見世蔵のつつじ姫 〜異能なし令嬢は、東宮さまに溺愛される〜

「まぁ、新帝はわたしたちより少し年上の方だから――」

 文子(あやこ)はそこで一拍置いた。

 その恰度(ちょうど)よい間に、猫耳の女給(メイド)が盆を持って二階に現れた。
 三つの茶器(ティーカップ)が、文机(ふづくえ)の上へ順に置かれる。

 湯気がふわりと立つ。
 先ほどまで重く沈んでいた話の上へ、再び茶葉の甘い香りが(ほの)かに広がった。

 文子(あやこ)は紅茶を一口含み、茶器(ティーカップ)を受け皿へ戻した。
 猫耳の女給(メイド)が盆を抱えて部屋を出て行くのを、何気ない顔で待っている。

 階段を下りる足音が遠ざかった頃、文子(あやこ)漸く(ようやく)口を開いた。

「雲の上のお方も素敵だけれど、ときめくなら年の近い殿方のほうがよろしいでしょう?」

 わざと焦らすような微笑みだった。
 その含みのある言いぶりに、志乃は茶器(ティーカップ)を持ったまま、次の名を待つように身を乗り出した。

「その点、現在の東宮(とうぐう)尚彰(なおあき)親王殿下は、十九歳、先帝の二の宮であられる」
「きゃーーーーっ! (いや)ァだ」
今上帝(きんじょうてい)弟宮(おとみや)ね」

 志乃が、待ってましたと言わんばかりに嬌声(きょうせい)を上げた。
 長椅子の背に身を預けたまま、両手を胸元でぱたぱたと振る。

 顔はすっかり桃色に上気していた。
 志乃は贔屓(ひいき)東宮(とうぐう)の話になると、決まってこの調子になる。

「はいはい」

 文子(あやこ)は、顔も上げずにあしらう。
 最早(もはや)慣れっこになっていた。

 この話は、既に何度も繰り返されているのである。

 (せん)だっての桜花の宴、(すなわ)鑑賞会(かんしょうえ)の折のことだ。

 紬路(つつじ)の女学校の面々は、一人残らず招待に預かった。
 卒業から幾日もない時期とあって、思い思いの着合わせで参内(さんだい)した娘たちは、同窓会めいた華やぎを宮中(きゅうちゅう)に持ち込んでいた。

 その場に初めて御出座(ごしゅつざ)されたのが、(いま)東宮(とうぐう)尚彰(なおあき)である。

 若い娘たちのさんざめきは、御姿が現れた途端、すっと引いた。
 誰かが制したわけでもないのに、場の空気が自ずと整う。

 すらりとした立ち姿。
 (みやび)やかな所作。
 深紫(こきむらさき)の色が、宮筋(みやすじ)御君(おんきみ)であることを物語っている。

 けれど、たとえ禁色(きんじき)(まと)っていなくとも、その姿は人々の視線を(さら)っただろう。

 華やかな容姿に恵まれながら、誇る風はない。
 笑みを見せずとも何処(どこ)(なご)やかで、近付けば届きそうなのに、決して触れられない。
 甘く遠い気配は、居並ぶ娘たちの憧れを誘った。

 その視線が、ほんの一度、紬路(つつじ)の方へ向けられる。
 ただそれだけを、娘たちは皆、自分だけを見られたような錯覚として抱いた。

 顔色を失う者。
 言葉を忘れる者。
 ついには、その場に崩れ落ちる者まで出た。

 帝御崩御(ごほうぎょ)の報が広まり、尚彰(なおあき)が新たな東宮(とうぐう)御位(みくらい)に上ったと知れるや否や、女学校卒業の面々の噂話は再び火を噴いた。

 あの静けさ。
 あの、見透かすような眼差し。
 あの御君(おんきみ)が、此度(こたび)東宮(とうぐう)となられた。
 しかも、東宮(とうぐう)()をまだお選びになられていない。

 誰もが、桜花の宴で拝した御姿(おすがた)を、まざまざと思い返した。

 紬路(つつじ)入侍(にゅうじ)の噂は、皆が承知している。
 それでも銘々が、(まか)り間違って己が召し上げられるところまで、(ひそ)かに夢想していた。

 たった一度、御目に留まる。
 たった一度、名を呼ばれる。
 あり得ぬと知りながら。

 あの日の深紫(こきむらさき)の宮の面影(おもかげ)は、それほどに甘かったのだ。