舞踏会のその日、約束通りに東風は現れた。
黒い燕尾服は畝織の白襟正装が胸にきちりと収まり、立ち姿に無駄はなく、ただ其処に居るだけで空気の輪郭が変わる。
「お迎えに上がりました」
定型の言い回しに留まらぬ含みが、言葉の奥に差し込んでいる。
此方を捉える眸は揺るがず、選び取る意志をまっすぐに示していた。
「最初と最後と――それに、円舞曲は私と踊るのですよ」
有無を言わせぬ響きだった。
紬路は一瞬だけ息を止め、ふと東風の装いに目を留める。
まるで紬路の夜会用洋礼装と一対のように見えるのだ。
色も、質も、僅かな光の拾い方までもが、何処か呼応している。
偶然にしては出来すぎている。
――そうは思ったが、直ぐに腑に落ちた。
佐伯翁の紹介である洋装仕立屋ならば、東風の衣装にも通じていて当然だ。最初から揃いの一対として東風の方を後から仕立てたのだろう。
視線を下に向ければ、紬路の夜会用洋衣装の裾は淡く光を返している。
選び抜いた白であり、ただの白ではない。
光を弾くのではなく内側に含んで緩やかに返す白――
胸元は飾りを削ぎ、身体の線だけで美を成している。
ただ、その白の上に一つだけ、控えめな意匠が置かれていた。
躑躅の花を象った、小さな立体の花の飾りである。
白で仕立てられたそれは、色で主張することはない。
薄絹を幾重にも重ねて形づくられているが、一ひらごとに空気を含み、触れればそのまま解けてしまいそうなほどに軽やかだ。
腰から下へ流れる布は軽やかでありながら、歩みに遅れず、しかし先走りもしない。動けば空気に触れるごとに表情を変え、留まれば静かにその場に溶け込む。
白は誤魔化しが利かないからこそ、この仏蘭西朱子織に全てを賭けた。
東風の視線が一瞬だけその胸の辺りの朱子織の上を滑る。
黒い双眸が満足気に細められた。
「……見事です」
馬車止めに馬車を停めると、鹿鳴館の従僕がすぐさま扉を開いた。
東風は、白い手袋を嵌めたまま恭しく手を差し出す。
紬路は片手で洋衣装を軽く絡げ、東風の手にもう片方の指先を預けて降り立った。
触れたのは布越しの温度だけで、いつかのような生身の感触はない。
舞踏帳を受け取り、中に進むと、舞踏会の広間は既に人で満ちていた。
燭台の光が揺れ、絹と宝石とが折り重なる。
笑い声が幾重にも重なり、音楽がまだ始まらぬうちから場は熱を帯びていた。
社交界は互いに顔見知りばかりだ。
異人も幾人か立ち混ざってはいるが、皆どこか避けるようにしている。――これでは駄目なのだ。
到着してすぐ、初舞踏の方陣舞は約束どおり東風と踊りながら、紬路は考えを巡らせた。
異人を避け、顔見知りとだけ固まっていては、この舞踏会の意図にも沿わない。
外つ国に対し、我が国の文化が対等に渡り合うだけの素養を持つと示さねばならない。
終わるや否や、舞踏帳の記名はたちまち埋まってゆく。
休憩を挟みつつ舞を重ね、妙齢の華族男性たちに囲まれながらも、尚も思考を続ける。
どうにかして彼方から、わたくしの方へ声を掛けて来るよう仕向けなければならない。
わざと舞踏帳が埋まらぬよう、途中で伏せる。
それから、駐在公使の子息たちが集う一角へ足を向け、淡い色の髪が並ぶ壁際の傍らに立った。
誘われるのを待つふりをして、紬路は考えを巡らせる。
わたくしだけが羅紗緬の子である瑠衣と共に育ち、華族令嬢でありながら、商いを通して外つ国と繋がる手段を持っている。
あちらの言葉も礼も、値のつけ方も、全く知らぬわけではない。
ならば物怖じせず渡り合える筈だ。
一人、申し込んでくれる者があった。
近づく足取りは、どこか慎重だった。
場違いを承知で踏み込むような、僅かな躊躇いがある。
「よろしければ、一曲」
洋語は丁寧で、きちんとした敬意と覚悟が感じられた。
異人が華族令嬢を誘えば、殆ど体よく断られる確率の方が高い。
それでも尚、紳士の礼儀に則って手を差し出してくれたのだ。
お互いの呼吸を探るような、控えめで誠実な舞が終わると、軽く礼を交わし、手が離れる。
その温度が消えた瞬間、周囲の気配が戻ってきた。
密かな囁きが、背後で揺れる。
わざと聞かせるように話しているのだ。
「――まあァ、ご覧になって?」
「異人と……」
ひそひそと嗤う気配。
「羅紗緬の子と交流が……。右京の最果てで見世物として目撃されているそうよ」
「何を販いでいらっしゃるのか判らないのですって」
「やはり、ああいうところが――」
言葉は低く抑えられている。
紬路は、何も言わない。
すると、東風がどこからともなく現れた。
「少し、お話でも」
程よい距離を保ったまま歩み寄り、社交の礼に収まる形で紬路に向き合う。
周囲の視線を引き受けながらも、何事もなかったかのように振る舞ってみせた。
「先ほどは挨拶が叶わなかった。よろしければ、今暫し」
同伴して舞踏会場に現れながら、あえて知己の浅い者同士を装い、そのまま場を離れさせようとしている。庇おうとしてくれているのかもしれない。
そもそも舞踏会において、貴婦人が独りで会場へ姿を見せることなど、まずあり得ない。
この会場の華族令嬢たちも、兄弟や親族、あるいは知己の男性に伴われて来場し、その華やかな到着を飾っている。
その上で、好ましからぬ相手が近付かぬよう、予め舞踏帳の空きを埋めてしまうのだ。誘われる余地を残すかどうかさえ、礼儀と駆け引きの内にある。
それを思えば、紬路の振る舞いは不自然に見えて、けれど不作法とまでは言い切れぬ、ぎりぎりの線にあった。
「ええ」
だがしかし、わたくしは、この青年の何を知っているというのだろう。
ただ手を取り合って練習し、店では惜しげもなく布を選んで下さるというだけ。
なのに謎めいた何かが隠されているその秘密を知らぬままでいながら、離れがたく感じられてしまう。
やがて夜も更け、出席予定の令嬢たちが一通り顔を揃えた頃、一際威を帯びた外つ国の駐在公使が、式部省雅楽寮の指揮者に何事かを囁いた。
音楽が流れ始め、その刹那、場の気配が一変する。
「今年のデビュタント――前へ」
白一色の装い。
初めて社交界に出る娘の、象徴。
白を纏った華族令嬢たちが、静かに、一斉に歩み出る。
だが――
先に舞っていた駐在公使の子女たちの輪に目を留めた途端、その足が次々に踏み止まった。一歩を踏み出しかね、空気が凍り付く。
躊躇いが生まれ、誰一人頑なに舞踏に参加しようとはしない。
それは、左回りの円舞曲。
最も難度の高い、あの墺太利円舞曲だったのだ。
紬路が東風に手を取られた、その瞬間。
迷いは、断ち切られた。
わたくしだけが東風と共に、この場を収めることができる。
我が国の華族令嬢の筆頭として――顔を上げて胸を張る。
まるで、悪役令嬢奇譚に出てくる誇り高い姫のような心地がした。
「参りましょう」
東風がすぐ傍へと寄る。
背へ回された手のひらに導かれ、引き寄せられて距離が消えた。
回る。
くるり、くるりと。
最初の一歩で、全てが決まった。
重心が、ぴたりと合う。
もう何度も共に踊り、東風の動きが判る。
回転が速まる。
裾が、僅かに遅れて追いついてくる。
白が光を含んで弧を描く。
一つ、遅れる。
すぐに引き戻される。
その繰り返しが、やがて一つに繋がっていく。
くるくると。
絡め取られるように。
視界は流れ、残るのはただ一人。
呼吸さえ、いつの間にか重なっていた。
東風の吐息が、かすかに頬を掠める。
「ほら」
低く囁かれる。
その間合いに引き込まれていく。
「できている」
その声に、更に身体が応じる。
回転が、深くなる。
広間の騒めきが、遠のいていく。
音楽だけが、残る。
曲が終わっても、なお回転の余韻は消えなかった。
他のデビュタントたちも、途中から右回りで舞踏に加わり始めたが、先陣を切り、しかも正しい作法をもって舞い切った紬路は、いつしかこの夜会の中心となっていた。
件の円舞曲はもとより、軽舞歌に至るまで、如何なる曲目においても第一の舞手と称して差し支えない出来栄えであった。
「――申し上げたでしょう」
東風が、最後の曲を踊りながら僅かに口元を緩める。
「最初と最後と、それに円舞曲は私と踊ると」
紬路は、言葉を返せなかった。
ただ、胸の奥で確かに理解していた。
――わたくしは、東風に惹かれているのかもしれない、と。
舞踏会が終わり、共に馬車に乗り込む。
六条へ向かう道は静かで、夜気が窓越しに冷やかに流れ込んでくる。
先程までの音楽も騒めきも、まるで遠い別の世界の出来事のようだった。
向かいに座る東風は、既に白い手袋を外している。
その手が、膝の上で静かに組まれていた。
紬路は、窓掛を閉めて、視線を自分の指先に落とした。
まだ、回転の名残が身体に残っている。
あの腕の中で感じた熱が、完全には引いていなかった。
「……舞踏会は」
東風が、静かに口を開いた。
「大成功でした。……あなたには、ああいった場に相応しい」
一瞬の沈黙。評価なのか賞賛なのか。
馬車の揺れが、僅かに二人の距離を揺らす。
「佐伯翁に後見を頂いてますもの。みっともない真似はできませんわ」
絞り出した言葉は、どこか他人行儀だった。
だが、東風は横に首を振って、そのまま窓掛を開けて外を見やる。
「違う」
はっきりとした否定だ。
「あなたのお陰です」
まるで舞踏会の開催側の責任があったような物言い――
その言い方は賛辞だけではなく、成功の結果を安堵をもって迎えた者の感謝が籠っていた。
何かを言い返そうとして、言葉が止まる。
視線を上げると、東風の黒い眸がまっすぐに向けられている。
逃げ場のない、あの舞踏の時と同じ距離感で。
「紬路姫」
名を呼ばれる。
「私は」
一拍、言葉を切る。
馬車の車輪の音がやけに響いて聞こえた。
「人生の最後まで……あなたとだけ踊りたい」
それは、あまりにも自然に――静かに告げられた。
だが、その重みは確かに胸へと落ちてくる。
言葉が、出ない。
ただ、胸が律動を強く打ち始めている。
あの舞踏のときと同じように、呼吸が乱れる。
「……急なことだと承知しています」
東風は揺らぎなく言い切る。
言葉の奥に、動かしようのない決意が据えられている。
「ですが、今でなければならない」
静かな断定だった。
その裏に何があるのか、測りきれぬまま落ちてくる。
「……わたくしは」
けれど、その先が続かない。
――破滅回避覚書。
脳裏に、志乃が書いた文字が過る。
皇統、あるいは公卿の宮筋に連なる者以外との縁は、破滅へと至る。
目の前の青年は決して卑しからぬ出自であることを、もはや疑いようもなかった。
舞踏の見事さ、隙のない食事作法、自然に口をついて出る宮中の言葉――そのどれもが物語っている。
心も、もう答えは決まっているのに。
東風の手が、ゆっくりと伸びた。
手袋の嵌められていない、素の指先。
それが、紬路の手に触れる。
ひやりとした感触に、息が止まる。
指先から、空気を入れるように少しずつ剥がされてゆく。
するり、と、何の躊躇いもなく、手袋が外された。
咎められることなどないと知っている者の手つきだ。
礼法を、越えている。
判っているのに、拒めない。
剥き出しになった手を取られる。
逃がさぬように、だが恭しくゆっくりと持ち上げられる。
黒い眸と視線が合った。
逃げ場は、もうない。
そのまま――
東風の唇が、手の甲に触れた。
初めて逢ったあの日には、触れなかった接吻だ。
「あなたを、他の誰にも渡すつもりはない」
抑えた言い切りの内に、揺るがぬ意志が据えられている。
紬路は、目を伏せた。
「あなたはもう舞踏会で三度も私と踊った。異国の作法では、婚約を了承したのと同義です」
拒む理由は、幾つもあるはずだった。
東風はわざとそのように成るよう、三度踊ることを最初に言い渡したのだ。
それに――身分。立場。家。……破滅へと至る運命。
頭では、幾らでも並べ立てられる。
けれど、そのどれもが今は遠い。
馬車は、六条へと進んでいく。
車輪の軋む音が、やけに大きく耳に残る。
その揺れの中で、紬路の手は心地よい倦怠と共に、まだ東風の手の中にあった。
振りほどこうと思えばできたはずなのに、手の甲に残る熱が、否応なくそれを許さなかった。


