志乃と文子は、紬路の着替えを待たず、それぞれの馬車で帰っていった。
紬路は元の洋装に着替え、一階の帳場に座っていた。
姉に頼まれた本を番頭が探しに行っている間、ほんの少し帳場を任されていたのだ。
そこへ、店先で重いものを下ろす音がした。
蔵へ入れる荷だろうかと顔を上げたところで、厨房から蘭の声が飛んで来た。
「紬路お嬢さま、少しお願いしますにゃあ」
蘭は厨房から顔だけを出している。
袖口から伸びた腕には水気が光り、夜の仕込みで手が離せないらしい。
「廂を閉じて、暖簾も下ろしてくださいますかにゃ。風が変わって来ており」
「ええ、いいわ」
蘭のこうした天性の勘とも思える差配は、妙に外れがない。
紬路は店先へ回り、張り出した廂の金具へ手をかけた。
慣れぬ手つきで布を引き、脇の縄を結び直し、暖簾を外しかけたところで、ふと視線が路面へ吸い寄せられる。
蔵の前に、反物が積まれていた。
検分のために出されたばかりなのだろう。
白い包み紙もまだ新しく、十ばかりの巻きが木箱の上に並んでいる。
「……まあ」
そのうち一巻きだけ、包みの口がわずかに緩んでいた。
覗いた布端が、夕陽を受けて淡く色を変えている。
思わず、暖簾を持つ手が止まった。
紬路は近付き、緩んだ包み紙の隙間からそっと生地を確かめた。
色が一息ごとに揺らいで見えた。
染めの乗りもよく、軽すぎず重すぎない。
密に織られた絹鳴りが、耳に立たぬほど細やかに響く。
まだ広げてもいないのに、生地の目の詰み方だけで上等品と判った。
「その平絹はよろしいでしょう」
背後から、少し嗄れた、けれどよく通る声がした。
振り返ると、外の卓子の脇に、懐手の老人が立っていた。
白髪はきちんと撫でつけられ、何でもない着流しも、仕立ての良さだけは隠せない。
深い皺の奥で、眼だけが妙に悪戯めいている。
「お嬢さんは、どうも目利きがお出来になるようですな」
「……そのくらいはどなたでも」
「いやいや。若い方は色や柄ばかりを見て、糸も打ち込みも見やせぬ。しかも洋装の趣味までよろしいと来ておる」
老人は、紬路の装いを興味深げに眺めた。
褒めているというより、その眼光は何かを確かめている様子だ。
「では、此方の巻きは?」
「それは駄目です」
紬路は即座に首を振った。
「ほう。……と言うと?」
「染めは綺麗でも、生地が色に負けています。三度目には飽きられます」
言ってから、はっとする。
まるで長年、商いの場に立って来た者のような口ぶりだ。
そのやり取りの最中。
箱の奥に半ば隠れた一巻きが、ふと目に入った。
薄暗がりの中に、黄丹にも朱華にも見える色が覗いている。
いずれにせよ、絶対禁色だ。
限られた御君にしか許されぬ色――。
――東宮さまの御紋付きの馬車が、すうっと奥へ入っていったのよ。
ふと志乃の声が、脳裡を掠めた。
まさか。
そう打ち消すより早く、桜花の鑑賞会の日の記憶が淡く戻って来る。
あの日、紬路は大納言家の娘として、令嬢たちの最前にいた。
背後には幾人もの姫君が、春霞のように袖を重ねて並んでいた。
その中で、ほんの一瞬。
あの方の眼差しが、花の上を渡る風のように紬路へと届いた気がした。
まさか、自分ではない。
そう思うより早く、目が合った瞬間、微かに笑まれたように思う。
誰に向けられた微笑みかなど、判る筈もないのに。
それでも紬路は、折々忍びやかに、あの淡い笑みの置き場をひとりでに胸の内に探してしまう。
入侍に相応しい身分でなくなった、今でさえ――。
「では、売れるのはどれです?」
老翁の問いに、紬路は、はっと我に返った。
禁色の一巻きへ吸い寄せられていた意識を、何事もなかったように木箱の上へ戻す。
「売れる、だけならこの薄鼠ですわ。年代を選ばず、着回しが利きますもの。けれど店頭の看板にするなら、古手でも辻が花を飾りたいわ。あれは一目で客の憧れを誘います。……非売品になるかもしれませんが」
辻が花だけは、どんな仕立物師に伝手を辿って注文を頼んでも、再現できないのだ。
それはそのまま紬路の憧れでもある。
言ってしまってから、気が付いた。
まるで長年着物を扱って来た者のような口を利いている、と。
――否、着ることと、仕立てを誂えることだけは、同じ年まわりの誰よりも創意工夫してきたと自負できる。
老人は、にやりとした。
「客を惹き寄せる、ですか。商いの言葉をご存じだ」
「……知っている訣では」
「だが、判っておいでだ」
その言い方は、褒めるというより、見付けた、に近かった。
そう思った途端、暖簾の向こうで馬車の気配が止まった。
見てはならぬ禁色の影が、此方を静かに見返したような気がしていた。
紬路は元の洋装に着替え、一階の帳場に座っていた。
姉に頼まれた本を番頭が探しに行っている間、ほんの少し帳場を任されていたのだ。
そこへ、店先で重いものを下ろす音がした。
蔵へ入れる荷だろうかと顔を上げたところで、厨房から蘭の声が飛んで来た。
「紬路お嬢さま、少しお願いしますにゃあ」
蘭は厨房から顔だけを出している。
袖口から伸びた腕には水気が光り、夜の仕込みで手が離せないらしい。
「廂を閉じて、暖簾も下ろしてくださいますかにゃ。風が変わって来ており」
「ええ、いいわ」
蘭のこうした天性の勘とも思える差配は、妙に外れがない。
紬路は店先へ回り、張り出した廂の金具へ手をかけた。
慣れぬ手つきで布を引き、脇の縄を結び直し、暖簾を外しかけたところで、ふと視線が路面へ吸い寄せられる。
蔵の前に、反物が積まれていた。
検分のために出されたばかりなのだろう。
白い包み紙もまだ新しく、十ばかりの巻きが木箱の上に並んでいる。
「……まあ」
そのうち一巻きだけ、包みの口がわずかに緩んでいた。
覗いた布端が、夕陽を受けて淡く色を変えている。
思わず、暖簾を持つ手が止まった。
紬路は近付き、緩んだ包み紙の隙間からそっと生地を確かめた。
色が一息ごとに揺らいで見えた。
染めの乗りもよく、軽すぎず重すぎない。
密に織られた絹鳴りが、耳に立たぬほど細やかに響く。
まだ広げてもいないのに、生地の目の詰み方だけで上等品と判った。
「その平絹はよろしいでしょう」
背後から、少し嗄れた、けれどよく通る声がした。
振り返ると、外の卓子の脇に、懐手の老人が立っていた。
白髪はきちんと撫でつけられ、何でもない着流しも、仕立ての良さだけは隠せない。
深い皺の奥で、眼だけが妙に悪戯めいている。
「お嬢さんは、どうも目利きがお出来になるようですな」
「……そのくらいはどなたでも」
「いやいや。若い方は色や柄ばかりを見て、糸も打ち込みも見やせぬ。しかも洋装の趣味までよろしいと来ておる」
老人は、紬路の装いを興味深げに眺めた。
褒めているというより、その眼光は何かを確かめている様子だ。
「では、此方の巻きは?」
「それは駄目です」
紬路は即座に首を振った。
「ほう。……と言うと?」
「染めは綺麗でも、生地が色に負けています。三度目には飽きられます」
言ってから、はっとする。
まるで長年、商いの場に立って来た者のような口ぶりだ。
そのやり取りの最中。
箱の奥に半ば隠れた一巻きが、ふと目に入った。
薄暗がりの中に、黄丹にも朱華にも見える色が覗いている。
いずれにせよ、絶対禁色だ。
限られた御君にしか許されぬ色――。
――東宮さまの御紋付きの馬車が、すうっと奥へ入っていったのよ。
ふと志乃の声が、脳裡を掠めた。
まさか。
そう打ち消すより早く、桜花の鑑賞会の日の記憶が淡く戻って来る。
あの日、紬路は大納言家の娘として、令嬢たちの最前にいた。
背後には幾人もの姫君が、春霞のように袖を重ねて並んでいた。
その中で、ほんの一瞬。
あの方の眼差しが、花の上を渡る風のように紬路へと届いた気がした。
まさか、自分ではない。
そう思うより早く、目が合った瞬間、微かに笑まれたように思う。
誰に向けられた微笑みかなど、判る筈もないのに。
それでも紬路は、折々忍びやかに、あの淡い笑みの置き場をひとりでに胸の内に探してしまう。
入侍に相応しい身分でなくなった、今でさえ――。
「では、売れるのはどれです?」
老翁の問いに、紬路は、はっと我に返った。
禁色の一巻きへ吸い寄せられていた意識を、何事もなかったように木箱の上へ戻す。
「売れる、だけならこの薄鼠ですわ。年代を選ばず、着回しが利きますもの。けれど店頭の看板にするなら、古手でも辻が花を飾りたいわ。あれは一目で客の憧れを誘います。……非売品になるかもしれませんが」
辻が花だけは、どんな仕立物師に伝手を辿って注文を頼んでも、再現できないのだ。
それはそのまま紬路の憧れでもある。
言ってしまってから、気が付いた。
まるで長年着物を扱って来た者のような口を利いている、と。
――否、着ることと、仕立てを誂えることだけは、同じ年まわりの誰よりも創意工夫してきたと自負できる。
老人は、にやりとした。
「客を惹き寄せる、ですか。商いの言葉をご存じだ」
「……知っている訣では」
「だが、判っておいでだ」
その言い方は、褒めるというより、見付けた、に近かった。
そう思った途端、暖簾の向こうで馬車の気配が止まった。
見てはならぬ禁色の影が、此方を静かに見返したような気がしていた。



