幼い姉の異能は、あまりにも鮮やかだった。
人の言葉をほんの一撫でで、別の流れへと導いてしまう。
今よりも、余程強かった。
否、予祝の結詞と今では呼ばれるその異能は、導くというより――最初からそうなる筈だったかのように結果を自然に整えてしまう、と言ったほうが近いのかもしれない。
そういうものを異能と呼ぶのだと、紬路は後から知った。
そして、――紬路は十六になっても、その異能が発現しなかった。
それだけのことなのに。
それだけのことだからこそ。
姉妹の家の中での立ち位置は、互いに違っていた。
その日も、和泉の客殿には、分家の者たちが訪れていた。
磨かれた板敷の端、柱の影に近い場所に紬路は控えている。
誰に言われたわけでもないのに、いつの間にか其処が自分の居場所のようになっていた。小父たちは自分には用がないと悟ったからかもしれない。
「――こちらが、総領娘でいらして?」
「言霊姫さま――」
言葉は途中で切れて聞こえても、ちゃんと意味が解った。
姉が其処にいるからだ。
畳敷の客間には姉の椿が先に入っていて、屏風越しに背筋を伸ばして微笑んでいる。
やけに周囲の言葉ばかり、燥ぎ過ぎているように浮いて聞こえるのは、姉の発話が禁じられているからだろう。
紬路は、少しだけ身を乗り出した。
客間へ入って小父さまの膝の上にでも座りましょうか。きっと笑ってくださるでしょう。可愛いね、と頭を撫でられて何かをいただいて。
考えた矢先、母が此方に下がって来て、そっと手招きしているのが見えた。
あなたは、お菓子でもお上がりなさい。小父さま達が持って来てくだすったの、さあ向こうに行って、ゆっくり味わって。ね?
と、急き立てながら、差し出されたのは小さな菓子だった。
幼くとも紬路には明白だった。
母は気に入った家には妹である自分の顔を、姉の代わりに「この子は姉に酷似なのです」と言い添えて、見せるのだと。
見せ物のように、小父さま達に見せつけても問題ないのは、わたしの方だと。
面倒なのだろう。
どうせ引き合いを受けるなら、異能のある家が望ましい。
母から菓子を与えられた――つまり、この分家は母にとって利用価値がないのだ。
今、和泉の屋敷に、その母の姿はない。
分家との細々とした付き合いのみで、既に隠居し、一線からは退いている。
代わって姉の椿とその婿養子となる筈の許婚、佐伯霍成が主人となっている。
霍成は左大臣家の子息であり、都の警備を司る右近衛中将だ。
家の流れは、静かに次の代へと移っていた。
主屋の一室、紬路の部屋だけが、取り残されたように何も変わっていない。
桜の季節に女学校を卒業したときのまま、調度も設えも。
今はもう紬路を偏愛する母も使用人も居ない。
だのに、一つ大きな変化がある。
紬路は、もう東宮妃には成れないらしい、ということ。
政変などの理由によるものか大納言職を退き、二の姫である紬路を、父から東宮妃に推すことはできなくなったのだ。
水無月は、嫌いだ。
梅雨の湿り気を含んだ空気が、肌にまとわりついて離れない。
夏越の祓を目前に、鬱屈した穢れが堆積し、どこまでも鈍く重たい感じがある。
そして――
和泉家に留まり続け、縁談も異能も務めもない自分のこともまた、今はあまり好きではない。
都の西、蔵屋敷街。
姉の婚家、佐伯家が川沿いに持つ土手蔵群――
七ツ蔵と呼ばれる並びの一角に、その店はあった。
猫耳の娘を描いた大きな看板が、茶目っ気を含んだ眼差しで往来の人々を誘っている。
軒から垂れた暖簾は左右に大きく開かれ、店内と表の境は殆ど溶け合っていた。
開放式純喫茶と呼ばれる形の店であるらしい。
卓と椅子は、戸口の外へまで緩やかに張り出している。
通りの風がそのまま入り、客の気配もまた、街へと零れていく。
席に着いた者たちは、寛いで緊張を解き、椅子にもたれて肩の力を抜いていた。
その笑いや会話の断片を耳にして、足を止める者が偶さかある。
躊躇いがちに暖簾をくぐり、やがて同じように腰を下ろす。
そうして客が客を呼ぶ、遣り口の利口な店だった。
賑わいはそれだけに留まらず、伸びやかに外へと広がっている。
人も荷も、流れに押されるようにして動いている。
呼び交わされる声は途切れることがなく、足取りもまた立ち止まることが稀だ。
馬車が静かに停車し、紬路は馬車上から七ツ純喫茶の看板を見上げた。
「直橘!」
「はい、お嬢さま」
呼べば、すぐに応じる声。
直橘は、和泉家に仕える家司の子だ。
いずれ紬路が何処ぞへ、嫁入りする折には共に引き取られる筈の身である。
紬路が働きを認めれば、嫁ぎ先で父と同じ家司の職が与えられるだろう。
和泉に長く居つくことは、父の職位を奪うか、下男下女に内心莫迦にされながら下っ端仕事に身を落とすか、二者択一となる。その浮沈は紬路と一蓮托生の身の青年だった。
しかし今は、外出を好む紬路の付添役として、あちらこちらへと引き回される日々である。
「三ツ蔵に運び込め!
「急げ! 日が暮れちまう」
「そっちは帳場へ回せ、数を違えるなよ」
七ツ純喫茶前はちょうど荷降ろしがあったようで、商人たちが声を張り上げていた。
まわり込んできた直橘の手によって、馬車の扉が静かに開かれる。
「お嬢様」
紬路は、その掌へ、指をそっと掛けるように重ねた。
受け止める手は確かで、揺らぎがない。
場違いな洋装に、陽光を照り返す白い梭織洋紗の日傘。
この通りの喧騒の中では、猫娘の看板よりも、なお異質めいて見えた。
忙しく行き交う者の足が、ほんのわずかに遅れる。
集中して荷を担ぐ男が、ふと視線を寄越す。
年の頃は、十六。
誰もが――
日傘の振り撒くあえかな淡い光に幻惑され、つい足を止めてしまう。
傘の下の愛嬌を、一度目の当たりにすると目が離せなくなる。
人の言葉をほんの一撫でで、別の流れへと導いてしまう。
今よりも、余程強かった。
否、予祝の結詞と今では呼ばれるその異能は、導くというより――最初からそうなる筈だったかのように結果を自然に整えてしまう、と言ったほうが近いのかもしれない。
そういうものを異能と呼ぶのだと、紬路は後から知った。
そして、――紬路は十六になっても、その異能が発現しなかった。
それだけのことなのに。
それだけのことだからこそ。
姉妹の家の中での立ち位置は、互いに違っていた。
その日も、和泉の客殿には、分家の者たちが訪れていた。
磨かれた板敷の端、柱の影に近い場所に紬路は控えている。
誰に言われたわけでもないのに、いつの間にか其処が自分の居場所のようになっていた。小父たちは自分には用がないと悟ったからかもしれない。
「――こちらが、総領娘でいらして?」
「言霊姫さま――」
言葉は途中で切れて聞こえても、ちゃんと意味が解った。
姉が其処にいるからだ。
畳敷の客間には姉の椿が先に入っていて、屏風越しに背筋を伸ばして微笑んでいる。
やけに周囲の言葉ばかり、燥ぎ過ぎているように浮いて聞こえるのは、姉の発話が禁じられているからだろう。
紬路は、少しだけ身を乗り出した。
客間へ入って小父さまの膝の上にでも座りましょうか。きっと笑ってくださるでしょう。可愛いね、と頭を撫でられて何かをいただいて。
考えた矢先、母が此方に下がって来て、そっと手招きしているのが見えた。
あなたは、お菓子でもお上がりなさい。小父さま達が持って来てくだすったの、さあ向こうに行って、ゆっくり味わって。ね?
と、急き立てながら、差し出されたのは小さな菓子だった。
幼くとも紬路には明白だった。
母は気に入った家には妹である自分の顔を、姉の代わりに「この子は姉に酷似なのです」と言い添えて、見せるのだと。
見せ物のように、小父さま達に見せつけても問題ないのは、わたしの方だと。
面倒なのだろう。
どうせ引き合いを受けるなら、異能のある家が望ましい。
母から菓子を与えられた――つまり、この分家は母にとって利用価値がないのだ。
今、和泉の屋敷に、その母の姿はない。
分家との細々とした付き合いのみで、既に隠居し、一線からは退いている。
代わって姉の椿とその婿養子となる筈の許婚、佐伯霍成が主人となっている。
霍成は左大臣家の子息であり、都の警備を司る右近衛中将だ。
家の流れは、静かに次の代へと移っていた。
主屋の一室、紬路の部屋だけが、取り残されたように何も変わっていない。
桜の季節に女学校を卒業したときのまま、調度も設えも。
今はもう紬路を偏愛する母も使用人も居ない。
だのに、一つ大きな変化がある。
紬路は、もう東宮妃には成れないらしい、ということ。
政変などの理由によるものか大納言職を退き、二の姫である紬路を、父から東宮妃に推すことはできなくなったのだ。
水無月は、嫌いだ。
梅雨の湿り気を含んだ空気が、肌にまとわりついて離れない。
夏越の祓を目前に、鬱屈した穢れが堆積し、どこまでも鈍く重たい感じがある。
そして――
和泉家に留まり続け、縁談も異能も務めもない自分のこともまた、今はあまり好きではない。
都の西、蔵屋敷街。
姉の婚家、佐伯家が川沿いに持つ土手蔵群――
七ツ蔵と呼ばれる並びの一角に、その店はあった。
猫耳の娘を描いた大きな看板が、茶目っ気を含んだ眼差しで往来の人々を誘っている。
軒から垂れた暖簾は左右に大きく開かれ、店内と表の境は殆ど溶け合っていた。
開放式純喫茶と呼ばれる形の店であるらしい。
卓と椅子は、戸口の外へまで緩やかに張り出している。
通りの風がそのまま入り、客の気配もまた、街へと零れていく。
席に着いた者たちは、寛いで緊張を解き、椅子にもたれて肩の力を抜いていた。
その笑いや会話の断片を耳にして、足を止める者が偶さかある。
躊躇いがちに暖簾をくぐり、やがて同じように腰を下ろす。
そうして客が客を呼ぶ、遣り口の利口な店だった。
賑わいはそれだけに留まらず、伸びやかに外へと広がっている。
人も荷も、流れに押されるようにして動いている。
呼び交わされる声は途切れることがなく、足取りもまた立ち止まることが稀だ。
馬車が静かに停車し、紬路は馬車上から七ツ純喫茶の看板を見上げた。
「直橘!」
「はい、お嬢さま」
呼べば、すぐに応じる声。
直橘は、和泉家に仕える家司の子だ。
いずれ紬路が何処ぞへ、嫁入りする折には共に引き取られる筈の身である。
紬路が働きを認めれば、嫁ぎ先で父と同じ家司の職が与えられるだろう。
和泉に長く居つくことは、父の職位を奪うか、下男下女に内心莫迦にされながら下っ端仕事に身を落とすか、二者択一となる。その浮沈は紬路と一蓮托生の身の青年だった。
しかし今は、外出を好む紬路の付添役として、あちらこちらへと引き回される日々である。
「三ツ蔵に運び込め!
「急げ! 日が暮れちまう」
「そっちは帳場へ回せ、数を違えるなよ」
七ツ純喫茶前はちょうど荷降ろしがあったようで、商人たちが声を張り上げていた。
まわり込んできた直橘の手によって、馬車の扉が静かに開かれる。
「お嬢様」
紬路は、その掌へ、指をそっと掛けるように重ねた。
受け止める手は確かで、揺らぎがない。
場違いな洋装に、陽光を照り返す白い梭織洋紗の日傘。
この通りの喧騒の中では、猫娘の看板よりも、なお異質めいて見えた。
忙しく行き交う者の足が、ほんのわずかに遅れる。
集中して荷を担ぐ男が、ふと視線を寄越す。
年の頃は、十六。
誰もが――
日傘の振り撒くあえかな淡い光に幻惑され、つい足を止めてしまう。
傘の下の愛嬌を、一度目の当たりにすると目が離せなくなる。


