? 東宮妃は摂家からの女御入侍しかできない筈です」
「御代替わりがあまりにも急でな。左右大臣に、内大臣。どの家にも適う姫が居らぬのだ」
「ということは……」
「左様。……太政大臣の新たな任命、もしくは摂家からの加階も検討されてはいるが、それら政治判断を待たず――先ず東宮妃については、大納言家より繰り上げとなった」
霍成はそこで、僅かに言い淀んだ。
いかにも口幅ったいことを告げねばならぬ者の、慎重な間だった。
「皇統継嗣のご誕生に関わる御事は、……ゆめゆめ後手に回すべきものではないというご判断だろう」
言ってから、霍成は一度目を伏せた。
あまりに畏れ多い筋の話を慎むようだった。
「また、お前には我が佐伯翁の後見がある」
とてもではないが、宮筋からの縁談を断ったようにはいかない。さすれば、佐伯の家にも迷惑がかかり出世に響くだろう。
そんな考えが、頭の内を一気に満たした瞬間だった。
視界がすっと白く引き、足元の感覚が消えた。
立っているはずなのに、どこにも重みがない。
「……紬路さまッ」
次の瞬間、体が、前へ崩れかけた。
その二の腕を、後ろから強く掴まれる。
瑠衣だ。
支えられ、どうにか倒れ込むのを留められる。
それでも力が入らない。
「――しっかりなさいませ!」
理解が追いつくより先に、別の像が浮かび上がる。
磨き上げられた宮中の渡殿。
その板敷の中央に立ち、此方を見返って微笑む顔。
――撫子。
あの、決して崩れぬ笑みの裏にあるものが、はっきりとした形を持って迫ってきた。
「……撫子」
ぽつりと呟く。
あの、笑みを絶やさぬ顔。
そして、その裏にあるもの。
「きっと宮中に上がったら――」
言葉の端が、頼りなく揺れた。
「撫子に、縊り殺されるわ」
霍成は、何かに気付いたように目を細めた。
「そのようなことは――」
「……否、可能性として高い。残念ながら」
瑠衣を遮った言葉は、感情を挟まぬほど冷えていた。
「今現在、宮中において別の理が働いている形跡がある」
「どういうことですの?」
「魅了の異能――」
その言葉が出た瞬間。
紬路は、弾かれたように顔を上げた。
長台の上にあった帳面が、ばさりと床へ落ちる。
「――っ、それは……!」
声が、抑えきれずに跳ね上がる。
椅子もないはずの場で、思わず身を乗り出していた。
「以前から魅了について囁かれていた件、わたくし手がかりを知っているかもしれません。――新帝の典侍に上がった、その須賀家の撫子姫が……」
言葉が、堰を切ったように溢れ出る。
息を継ぐ暇もないまま、考えが言葉へ追い立てられていく。一度ほどけた均衡は戻らず、抑える間もなく、次の言葉が次の言葉を押し出した。
己がどれほど早口になっているかも、もはや判らなかった。
その剣幕に、霍成が返したのは、ただ一言だった。
「――やはり」
その一言は、重く、確信を含んで落ちた。
既に何かを見定めていた者の響きだ。
「やはり……?」
「女学校の四、五年を共にし、縁が強い。同じ釜の飯とはよく言ったものだ。しかし卒業と相成り、調査が入っても関係を辿るのが難しくなったと見て、一層大胆に濃く操り始めたのだろう」
「……」
「紬路本人に魅了を揮うことはできぬ。反目の感情が強くなるとな。其れ程までに、縁というものは作用する。だからむしろ物理的な実力行使に気を付けてくれ」
紬路は、撫子の操り人形のようになっていた、同級の顔を思い返した。
店を探し当て、わざわざ参上したのも、きっと誰かに魅了を行使した果てなのだろう。
「異能は現行の場でなければ追捕できん」
淡々と告げられた言葉に、紬路は唇を結んだ。
見れば判るはずの歪みが、法の上では形を持たないのだと思い知らされる。
「だが、安心しろ。既に策は打ってある」
霍成の言葉は慰めではない。
すでに事を動かしている者の、揺るがぬ手応えがあった。
「……操られている娘たちを見たことがあります。目撃証言でも足りないのかしら?」
言葉が、前のめりになる。
口調は崩れ、どうにかして食い下がろうとする切迫が滲んでしまう。
霍成は目を伏せ、短く頷いた。
「余程、大人数で同時に目撃などと成らねば難しい」
証では足りない。
そう判っていても、なお縋らずにはいられなかった。
「証がなければ、如何ようにも言い逃れが可能だ。……異能など、本人が最大限の力を顕さねば、判じ難き代物だ」
沈黙が落ちる。
その意は、やがて、じわじわと胸の奥へ沈み込んでいく。
たとえ、何事かが起ころうとも、それが証とならぬ限り――
「……つまり」
紬路は、唇を湿して続けた。
「わたくしが殺されても、証がなければ……如何とも為し得ぬ、と」
霍成は、答えなかった。


