「だ、駄目です……手袋はきちんとお嵌めになって」
「これは失礼」
まるで詫びる気のない様子で、青年は目を細めた。
紬路の狼狽を、どこか自覚的に愉しんでいるようだ。
――いえ、知っているの。
いつの間にか手袋を外していた、と。
過失ではない、と。
礼法を、わざと一歩越えてきたのだ。
……何のために?
何も知らぬ無作法な娘だと、わたくしを侮った、から?
「でも、もう触れてしまいました」
「そ、それとこれとは話が別です」
「別でしょうか」
「別です。わたくしは淑女なのですから、そう軽々しく手など取られては困ります。今、きちんと……」
言いながら、紬路は後ろを向いて持ってきた手袋を慌てて嵌めた。
伯爵令嬢はたとえ未婚であっても、淑女の呼称を持つ。可笑しくはない筈。
頭を下げた拍子に彼がまた背後から一歩、静かに間を詰めていた。
ふと気付けば、彼の顔は吐息が髪に触れそうなほど、紬路の頭のすぐ上にあった。
「軽々しく、ですか」
「えぇ。慣れぬ段取りで、わたくしにも落ち度はありましたけれど」
入室時からきちんと手袋を嵌めておくのが礼法的にも適っている、と紬路は胸の内で悔いた。次からは絶対に同じ過ちを繰り返さない。
本来なら、あんな風に手を取らせてはならない。
手袋を嵌めていないまま舞踏をするなど、淑女の作法から外れている。一度控えて整えるべきだったのに思い至らなかった。
「困ったな」
少しも困っていない証拠に、彼の口許は笑みを浮かべている。
「嬉しくて、どうしても慎重になれそうにない」
「……そういうことを、すぐ口にされるのもよろしくありません」
いちいち真に受けてはならない。
甘い言葉を口にして初心な娘を揶揄って楽しむ、困った練習相手に過ぎないのだと、紬路は胸の内で言い聞かせた。
「ああ、そうだ」
東風はふっと思い出したように言い足した。
黒い双眸にまた悪戯めいた光が浮かんでいる。
「舞踏会でこうして言い寄られても、きちんとあしらえるようにした方がいい。男は皆、あなたに注目するだろうから」
「えぇ、そうですわね。付け入る隙などないと思わせませんと。わたくしは商談のために参るのですから。――きっと注目されますもの。華族令嬢が商いなんて、と」
紬路は、東風の物言いに引っかかりを覚えながらも、一先ず実利の話として受け取ることにした。舞踏会は今の自分にとっては遊興の場などではなく、商機を探りに行くための場だ。
それに、デビュタントのある舞踏会で誰かに見初められるわけにはいかない。華族令嬢たちの要らぬ反感を買うだろうし、何より、それこそが破滅に至る道に繋がると予言されているのだ。
だが、彼が手袋を嵌め直した手を差し出しただけで、断る間もなく胸が騒いだ。
素肌のまま指先が触れ合ったあの一瞬で、礼法だの作法だのは綺麗に頭から飛んでしまったのだ。もう二度と、あんなことがあってはならない。
こんな風に男の腕に囲われるのは初めてで、彼の腕の内だけが妙に狭く、熱を孕んでいるように思えた。うまく顔も上げられない。
「下を見ないで」
低く囁かれて、紬路は反射のように顔を上げた。
近い。あまりにも近い。
その眸が、間近の正面から紬路を捉えていた。
「では、本日の手ほどきはここまでにいたしましょう」
「えぇ……ありがとうございました」
教師がそう告げたときには、紬路は全身の力が抜けたようになっていた。
背筋を伸ばして立っているだけでも脇や背中がじんと重く、足先まで自分のものではないように鈍い。
洋装の襟の内にこもった熱も汗も鬱陶しく、できることなら今すぐ湯に浸かりたかった。
「飲み込みがお早い。次はもっと楽に踊れますよ」
教師の労いに、紬路はどうにか笑みを浮かべる。
「ありがとう存じます」
「それと、佐伯翁からお話があるそうです。浴室もお貸しくださるとか」
「いいのかしら……でも、翁には逆らえないわね」
半ば観念してそう答えると、脇で聞いていた東風が、まるで今しがた思い出したことのように言い足した。
「しばらく直橘をお借りしたいのですが」
「……?」
「あなたの主馬寮――失礼! 車宿番の、あの青年です」
「え、えぇ、それは判りますけれど」
直橘が馬車を駆っているのだ。
借り出されてしまえば帰りの足は――と、思いかけて紬路は、はたと気付く。そういえば、行きは迎えの車が来ていたのだった。
それでも、わざわざ直橘を求める理由が判らない。
それに、主馬寮とは宮中の厩のことの筈だ。
「少し頼みたいことがありまして」
「唐突ですのね」
「あなたの次に気になっていたものですから」
「そういう言い方をなさらないでくださいませ」
いかにも人を食った物言いで、妖しげな恋でも匂わせるように揶揄って来る。
わざとだと思われるが、涼しい顔で口にされると何やら腹立たしい。
「では言い直しましょう。翁にとって、是非借り出したい人手なのだそうです」
そのときだけ、東風の声音は妙に本気を帯びている。
「秋の司召で宮中に召し上げられましょう」
ただの雑色には破格の待遇だ。
一体、直橘に何をさせようというのだろう。
湯を借りた後、用意された薄物の洋装に袖を通してみる。
運び込まれた洋式卓の夕餉には、東風も同席していた。
「今宵から舞踏会まで、儂が紬路姫をお預かりいたしましょう」
佐伯翁は、まるで茶をもう一杯勧めるような気軽さでそう言った。
さすがの紬路も目を丸くする。
「舞踏の稽古だけでは足りますまい。姫には晩餐作法も身につけて頂かねば」
「翁の仰るとおりです。あちらの舞踏会では、洋式の晩餐が供されることもあります」
「儂も席には着くが、献立だけはご容赦願いたい。我が家の洋食は、この東風と楽しんでくだされ」
東風まで涼しい顔で口を添えるものだから、どうやら冗談ではないらしい。
確かに東風の所作は一挙手一投足に至るまで、食事作法にも寸分の狂いもないようだ。
舞踏こそ覚束ないが、食事作法ならば身についている。だが――東風に比べれば。
紬路は、微かに息を吐いた。
恥を晒すことはあるまい。けれど東風の所作の前では、わたくしなどまるで子供騙しのものだ、と思う。
どのみち実家へ戻ったところで、気の晴れぬ思いを持て余すばかりである。
おまけに直橘まで借り出されているのでは、三条から気軽に出ることもできないのだ。
六条別邸は華族には珍しいことに、右京に建てられた大邸宅だ。
此処から五ツ蔵のつつ屋迄は近く、朝もゆったり支度ができるし、異国の客人と晩餐を共にする機会も増えるのなら、いずれ身につけるべきことでもある。
そう思い定め、三条の和泉邸へ遣いをやって、紬路は翁の申し出を受けることにした。


