見世蔵を任されるとは、ただ店を預かることではない。
広く居場所を知らしめ、何時訪れても構わぬ者として、世に置かれるということらしかった。
舞踏会から明けて数日、紬路が瑠衣とつつ屋に詰めていると、店先に人力俥が止まった。
今時、人力俥なんて……と紬路が考えた処に、使い古された幌が目に入った。其処には馴染みのある和泉家の家紋が、小さく染め抜かれていた。
その幌が退けられ、母がゆっくりと降り立つ。
帳場で何やら計算していた瑠衣も気付いた様子で、面倒事になる、見られたくない――そう言わんばかりに店の奥へと身を引いて行った。
店に入って来た母が、ちらりとその瑠衣の後ろ姿を見やった。
だが、別段気に留める様子もなく視線を戻すと、そのまま紬路のいる帳場へまっすぐ歩み寄ってくる。
紬路は、反射的に絵羽見本を閉じた。
――この人に、誂えてやりたい着物など一つもない。
「……お久しゅうございます、お母さま」
母は挨拶もそこそこに、店内を一巡り見渡した。
箪笥の抽斗や棚を、値踏みするように目で追ってゆく。
「随分と、賑やかにしているようね」
口調は穏やかに整えられていた。
だが、その奥に押し殺しきれぬ苛立ちが細く滲んでいる。
「商いでございますから」
紬路が静かに返す。
「商い」
母は、その言葉をゆっくりと繰り返した。
唇の端が、ほんの僅かに持ち上がる。
嘲りとも、呆れともつかぬ薄い笑みだった。
「和泉の娘が、店先に立って客を迎えるとは。……よくもまあ此処まで」
その一語一語が薄く研がれた刃のように、静かに肌をなぞる。
母の目が、ほんの僅かに細まる。
「御用向きは、それだけではございませんのでしょう」
「話が早くて助かるわ」
そう言いながら、袖の内へと手を差し入れた。
「お前のような立場になって、これ以上望めるものでもない。先方も、多少のことは目を瞑ると仰っている」
先方――。
何を指すかは、判って来た。……縁談だ。
異能のないわたしを華族の家へ嫁れるには、相手方に幾つもの目を瞑っていただかねばならない。
そのことを、母は遠回しに言っているのだ。
となると、母はわたしに縁談が来なくなったことに、そろそろ気が付いている。
「これ以上、妙な振る舞いを続ける前に決めなさい。これが最後の機会と思いなさい」
母の言葉は、尚も続けられる。
父が何がしかの理由で大納言を退いた今、もう和泉家に先々の頼みはない――そう言っているのだろう。
「舞踏会での振る舞いは聞いているわ。――目立ち過ぎよ。ああいう人の目の集まる場所で……でも、渡りに船だわ。お前を貰ってくださるという方があるの」
紬路は、差し出された書付に目を落とした。
母の手によって先に封を切られていたことは、今さら驚くにも当たらない。そういう人である。
開かれた書付の差出人には、治部省の任にある宮家の御方の名があった。
舞踏帳に記された手跡と、同じ癖がある。
見覚えがあった。真心を込め、自筆を遣わしてくれたのだろう。
舞踏会で一度、相手を申し込んでくださった方である。
実直なお人柄なのだろうと、その時も思ったと思う。
思い返しても、別段、厭な印象を持った訳ではない。
宮筋であれば、出世にあくせくする必要もない。
紬路に異能がないことも、そこまで重くは見られまい。
むしろ、宮家にとっては都合が良いのかもしれなかった。
宮の血を引く身である以上、あまりに強い異能を持つ嫁を娶れば、要らぬ疑いを招くこともある。
皇統に近付こうとしているなどと取り沙汰されては、先方としても困るはずだ。
ならば、異能のない華族令嬢。
血筋は整い、子に異能を受け継がせる可能性を残しながら、宮中の権を乱すほどの力は持たぬ娘。
そう考えれば、紬路は丁度よい相手なのだろう。
良い縁談だ。少なくとも、母が目の色を変えるだけの理屈はあった。
「ありがたきお話にございます。……ですが」
母の目が、すっと細まる。
「何?」
その一語だけで、空気が凍りついた。
逃げれば、そこで終わる。
紬路は、息を吸った。
「わたくしには、既に心に決めた方が有ります」
――沈黙。
ほんの一瞬。
だが、永く引き延ばされたような間。
「何ですって。……どんな地下人のことを言っているの」
問い詰める響き。
だが紬路は、もう視線を逸らさなかった。
「申し上げる必要はございません」
「紬路ッ!!」
名を呼ばれた、その瞬間。
ぱん、と乾いた音が店内に響いた。
視界が揺れ、遅れて頬に熱が走った。
店の奥で、瑠衣が腰を浮かしたような物音もある。
打たれたのだと理解するより先に、身体が一歩だけよろめく。
涙が滲み出そうながら、ゆっくりと顔を戻し、まっすぐに母を見返す。
「自分が何を言っているのか、解っているの」
「はい」
間を置かず、答える。
「分かっております」
母の顔から、表情が消えた。
「公卿からの縁談を断るというのよ」
「承知しております」
「店などで見世物になって、どんな地下人と情を交わしたというの。この尻軽娘が!」
打ち据えた手が、そのまま宙で止まっている。
母は紬路を逃がさぬように睨みつけていた。
次の言葉次第では、もう一度振り抜く――
そう言わんばかりの気配だ。
「……わたくしは、その方と共に在りたいのです」
店内の空気が、凍る。
母の指先が震えている。
「愚かね……何者か判らない男に騙されて、全てを失う」
嘲笑るための言葉だったのだろう。
否、もう評判も何も残されてはいないのだ。
「お前にはもう和泉の娘だった名しか残っていないのに。どこの馬の骨とも知れぬ男が、お前に釣り合うとでも?」
――試されている。
わたくしの立場でも、家でもなく。
この胸にあるものを。
紬路は、痛む頬を意識させられながらも、微笑んでみせる。
「釣り合うかどうかではございません」
そして、はっきりと言い切る。
「わたくしが選ぶのです」
母の目が、見開かれた。
それは、初めて見る表情だった。
支配の外へ出た娘を見る目。
その目の奥に、動揺が見える。
――この人は。
此れまで一度として、わたしには手を上げたことのない人だった。
偏愛と言えるほどに、紬路を守り、決して傷つけぬようにしてきた、その人が。
しかも紬路の取り柄は顔だけだと、あれほど言い続けてきたのに――
その顔を、躊躇いもなく打ったのだ。
「……帰ってくださいませ、お母さま」
書付には一度も触れないまま、頬を庇いながら静かに告げる。
「このお話は、お受けいたしません」
母はその場の空気ごと凍りついたように暫く動かなかった。
やがて、ゆっくりと書付へ手を伸ばし、袂に押し込んだ。
そして何かを言いかけて――止め、踵を返して去って行った。
母の姿が暖簾の向こうへ消えても、紬路はすぐには動けなかった。
頬に触れてみる。打たれた熱はまだ残っていたが、痛みよりも先に胸の内へ落ちて来るものがあった。
――お母さまが、わたくしを打った。
今迄、母は紬路つつじを甘やかし、守り、望む方へ押し出そうとして来た。
その手が初めて、紬路を傷付ける方へ振り下ろされたのだ。
頬の熱の奥で、何かがはっきりと冷えていく。
あの一打ちで、判ったのだ。
もう母の望む娘には戻れない。
否、戻りたくないのだと。
その晩も、いつものように佐伯翁と東風との晩餐だった。
舞踏会までという約束であった筈が、気が付けば、こうして顔を揃える夜が続いている。
紬路としても、未だ逗留を願いたい気持ちはあった。
東風と顔を合わせられること。そして、直橘に狙われていると告げられたこと。
それらに引かれるように、六条を去る日は先へ先へと延びればいいと思って来たのだ。
背の低い和卓には洋の献立が整えられ、銀食器が静かに灯りを映している。
翁の前には、別途誂えられた柔らかな煮物などが並べられていた。
見慣れた、いつもの光景だ。
だが、紬路の胸の内は、どうにも落ち着かなかった。
「今日の姫は、少しお疲れのようですな」
翁が、その煮物に箸をつけながら言った。
「いえ……その」
口を開きかけて、躊躇う。
だが、その一瞬の迷いが、却って言葉を押し出した。
母に店にまで乗り込まれ、せり上がって来たものを、もう押し留めておけなかったのだ。
「本日、母が参りましたの……縁談を携えて」
その一言に、東風の手元で肉を切り分ける銀食器の動きが止まった。
「ほう」
翁は顔を上げる。
箸先はそのまま、静かに器の上に留まっていた。
東風は何も言わず、杯に手を伸ばし、指を添えて持ち上げて呷った。
「お相手は……宮筋に連なる御方」
しかし言葉は、するりと零れ落ちる。
紬路は、言葉を選ぶように続けた。
「治部省にお勤めの方からの、申し分のないお話でございました。……わたくしには異能がないのですもの」
言ってしまってから、紬路は唇を引き結んだ。
本来なら、異能のことは滅多に明かしてはならぬことだった。
一瞬。
空気が、沈んだように感じられた。
「それはまた、随分と……」
翁が、低く呟く。
「お断りいたしました。母と口論になりましたけれど」
ふと紬路は自嘲気味に微笑する。
「ですが――少し、考えてしまいまして」
本来なら口にすべきではないことだった。
とりわけ、求婚にも似た言葉をくれた東風の前では。
それでも――
気付けばほんの軽い調子で、さり気なく言い訳のように言葉を添えていた。
「……破滅回避覚書、というものがございますの」
その名を出した瞬間、東風の指が僅かに止まった。
「友人の異能により記されたもので……わたくしの行く末が示されております」
「ほう」
翁の目が、細くなる。
何かを測るような視線だった。
紬路はどこまで知っているのか――というような。
「そこには――皇統、あるいは公卿に連なる方と縁を結ばねば、破滅に至ると」
言葉にしてしまってから、遅れてその重みを自覚する。
文子が責めを負うようなことが無ければいいのだが。
「そして……わたくし自身も、更衣ではなく女御に至らねばならぬ――さもなくば破滅を避けられない、と」
銀食器に映る灯りがかすかに揺れる。
ふと翁と東風の視線が交わり、ごく短く確かめるような目配せが交わされる。
紬路はそれに気付かず続ける。
「異能のない娘が入内などと、夢のまた夢ですのに」
己を貶める言葉を口にするなど、本来は華族令嬢の嗜みとして慎むべきことであるのに。
「しかも、その友人によると、わたくしは何者かに呪詞されているようです」
軽く述べているつもりでも、その内には積み重ねてきた否定がある。
誰かに話をせねば保てぬほど、幾度も突きつけられてきた事実だった。
「ですから……今日のお話は、理にかなっているのかもしれぬと、一瞬だけ」
そこまで言って言葉を止める。
その一瞬に、揺らいだ形跡だけが確かに残った。
「……それでも、わたくしは断りました」
視線を外さず、東風をまっすぐに据える。
逃げぬことを、自らに課すように。
「わたくしの気持ちに添わないことでしたので」
選び取ったのは、理ではない。
ただ、己の内にあるものだけだった。
沈黙が落ちる。
夜の静けさが、その決意をそのまま受け止めた。
やがて東風が、ゆっくりと杯を卓に戻した。
「……どうかなさいました?」
問いかける。
東風は、暫し黙したまま視線を落としていた。
やがて、静かに口を開く。
「――少し、食欲が失せました」
口調は変わらない。
だが、そこには隠しきれぬ硬さがあった。
「失礼いたします」
席を外す気配が、やけに大きく響く。
呼びかけようとして翁が何かを飲み込んだ気配があったが、東風はそれ以上言葉を返さず、そのまま背を向けて立ち去ってしまった。
紬路は、ただ呆然とその方を見ていた。
「……さて」
やがて、翁が小さく息を吐く。
「少々、話が早過ぎたかもしれんな」
「え……?」
問い返すが、それ以上は何も語られない。
卓上の灯りだけが、変わらず揺れている。
東風が座敷を辞して間もなく、六条別邸の廊の端へと、佐伯霍成は召喚された。
夜気の冷えた庭先、東風は灯の届かぬ柱陰に立っている。先刻までの席にあった和やぎの表情は消え、ただ黒曜石の眸ばかりが冴え渡るようだった。
「霍成」
「は」
霍成は間を置かず、膝を折った。
「もう待たぬ。紬路に――」
東風はそこで一度、目を伏せた。
「宣下を遣わす。外は断て」
「は」
「縁談、流言、悉く」
「委細、承知仕りました」
下命は短いが、霍成はそれが思いつきではないことを知っていた。
胸の内に長く留め続けていたものを、漸く外へ出した調子であらせられる。
密命を受けてから、もう久しい――
「遅れた報いだ。……よく耐えてくれた」
東風は独り言を託ったようだ。
その視線は釣殿の先、月を水面に映す池へと落ちる。
と、ふいに庭の闇の方へ身を返す、その背には悔いが沈んで見えた。
霍成は始終、ただ深く頭を垂れていた。
その夜を境に東風は、佐伯翁の六条別邸の晩餐に姿を現すことはなくなった。
広く居場所を知らしめ、何時訪れても構わぬ者として、世に置かれるということらしかった。
舞踏会から明けて数日、紬路が瑠衣とつつ屋に詰めていると、店先に人力俥が止まった。
今時、人力俥なんて……と紬路が考えた処に、使い古された幌が目に入った。其処には馴染みのある和泉家の家紋が、小さく染め抜かれていた。
その幌が退けられ、母がゆっくりと降り立つ。
帳場で何やら計算していた瑠衣も気付いた様子で、面倒事になる、見られたくない――そう言わんばかりに店の奥へと身を引いて行った。
店に入って来た母が、ちらりとその瑠衣の後ろ姿を見やった。
だが、別段気に留める様子もなく視線を戻すと、そのまま紬路のいる帳場へまっすぐ歩み寄ってくる。
紬路は、反射的に絵羽見本を閉じた。
――この人に、誂えてやりたい着物など一つもない。
「……お久しゅうございます、お母さま」
母は挨拶もそこそこに、店内を一巡り見渡した。
箪笥の抽斗や棚を、値踏みするように目で追ってゆく。
「随分と、賑やかにしているようね」
口調は穏やかに整えられていた。
だが、その奥に押し殺しきれぬ苛立ちが細く滲んでいる。
「商いでございますから」
紬路が静かに返す。
「商い」
母は、その言葉をゆっくりと繰り返した。
唇の端が、ほんの僅かに持ち上がる。
嘲りとも、呆れともつかぬ薄い笑みだった。
「和泉の娘が、店先に立って客を迎えるとは。……よくもまあ此処まで」
その一語一語が薄く研がれた刃のように、静かに肌をなぞる。
母の目が、ほんの僅かに細まる。
「御用向きは、それだけではございませんのでしょう」
「話が早くて助かるわ」
そう言いながら、袖の内へと手を差し入れた。
「お前のような立場になって、これ以上望めるものでもない。先方も、多少のことは目を瞑ると仰っている」
先方――。
何を指すかは、判って来た。……縁談だ。
異能のないわたしを華族の家へ嫁れるには、相手方に幾つもの目を瞑っていただかねばならない。
そのことを、母は遠回しに言っているのだ。
となると、母はわたしに縁談が来なくなったことに、そろそろ気が付いている。
「これ以上、妙な振る舞いを続ける前に決めなさい。これが最後の機会と思いなさい」
母の言葉は、尚も続けられる。
父が何がしかの理由で大納言を退いた今、もう和泉家に先々の頼みはない――そう言っているのだろう。
「舞踏会での振る舞いは聞いているわ。――目立ち過ぎよ。ああいう人の目の集まる場所で……でも、渡りに船だわ。お前を貰ってくださるという方があるの」
紬路は、差し出された書付に目を落とした。
母の手によって先に封を切られていたことは、今さら驚くにも当たらない。そういう人である。
開かれた書付の差出人には、治部省の任にある宮家の御方の名があった。
舞踏帳に記された手跡と、同じ癖がある。
見覚えがあった。真心を込め、自筆を遣わしてくれたのだろう。
舞踏会で一度、相手を申し込んでくださった方である。
実直なお人柄なのだろうと、その時も思ったと思う。
思い返しても、別段、厭な印象を持った訳ではない。
宮筋であれば、出世にあくせくする必要もない。
紬路に異能がないことも、そこまで重くは見られまい。
むしろ、宮家にとっては都合が良いのかもしれなかった。
宮の血を引く身である以上、あまりに強い異能を持つ嫁を娶れば、要らぬ疑いを招くこともある。
皇統に近付こうとしているなどと取り沙汰されては、先方としても困るはずだ。
ならば、異能のない華族令嬢。
血筋は整い、子に異能を受け継がせる可能性を残しながら、宮中の権を乱すほどの力は持たぬ娘。
そう考えれば、紬路は丁度よい相手なのだろう。
良い縁談だ。少なくとも、母が目の色を変えるだけの理屈はあった。
「ありがたきお話にございます。……ですが」
母の目が、すっと細まる。
「何?」
その一語だけで、空気が凍りついた。
逃げれば、そこで終わる。
紬路は、息を吸った。
「わたくしには、既に心に決めた方が有ります」
――沈黙。
ほんの一瞬。
だが、永く引き延ばされたような間。
「何ですって。……どんな地下人のことを言っているの」
問い詰める響き。
だが紬路は、もう視線を逸らさなかった。
「申し上げる必要はございません」
「紬路ッ!!」
名を呼ばれた、その瞬間。
ぱん、と乾いた音が店内に響いた。
視界が揺れ、遅れて頬に熱が走った。
店の奥で、瑠衣が腰を浮かしたような物音もある。
打たれたのだと理解するより先に、身体が一歩だけよろめく。
涙が滲み出そうながら、ゆっくりと顔を戻し、まっすぐに母を見返す。
「自分が何を言っているのか、解っているの」
「はい」
間を置かず、答える。
「分かっております」
母の顔から、表情が消えた。
「公卿からの縁談を断るというのよ」
「承知しております」
「店などで見世物になって、どんな地下人と情を交わしたというの。この尻軽娘が!」
打ち据えた手が、そのまま宙で止まっている。
母は紬路を逃がさぬように睨みつけていた。
次の言葉次第では、もう一度振り抜く――
そう言わんばかりの気配だ。
「……わたくしは、その方と共に在りたいのです」
店内の空気が、凍る。
母の指先が震えている。
「愚かね……何者か判らない男に騙されて、全てを失う」
嘲笑るための言葉だったのだろう。
否、もう評判も何も残されてはいないのだ。
「お前にはもう和泉の娘だった名しか残っていないのに。どこの馬の骨とも知れぬ男が、お前に釣り合うとでも?」
――試されている。
わたくしの立場でも、家でもなく。
この胸にあるものを。
紬路は、痛む頬を意識させられながらも、微笑んでみせる。
「釣り合うかどうかではございません」
そして、はっきりと言い切る。
「わたくしが選ぶのです」
母の目が、見開かれた。
それは、初めて見る表情だった。
支配の外へ出た娘を見る目。
その目の奥に、動揺が見える。
――この人は。
此れまで一度として、わたしには手を上げたことのない人だった。
偏愛と言えるほどに、紬路を守り、決して傷つけぬようにしてきた、その人が。
しかも紬路の取り柄は顔だけだと、あれほど言い続けてきたのに――
その顔を、躊躇いもなく打ったのだ。
「……帰ってくださいませ、お母さま」
書付には一度も触れないまま、頬を庇いながら静かに告げる。
「このお話は、お受けいたしません」
母はその場の空気ごと凍りついたように暫く動かなかった。
やがて、ゆっくりと書付へ手を伸ばし、袂に押し込んだ。
そして何かを言いかけて――止め、踵を返して去って行った。
母の姿が暖簾の向こうへ消えても、紬路はすぐには動けなかった。
頬に触れてみる。打たれた熱はまだ残っていたが、痛みよりも先に胸の内へ落ちて来るものがあった。
――お母さまが、わたくしを打った。
今迄、母は紬路つつじを甘やかし、守り、望む方へ押し出そうとして来た。
その手が初めて、紬路を傷付ける方へ振り下ろされたのだ。
頬の熱の奥で、何かがはっきりと冷えていく。
あの一打ちで、判ったのだ。
もう母の望む娘には戻れない。
否、戻りたくないのだと。
その晩も、いつものように佐伯翁と東風との晩餐だった。
舞踏会までという約束であった筈が、気が付けば、こうして顔を揃える夜が続いている。
紬路としても、未だ逗留を願いたい気持ちはあった。
東風と顔を合わせられること。そして、直橘に狙われていると告げられたこと。
それらに引かれるように、六条を去る日は先へ先へと延びればいいと思って来たのだ。
背の低い和卓には洋の献立が整えられ、銀食器が静かに灯りを映している。
翁の前には、別途誂えられた柔らかな煮物などが並べられていた。
見慣れた、いつもの光景だ。
だが、紬路の胸の内は、どうにも落ち着かなかった。
「今日の姫は、少しお疲れのようですな」
翁が、その煮物に箸をつけながら言った。
「いえ……その」
口を開きかけて、躊躇う。
だが、その一瞬の迷いが、却って言葉を押し出した。
母に店にまで乗り込まれ、せり上がって来たものを、もう押し留めておけなかったのだ。
「本日、母が参りましたの……縁談を携えて」
その一言に、東風の手元で肉を切り分ける銀食器の動きが止まった。
「ほう」
翁は顔を上げる。
箸先はそのまま、静かに器の上に留まっていた。
東風は何も言わず、杯に手を伸ばし、指を添えて持ち上げて呷った。
「お相手は……宮筋に連なる御方」
しかし言葉は、するりと零れ落ちる。
紬路は、言葉を選ぶように続けた。
「治部省にお勤めの方からの、申し分のないお話でございました。……わたくしには異能がないのですもの」
言ってしまってから、紬路は唇を引き結んだ。
本来なら、異能のことは滅多に明かしてはならぬことだった。
一瞬。
空気が、沈んだように感じられた。
「それはまた、随分と……」
翁が、低く呟く。
「お断りいたしました。母と口論になりましたけれど」
ふと紬路は自嘲気味に微笑する。
「ですが――少し、考えてしまいまして」
本来なら口にすべきではないことだった。
とりわけ、求婚にも似た言葉をくれた東風の前では。
それでも――
気付けばほんの軽い調子で、さり気なく言い訳のように言葉を添えていた。
「……破滅回避覚書、というものがございますの」
その名を出した瞬間、東風の指が僅かに止まった。
「友人の異能により記されたもので……わたくしの行く末が示されております」
「ほう」
翁の目が、細くなる。
何かを測るような視線だった。
紬路はどこまで知っているのか――というような。
「そこには――皇統、あるいは公卿に連なる方と縁を結ばねば、破滅に至ると」
言葉にしてしまってから、遅れてその重みを自覚する。
文子が責めを負うようなことが無ければいいのだが。
「そして……わたくし自身も、更衣ではなく女御に至らねばならぬ――さもなくば破滅を避けられない、と」
銀食器に映る灯りがかすかに揺れる。
ふと翁と東風の視線が交わり、ごく短く確かめるような目配せが交わされる。
紬路はそれに気付かず続ける。
「異能のない娘が入内などと、夢のまた夢ですのに」
己を貶める言葉を口にするなど、本来は華族令嬢の嗜みとして慎むべきことであるのに。
「しかも、その友人によると、わたくしは何者かに呪詞されているようです」
軽く述べているつもりでも、その内には積み重ねてきた否定がある。
誰かに話をせねば保てぬほど、幾度も突きつけられてきた事実だった。
「ですから……今日のお話は、理にかなっているのかもしれぬと、一瞬だけ」
そこまで言って言葉を止める。
その一瞬に、揺らいだ形跡だけが確かに残った。
「……それでも、わたくしは断りました」
視線を外さず、東風をまっすぐに据える。
逃げぬことを、自らに課すように。
「わたくしの気持ちに添わないことでしたので」
選び取ったのは、理ではない。
ただ、己の内にあるものだけだった。
沈黙が落ちる。
夜の静けさが、その決意をそのまま受け止めた。
やがて東風が、ゆっくりと杯を卓に戻した。
「……どうかなさいました?」
問いかける。
東風は、暫し黙したまま視線を落としていた。
やがて、静かに口を開く。
「――少し、食欲が失せました」
口調は変わらない。
だが、そこには隠しきれぬ硬さがあった。
「失礼いたします」
席を外す気配が、やけに大きく響く。
呼びかけようとして翁が何かを飲み込んだ気配があったが、東風はそれ以上言葉を返さず、そのまま背を向けて立ち去ってしまった。
紬路は、ただ呆然とその方を見ていた。
「……さて」
やがて、翁が小さく息を吐く。
「少々、話が早過ぎたかもしれんな」
「え……?」
問い返すが、それ以上は何も語られない。
卓上の灯りだけが、変わらず揺れている。
東風が座敷を辞して間もなく、六条別邸の廊の端へと、佐伯霍成は召喚された。
夜気の冷えた庭先、東風は灯の届かぬ柱陰に立っている。先刻までの席にあった和やぎの表情は消え、ただ黒曜石の眸ばかりが冴え渡るようだった。
「霍成」
「は」
霍成は間を置かず、膝を折った。
「もう待たぬ。紬路に――」
東風はそこで一度、目を伏せた。
「宣下を遣わす。外は断て」
「は」
「縁談、流言、悉く」
「委細、承知仕りました」
下命は短いが、霍成はそれが思いつきではないことを知っていた。
胸の内に長く留め続けていたものを、漸く外へ出した調子であらせられる。
密命を受けてから、もう久しい――
「遅れた報いだ。……よく耐えてくれた」
東風は独り言を託ったようだ。
その視線は釣殿の先、月を水面に映す池へと落ちる。
と、ふいに庭の闇の方へ身を返す、その背には悔いが沈んで見えた。
霍成は始終、ただ深く頭を垂れていた。
その夜を境に東風は、佐伯翁の六条別邸の晩餐に姿を現すことはなくなった。


