見世蔵のつつじ姫 〜異能なし令嬢は東宮さまに溺愛される〜

 長い屋形の下へ、きっちり仕立てられた菊が幾つも並べられていた。
 白や黄の花弁が幾筋も垂れ、如何(いか)にも見事に手のかかった手入れである。

 佐伯(さえき)(おう)は舞踏会に出る前の肩慣らしだと前置きしつつ、異国の客人は出席しない会だがと添えた上で、紬路(つつじ)園遊会(ガーデンパーティ)での練習を言い渡した。
 立食形式で茶器(ティーカップ)を手にし、庭を巡り、年の頃の近い娘たちと言葉を交わすだけなら、女学校の延長のようなものだわ――と、紬路(つつじ)(はら)を決めての出席である。

「見事な洋衣装(ドレス)ですわね。気楽に着こなしてらして、素敵よ」
「……そう見えるだけですのよ」

 紬路(つつじ)審美眼(センス)に感嘆し、声を掛けてくる者は少なくない。
 その中から同級ではなく、初対面の年上の華族の姉たちをなるべく選んで話が弾むように水を向ける。知り合いの誰かの姉かもしれないが、独りで庭を散策している姿を多く目撃されるよりずっといい。

 今日の園遊会のために、(おう)が手配した洋装仕立屋(ドレスメーカー)と頭を突き合わせ、練り上げた意匠(デザイン)だ。装いには自信がある。服飾のことなら、いくらでも人を楽しませて語れる。
 だが、人の波に混じり、愛想よく笑い続けるのはそれだけで骨が折れた。

 少し離れたところで、撫子(なでしこ)を囲む娘たちの輪ができていた。
 今日の撫子(なでしこ)は淡い花色の装いで、誰かが褒めれば、また別の誰かがそれに重ねる。

 撫子(なでしこ)は困ったように微笑みながら、その称賛を少しも拒まないでいた。
 花を眺める会というより、その一団の辺りは撫子(なでしこ)を褒めそやす席に近い。

「まるで花の精のよう……」
「いいえ、それ以上ですわ。まさしく(ひじり)なる乙姫(おとめ)

 乙女は皆、(ひじり)なる姫よ――。
 志乃の言葉が、ふと脳裏を(よぎ)る。

 今日は志乃も文子(あやこ)も姿が見えない。
 どちらも結婚に関心が薄く、社交の場を好む性格でもない。
 だが、紬路(つつじ)の行く末を外野の気楽さであれこれ面白がってくれていた二人だ。

 紬路(つつじ)が少し人の輪から外れていたそのとき、撫子(なでしこ)の視線がふいに止まった。
 笑みを浮かべたまま、ぱっと花が開くように顔を明るくする。

「あらァ」

 まるで、失くした(かんざし)でも見つけたかのような調子だった。

紬路(つつじ)さま。こんなところにいらしたのね」

 見つかってしまった、と紬路(つつじ)は思った。
 撫子はもう逃がさぬとばかりに、裾を揺らしてこちらへ歩み寄ってくる。
 取り巻きの娘たちも、顔を見合わせてから、慌てたようにその後へ続いた。

 撫子はつつじの前で足を止める。
 花のような笑みはそのままに、逃げ道だけを器用に塞ぐ立ち位置だった。

「わたくし、新帝の典侍(ないしのすけ)に任ぜられましたのよ」

 では、その席は撫子(なでしこ)に取って奪われたのだ。
 文子(あやこ)の洞見では、紬路(つつじ)が得る(はず)だった位だ。

尚侍(ないしのかみ)の座は、()れからも、ずうっと空席よ」

 撫子は嫣然(えんぜん)と微笑む。
 その笑みが差した途端、周囲の取り巻きたちの気配が一つ低く揃った。

撫子(なでしこ)さまが一番です」

 追随は迷いなく整い過ぎている。
 その場の統制が、撫子(なでしこ)の言葉一つで固定されていく。

「誰も、其処(そこ)に座ることはないでしょうから、わたくしがずうーっと一番なのよ」

 疑う余地を与えぬ言い切りだった。
 確か、撫子(なでしこ)の従姉妹も新帝の女御(にょうご)に上がっていたはずだが――
 では、従姉妹同士で同じ帝の寵愛を競うのだ。

 何という修羅だろう。
 わたくしには耐えられない。

 撫子(なでしこ)が、更に間近へと踏み寄る。

「でも、あなたも佐伯(さえき)(おう)が後見になられたのですって? よろしかったですわね。……ご商売にまでお力添えくださるなんて、滅多にないご厚意ですもの」

 ふふ、と笑いながら、その眼に一瞬、酷薄な色が差した。

 やがて視線が衣へと落ちる。
 佐伯翁と用意した昼の洋衣装(デイドレス)を、(ひと)()でで()(はか)るように。

「ただ、あまりご無理はなさらないで。慣れぬ場では、思わぬところでお立場を損ねてしまいますから」

 微笑みは崩れないまま、その言葉だけが静かに残った。

 紬路(つつじ)は急に疲れを感じ、人の輪を離れ、植え込みの陰の石椅子へ腰を下ろすことにした。
 庭の奥は木陰が濃く、賑わいも少し遠く聞こえる。
 一息つくには丁度(ちょうど)よい場所だった。

 今年の園遊会は宮中(きゅうちゅう)開催でこそなく、参加服飾規定(ドレスコード)も洋装和装問わずだったが、まるで菊の鑑賞会(かんしょうえ)の姿を借りた小さな宮廷劇のようだ。



 東風(こち)は、度々(たびたび)五ツ蔵のつつ屋に顔を出すようになっていた。
 その度に反物や渡来ものを紬路(つつじ)と相談しながら選び、大量に買い付けてゆく。

「……随分(ずいぶん)と、思い切りがよろしいのね」
「必要なものを選んでいるだけですよ」

 さらりと返される。
 外交に関わる仕事だとは聞いたが、その若さで大金を動かす。
 金の使い方に少しも迷いがなく、実務の要不要だけで、あっさりと決めてしまう。
 だが、紬路(つつじ)が商いを始めてから聞きかじった糸や織りの生産工程を話してみせると、(こと)に興味を示す。

 気がつけば、こうして一人になると何度も思い返している。
 舞踏の練習や六条別邸を離れている間でさえ、東風(こち)の存在は次第に大きくなりつつあった。

 舞踏練習にも夕食にも、必ず姿を見せるという訳でもない。
 今日の園遊会にも現れなかった。
 ……だが、舞踏会には来ると言っていた。

「壁の花で居るのは、お嫌でしょう?」

 そう言って、あの黒い双眸を細めたのだ。
 余計なお世話だ、とは言い返せなかった。

 東風(こち)のことを考えると、あの腕の中に居るときのことも思い出してしまう。
 逃げ場のない距離で引き寄せられ、背に手のひらがまわされるときのことを。
 上半身の体温が、洋装(ドレス)越しにも伝わり――胸が圧迫され息を整える間さえ与えられず、くるくると導かれる。

 ……あれを、人前で。
 舞踏会は、もうすぐだ。

 そのときだった。
 園遊会の入口の辺りで、ざわりと人の流れが割れた。
 (ざわ)めきが波のように、入口を過ぎ、次第に中へ、人の集まるあたりから広がってくる。

東宮(とうぐう)殿下が――」
「お出ましに……!」

 押し殺した声が、低く波紋のように広がる。
 それまでの笑い声が、一つずつ、消えていった。
 人垣の奥で、一際濃い色が揺れる。

 やがて、若い男が姿を現した。
 その衣の色に紬路(つつじ)は息を呑む。
 ――黄丹(おうに)

 千年以上に渡り、禁色(きんじき)として人から遠ざけられてきた色。
 陽を受けて、静かに、しかし確かに光を返す。
 ただ(まぶ)しく鮮やかなばかりではない。
 見る者の目を、()らさせぬ色だった。

 周囲の人々が、一人、また一人と身を引く。
 道が、自然に開けてゆく。
 頭を垂れる気配が、連なって伝わる。

 その中を、彼は(ゆる)やかに進んでくる。
 歩みは静かで、けれど一分の隙もない。
 紬路(つつじ)は、気付かぬうちに息を止めていた。

「……え」

 だが、思わず声が漏れた。
 その面差し、その目の光。
 見間違えようもない。

 直橘(なおきつ)だった。

 どうして此処に、どうしてその禁色(きんじき)で。
 あり得ない。

 東宮に身をやつした直橘(なおきつ)は人々の間を抜け、やがて菊の並ぶ一角へと歩みを進めた。
 周囲の娘たちが息を詰めるように見守る中、ふと足を止める。
 視線が、此方(こちら)へ向いた。

 紬路(つつじ)は咄嗟に目を伏せる。
 次の瞬間には足音が近づいていた。

「……そちらのご令嬢」

 他人《ひと》には届かぬ距離で、言葉が置かれる。
 顔を上げると、直橘(なおきつ)はすぐ其処《そこ》にいた。

「はい」

 今、この場では、直橘(なおきつ)東宮(とうぐう)と見なされている。
 紬路(つつじ)の私的使用人とはいえ、返事をせぬわけにはいかない。
 周囲の視線も少しずつ集まって来ている。

 直橘(なおきつ)に手を引かれ、紬路(つつじ)は茂みの陰へと引き込まれた。
 その直後、撫子(なでしこ)のいるあたりから、憤怒怨嗟の甲高い悲鳴が上がる。
 ずっと紬路(つつじ)に視線を向けて、一部始終を見ていたのだ。

「――東宮(とうぐう)殿下が……!」
「お姿が、見えませぬ……!」

 (ざわ)めきが一気に膨れ上がり、人の流れが乱れる。
 本来ならば、その中心にいるべき――と、今はされている人物が此処(ここ)に居るのだ。

紬路(つつじ)お嬢様」

 直橘(なおきつ)の調子は低く、抑え込まれている。
 二人きりになればその装いは解け、いつもの言葉へと戻る。
 直橘(なおきつ)は周囲に目を配ってから、目深に被っていた雑袍(ざっぽう)を脱いだ。

「今、自分は東宮(とうぐう)殿下の身代わりの影として、内裏(だいり)に寝起きしております」

 その言葉が、内側に深く沈む。
 意味が形を結ぶ前に、重さだけが残った。

「……影」

 思わず、繰り返した。
 その一語が、現実から少し外れたもののように響く。

「はい」

 彼は頷き、さらに身を寄せる。
 他へ漏れぬようにと、距離を詰める所作だった。

「急ぎ、申し上げたいことがございます」

 一瞬、言葉を切る。
 茂みの陰は外の喧噪が嘘のように近く、そして遠い。

御身(おんみ)――狙われていらっしゃいます」

 外の(ざわ)めきが、波のように押し寄せ、また遠のいた。

「……これ以上は、口止めされております。戻らねばなりません」

 それだけ告げると直橘(なおきつ)は踵を返した。
 呼び止める間もなく、その背は喧騒の中へと溶けてゆく。



 佐伯(おう)の六条別邸の奥座敷には、見慣れぬ紗絹や薄紗、それに仕立て上がった見本用の洋装が幾つも運び込まれていた。

 窓から差し込む午後の光が、白一色の布地を淡く照らしている。
 どれも同じ白でありながら、よく見ると一つとして同じではない。

「白、というのは、難しいのね」

 瑠衣(るい)が、どこか面白がるように言った。
 対面に座る洋装仕立屋(ドレスメーカー)は、静かに頷く。

「はい。デビュタントの装いは、純白と定められておりますから。……形で差をつけることも出来ましょうが、本当の勝負は生地でございます」

 言いながら、幾枚かの布を卓の上へと広げてゆく。
 紬路(つつじ)は、その一枚一枚に視線を落とした。

 同じ白でも、光の返し方が違う。
 柔らかく(かす)むもの、冷たく弾くもの、ほのかに青みを帯びるもの。
 指先で触れれば、さらに明確に違いが現れるだろう。

 白では染めで誤魔化すことも、柄で逃がすこともできない。
 織りと糸、その全てが、そのまま現れる。

「こちらは英国(イギリス)からの品で……」
「……いえ」

 説明の途中で、紬路(つつじ)はそっと首を振った。

「光が強すぎますわ。舞踏の灯りでは、(かえ)って浮いてしまう」

 指先で、別の布へと触れる。
 ごくわずかに光を含みながら、決して主張しすぎない白。
 少し持ち上げてみせる。

「こちらは?」
「……お目が高い。仏蘭西(フランス)の織りでございます。糸の()りを抑えて、光を柔らかく返すようにしておりまして」

 成程(なるほど)、と紬路(つつじ)は思う。
 光を弾くのではなく、受けて、返す。
 それでいて、輪郭は崩れない。

 左回りの円舞曲(ワルツ)
 回転の中で、裾が遅れてついてくるようでは重すぎる。
 とはいえ、軽すぎれば動きに品が出ない。

 ただでさえ、今も()(くに)の上流階級の一部で供されない。
 男女の距離が近すぎるのだ。だが、佐伯翁の言いつけであるからには何か理由がある。

 背に回された手に囲われ、一歩ごとに重心を預け合わねば、あの回転は保てない。
 触れているだけでは足りず、呼吸も、拍も、(わず)かな体の傾きさえも、悟られてしまう。

 外から見れば、ただの舞踏だが、その内側では――
 二人だけが知る、(ひそ)やかな均衡が保たれる。

「動いたときに、遅れず、騒がず――それでいて、消えないもの」

 独り言のように呟く。
 隣の瑠衣(るい)が、ふっと笑った。

「ずいぶん難しいことをおっしゃいますのね」
「難しくなければ、意味がないわ」

 デビュタントが全員白である以上、目を惹くことはできない。
 ならば、目を留めさせるしかない。

 その違いはほんの(わず)かだ。
 だが、その一点を、針の穴に糸を通すように見極めねばならない。

 紬路(つつじ)は更に絹を()り分けてゆく。
 指先が触れるたびに、良し悪しがはっきりと分かれていく。

 糸の締まり。
 織りの密度。
 光の含み方。

 どれもが言葉にする前に答えを示していた。

「……此方(こちら)にいたしましょう」

 最後に残った一枚を静かに(テーブル)の中央へ置く。

 それは、限りなく澄んだ白だった。
 けれど触ると冷たくは感じない。
 光を受ければ、わずかに内側から(とも)るように発光して見える。

「お嬢様、飾りは最小限でよろしいでしょうか」
「ええ。余計なものは要りません。洋紗(レース)はつつ屋の仕入れ品を何でも好きに使って」

 瑠衣(るい)が、片眼鏡を押し上げながら(うなず)いた。

「なるほど。紬路(つつじ)さまらしい選び方ですわね」

 紬路(つつじ)には胸の奥に、静かな確信があった。

 ――美しいものは、一番目立つものではない。

 ただ、その場にあって自然に際立って目を留めさせるもの。
 動きの中で崩れず、光に溶け過ぎず、あえかな印象にだけ宿るもの。