少し遅れて、母がやって来た。
しかも一人ではなく、家司を伴っていた。
どうやら事情を呑み込めていないらしい。
神妙な顔で、煎茶の湯呑みを載せた盆を捧げ持ち、母の三歩後ろへ控えている。
その様子を見て、椿は母がわざわざ男手を呼びに行っていたのだと悟った。
先日、早朝から現れて一騒動起こした霍成が相手だ。
女手ばかりでは心許なく、せめて脇へ、頼れる者を置いておきたかったのだろう。
「命に別状はない」
熱量のない答えに、胡粉の下の頬がひくりと引きつった。
安堵より先に、その冷ややかさが鋭く掠めたのだろう。
「お会いできるのですか。いつ、お戻しくださるのです――」
「奥方」
声を荒げたわけではない。
それでも霍成の一言は、座敷の空気を変えた。
押し返された悔しさと、夫を案じる焦燥とが、行き場を失って母の顔に滲む。
「今は、此方の話を聞いていただきたい」
母は唇を顫わせた。
猶も言い募ろうとして、言葉を呑む。
夫の安否も、娘の行く末も、この男の言葉一つに懸かっている。
和泉の内と分家筋には思うままに力を振るってきた母でさえ、そう悟らぬ訣にはいかなかったのだろう。
母は、思惑の外から来るものに弱い。
己の采配が届かぬ相手には、どう振る舞えばよいのか判らないのだ。
母は傍らの家司へ、小さく手を振った。
それから観念したように、膝を揃えて座る。
家司は無言のまま進み出た。
畳の上を静かに膝行し、四人の間へ茶盤を置く。
まず母の前へ。
ついで霍成の前へ。
それから椿と紬路の前へ、順に湯呑みを配っていった。
白い湯気が細く立ち昇る。
張りつめた座敷に、茶の匂いだけがほのかに広がった。
紬路は、その間、妙に静かだった。
母に縋るかと思ったが、ただ膝の上で指を組み、俯いている。
妹と母は、椿が思っていたほど近しい母娘ではなかったのかもしれない。
母は、あの和歌の存在も、その行方も知らぬまま、ここまで来たのだろう。
それが今上、あるいは東宮へ届く形になったことも、知らずに。
まして、それが誰の口から讒言として奏上されたかなど、知る由もないだろう。
そして紬路もまた、料紙を落としたことを、母へ打ち明けてはいなかった。
紬路は今、母の顔を見ようともしない。
救いを求める先など初めからないと知っているように、視線を落としたままでいる。
その横顔に、椿は初めて、妹の孤独を見た気がした。
であれば今ここで、紬路が和歌を持ち出したのだと母へ告げれば、この場はたちまち収拾がつかなくなる。
それに、言いつけに背いて、既に自分が和歌を詠んだことまで明かす必要はない。
それらは今、触れるべきことではなかった。
母は、娘が犯した過ちを相談できるような相手ではない。
しかも今は、父のことで正気を失いかけている。
誰一人、まだ湯呑みに手をつけていなかった。
霍成は目の前の湯呑みを手に取った。
張りつめた間を切るように口をつけ、すぐに置く。
「少々、持ち出したいものがあってな」
用件とは関わりのなさそうなことを、唐突に言い出した。
椿には、それが紬路の関与から母の目を逸らすための、咄嗟の間合いにも思えた。
母は訝しげに片眉を上げる。
蔵書ならば、椿の許へ移すのもまだ判る。
しかし、まさか主人の不在に託つけて、家財まで持ち出す気ではあるまいな――。
そんな警戒が、その目にはありありと浮かんでいた。
霍成は頓着しない。
湯呑みから手を離し、改めて母へ向き直った。
「調査は粗方終えている。暫しの後、大納言殿も禁を解かれるだろう。疑念は、あくまで疑念に過ぎぬ。――和泉家の名を損なわぬよう、全ては内々に収めよとの仰せだ」
仰せ――つまり、今上のご判断である。
霍成が椿を守ると言ったのは、このことなのだろうか。
和泉家の名を傷つけぬように取り計らうこと。
確かに、それも守ることには違いなかった。
けれど椿には、何処かそれだけではないような気もしていた。
――大切にする。
――喋れなくても、俺には聞こえている。
守る理由が値打ちの外にあるのなら、必ずしも和泉の評判だけを守る必要はないはずだ。
母は安堵のため息を漏らした後、暫し黙していた。
父の身柄。
椿の不在。
家の体面。
紬路の縁談。
どれも軽んじることのできぬものばかりである。
そのいずれを先に救うべきか、一度には量りかねている顔だった。
だが、それよりも――。
やがて、母の目がすっと椿へ移る。
「……では、椿は」
その一言にこそ、母の本心が透けていた。
椿は物思いから引き戻され、それ以上を聞くのが怖くなり、ただ唇を引き結んだ。
父の無事が約されたのであれば、母にとって次に切実なのは家の行く末だ。
娘しか生まれなかった和泉本家にとって、跡取りである椿を失うことは、家運そのものを傾けかねない。
母が恐れているのは、まさにその一点だった。
つらい調合の技を叩き込んだことも含め、すべて悪気はないのだろう。
だからこそ、椿には一層苦しかった。
けれど同時に――。
仮に、跡取りとしての異能の資質に、自分が恵まれなかったとして。
果たして母は、椿にどれほどの関心を持っただろう。
それは、甚だ疑わしかった。
「椿は、いずれ和泉へ戻していただけるのでしょうね」
座敷の空気が、また違う意味で張った。
紬路がはっと顔を上げる。
涙は、どうにか収まったらしい。
「この子は跡取り娘です。和泉の――」
「承知している」
霍成が遮った。
「でしたら、お約束くださいまし。必ず、お返し頂けると。……和泉には娘しかおりません。いずれ椿には、異能の釣り合いが尤もよい分家筋から婿を取らせるほかないのです。他家へ渡せば、和泉はそのまま呑まれてしまう」
母は一気に言い募った。
もう何度も考えてきたのだと判る、切実で現実的な言葉だった。
その声には、体面と焦燥とが綯い交ぜになっている。
では、幼い頃から値踏みする目で訪れていた親族は、息子たちを椿の婿に据える腹だったのだ。
そう気付いた瞬間、背中の肌の裏へ、薄い氷を差し込まれたような怖気が這い上がった。
――厭だ。
そんなのは、絶対に厭だった。
霍成さまでなければ、もう厭なのだ。
「ならば」
その強い語気に、紬路がびくりと肩を揺らした。
「紬路をお上げいたします」
家司の、寸分も乱れぬはずの無表情に、動揺が走った。
あれほど大切に扱われ、いずれは尊く畏きあたりへ差し上げるものと思われていた娘である。
それを今この場で、主人の裁可もなく、口約束一つで差し出すとは。
「厭ッ」
紬路の叫びは、最早鋭い悲鳴のようだった。
東宮の許へ上がるかもしれぬと囁かれていた娘だ。
それが家の帳尻合わせに、下げ渡されようとしている。
「紬路は器量もよく、人前にも映えます。年頃も恰度よい」
まるで、椿はそうではないとでも言いたげな口ぶりだった。
顔立ちは、よく似ている。
歳まわりだって、椿と霍成の方が、むしろ近い筈だ。
「お母さま、わたくしは……」
「要らん」
きっぱりとした声だった。
母の顔が、みるみる強張った。
「……でも」
「俺が欲しいのは椿だ」
霍成は、畳みかけるように宣言する。
「そのために来た。……簪を取りに」
おそらく、椿が愛用していたつげの櫛のことではある。
けれど、それにしては言い回しがあまりに特別だった。
男が女へ求婚の際に贈るものとして、櫛は珍しくない。
だがその音は、苦にも死にも通う。
だからこそ簪と言い換えたのだろう。
行く末の吉兆を願うその一語は、もう霍成の腹が決まっている証のようでもあった。
客間は、水を打ったように静まり返った。
その言葉はあまりに明白で、言い訳の余地も、聞き違いの余地もない。
霍成の横顔は、常とは違う他所ゆきの冷たさを帯びて整っていた。
母は言葉を失っていた。
紬路もまた、白くなった顔で霍成を見つめている。
やがて母が、声を絞り出した。
問いの形をしていても、半ばは否定を願う響きだった。
「……それは、どういう」
「言葉どおりだ。椿は返さぬ」
霍成は動じなかった。
最早、一歩も引く気のない声音である。
「案ずるな。学びは此方で続けさせる。教育係の家庭教師も、こちらへ引き取る」
初めて、母の目にあからさまな動揺が走った。
怒りとも、狼狽とも、諦めとも付かぬものが、次々と浮かんでは消えた。
暫し、母は何も言えずにいた。
だが、それ以上言い募る力は、もう残っていないらしかった。
父の不在で空ろになった家の重み。
目の前の男の意志の固さ。
その二つを、母は黙って秤にかけていたのだろう。
やがて、漸く長い息を吐いた。
紬路は途中まで、何かを言いたげにしていた。
けれど、霍成の意志を聞いて安堵したのか、結局一言も発さなかった。
椿だけが、静かに波立つ思いを持て余していた。
欲しい、と。
家のために必要だと言われたことはある。
異能のために管理され、教育のために閉じ込められ、血筋のために守られてきたこともある。
けれど、椿そのものを指して、そう口にされたことはなかった気がした。
それが喜びなのか。
怖れなのか。
まだ自分でも判らなかった。
「ご次男でいらっしゃいますよね。佐伯家の方として、どちらの異能をお持ちなのですか」
ややあって、母が迷いを呑み込むように口を開いた。
先ほどまで狼狽に揺れていた顔に、旧家の奥方らしい冷静さが戻っている。
ただ椿を奪われるのを惜しんでいるのではない。
渡す相手が何者なのかを、この期に及んで見極めようとしているのだ。
異能とは、華族の血筋にのみ伝わる力である。
縁組とは家と家との結びつきであると同時に、血に宿る力の行く末を定めるものでもあった。
母が見ているのは、椿の幸福だけではない。
相手の家格、血筋、異能。
それらが娘を託すに足るものかどうかである。
霍成は母を見た。
正面から応じれば煩わしいと、既に悟っているのだろう。
その面には、面倒ごとを遠ざけたい気配が滲んでいた。
「佐伯は、大名華族の子爵家ではあるが――」
問いの意味を、わざと取り違えているのだ。
椿はそう思った。
異能は、易々と人の口に乗せるものではない。
家の内々に秘され、他人には伏せるのが常である。
「風神か、雷神か――と、お訊きしているのです」
母の声は、不思議なほど静かだった。
異能の家筋に生まれた者だけが知る、ぎりぎりの問いである。
力の強弱ではない。
性質を訊いているのだ。
継承を考えるなら、陰陽五行の組み合わせこそが問題になる。
霍成の性質を思うと、椿の脳裡には嵐の一文字が浮かんだ。
重く淀んだ空をひらき、籠った熱を洗い流し、ときに新しい季節を連れてくるもの。
「両方だ」
短い返答だった。
飾りも、虚勢もない。
ただ事実を置いただけの声音である。
母は再び黙した。
座敷に、妙な静けさが落ちる。
やがて、深く息をついた。
それは諦めのようでもあり、納得のようでもあった。
佐伯の家の力を借りて収めるのも、必ずしも悪手ではない。
そう判断が傾いたのかもしれない。
あるいは、それに縋る外、なかったのか。
「出ずる泉、天よりの天命」
恭しく言って、母は頭を垂れた。
だが次の瞬間、伏せていた顔がすいと上がる。
眼光が、硝子窓越しの光をはねて、鋭く閃いた。
「入婿になって頂きますよッ」
空気が、ぴしりと鳴った気がした。
かくして、椿の縁談は調った。
しかも一人ではなく、家司を伴っていた。
どうやら事情を呑み込めていないらしい。
神妙な顔で、煎茶の湯呑みを載せた盆を捧げ持ち、母の三歩後ろへ控えている。
その様子を見て、椿は母がわざわざ男手を呼びに行っていたのだと悟った。
先日、早朝から現れて一騒動起こした霍成が相手だ。
女手ばかりでは心許なく、せめて脇へ、頼れる者を置いておきたかったのだろう。
「命に別状はない」
熱量のない答えに、胡粉の下の頬がひくりと引きつった。
安堵より先に、その冷ややかさが鋭く掠めたのだろう。
「お会いできるのですか。いつ、お戻しくださるのです――」
「奥方」
声を荒げたわけではない。
それでも霍成の一言は、座敷の空気を変えた。
押し返された悔しさと、夫を案じる焦燥とが、行き場を失って母の顔に滲む。
「今は、此方の話を聞いていただきたい」
母は唇を顫わせた。
猶も言い募ろうとして、言葉を呑む。
夫の安否も、娘の行く末も、この男の言葉一つに懸かっている。
和泉の内と分家筋には思うままに力を振るってきた母でさえ、そう悟らぬ訣にはいかなかったのだろう。
母は、思惑の外から来るものに弱い。
己の采配が届かぬ相手には、どう振る舞えばよいのか判らないのだ。
母は傍らの家司へ、小さく手を振った。
それから観念したように、膝を揃えて座る。
家司は無言のまま進み出た。
畳の上を静かに膝行し、四人の間へ茶盤を置く。
まず母の前へ。
ついで霍成の前へ。
それから椿と紬路の前へ、順に湯呑みを配っていった。
白い湯気が細く立ち昇る。
張りつめた座敷に、茶の匂いだけがほのかに広がった。
紬路は、その間、妙に静かだった。
母に縋るかと思ったが、ただ膝の上で指を組み、俯いている。
妹と母は、椿が思っていたほど近しい母娘ではなかったのかもしれない。
母は、あの和歌の存在も、その行方も知らぬまま、ここまで来たのだろう。
それが今上、あるいは東宮へ届く形になったことも、知らずに。
まして、それが誰の口から讒言として奏上されたかなど、知る由もないだろう。
そして紬路もまた、料紙を落としたことを、母へ打ち明けてはいなかった。
紬路は今、母の顔を見ようともしない。
救いを求める先など初めからないと知っているように、視線を落としたままでいる。
その横顔に、椿は初めて、妹の孤独を見た気がした。
であれば今ここで、紬路が和歌を持ち出したのだと母へ告げれば、この場はたちまち収拾がつかなくなる。
それに、言いつけに背いて、既に自分が和歌を詠んだことまで明かす必要はない。
それらは今、触れるべきことではなかった。
母は、娘が犯した過ちを相談できるような相手ではない。
しかも今は、父のことで正気を失いかけている。
誰一人、まだ湯呑みに手をつけていなかった。
霍成は目の前の湯呑みを手に取った。
張りつめた間を切るように口をつけ、すぐに置く。
「少々、持ち出したいものがあってな」
用件とは関わりのなさそうなことを、唐突に言い出した。
椿には、それが紬路の関与から母の目を逸らすための、咄嗟の間合いにも思えた。
母は訝しげに片眉を上げる。
蔵書ならば、椿の許へ移すのもまだ判る。
しかし、まさか主人の不在に託つけて、家財まで持ち出す気ではあるまいな――。
そんな警戒が、その目にはありありと浮かんでいた。
霍成は頓着しない。
湯呑みから手を離し、改めて母へ向き直った。
「調査は粗方終えている。暫しの後、大納言殿も禁を解かれるだろう。疑念は、あくまで疑念に過ぎぬ。――和泉家の名を損なわぬよう、全ては内々に収めよとの仰せだ」
仰せ――つまり、今上のご判断である。
霍成が椿を守ると言ったのは、このことなのだろうか。
和泉家の名を傷つけぬように取り計らうこと。
確かに、それも守ることには違いなかった。
けれど椿には、何処かそれだけではないような気もしていた。
――大切にする。
――喋れなくても、俺には聞こえている。
守る理由が値打ちの外にあるのなら、必ずしも和泉の評判だけを守る必要はないはずだ。
母は安堵のため息を漏らした後、暫し黙していた。
父の身柄。
椿の不在。
家の体面。
紬路の縁談。
どれも軽んじることのできぬものばかりである。
そのいずれを先に救うべきか、一度には量りかねている顔だった。
だが、それよりも――。
やがて、母の目がすっと椿へ移る。
「……では、椿は」
その一言にこそ、母の本心が透けていた。
椿は物思いから引き戻され、それ以上を聞くのが怖くなり、ただ唇を引き結んだ。
父の無事が約されたのであれば、母にとって次に切実なのは家の行く末だ。
娘しか生まれなかった和泉本家にとって、跡取りである椿を失うことは、家運そのものを傾けかねない。
母が恐れているのは、まさにその一点だった。
つらい調合の技を叩き込んだことも含め、すべて悪気はないのだろう。
だからこそ、椿には一層苦しかった。
けれど同時に――。
仮に、跡取りとしての異能の資質に、自分が恵まれなかったとして。
果たして母は、椿にどれほどの関心を持っただろう。
それは、甚だ疑わしかった。
「椿は、いずれ和泉へ戻していただけるのでしょうね」
座敷の空気が、また違う意味で張った。
紬路がはっと顔を上げる。
涙は、どうにか収まったらしい。
「この子は跡取り娘です。和泉の――」
「承知している」
霍成が遮った。
「でしたら、お約束くださいまし。必ず、お返し頂けると。……和泉には娘しかおりません。いずれ椿には、異能の釣り合いが尤もよい分家筋から婿を取らせるほかないのです。他家へ渡せば、和泉はそのまま呑まれてしまう」
母は一気に言い募った。
もう何度も考えてきたのだと判る、切実で現実的な言葉だった。
その声には、体面と焦燥とが綯い交ぜになっている。
では、幼い頃から値踏みする目で訪れていた親族は、息子たちを椿の婿に据える腹だったのだ。
そう気付いた瞬間、背中の肌の裏へ、薄い氷を差し込まれたような怖気が這い上がった。
――厭だ。
そんなのは、絶対に厭だった。
霍成さまでなければ、もう厭なのだ。
「ならば」
その強い語気に、紬路がびくりと肩を揺らした。
「紬路をお上げいたします」
家司の、寸分も乱れぬはずの無表情に、動揺が走った。
あれほど大切に扱われ、いずれは尊く畏きあたりへ差し上げるものと思われていた娘である。
それを今この場で、主人の裁可もなく、口約束一つで差し出すとは。
「厭ッ」
紬路の叫びは、最早鋭い悲鳴のようだった。
東宮の許へ上がるかもしれぬと囁かれていた娘だ。
それが家の帳尻合わせに、下げ渡されようとしている。
「紬路は器量もよく、人前にも映えます。年頃も恰度よい」
まるで、椿はそうではないとでも言いたげな口ぶりだった。
顔立ちは、よく似ている。
歳まわりだって、椿と霍成の方が、むしろ近い筈だ。
「お母さま、わたくしは……」
「要らん」
きっぱりとした声だった。
母の顔が、みるみる強張った。
「……でも」
「俺が欲しいのは椿だ」
霍成は、畳みかけるように宣言する。
「そのために来た。……簪を取りに」
おそらく、椿が愛用していたつげの櫛のことではある。
けれど、それにしては言い回しがあまりに特別だった。
男が女へ求婚の際に贈るものとして、櫛は珍しくない。
だがその音は、苦にも死にも通う。
だからこそ簪と言い換えたのだろう。
行く末の吉兆を願うその一語は、もう霍成の腹が決まっている証のようでもあった。
客間は、水を打ったように静まり返った。
その言葉はあまりに明白で、言い訳の余地も、聞き違いの余地もない。
霍成の横顔は、常とは違う他所ゆきの冷たさを帯びて整っていた。
母は言葉を失っていた。
紬路もまた、白くなった顔で霍成を見つめている。
やがて母が、声を絞り出した。
問いの形をしていても、半ばは否定を願う響きだった。
「……それは、どういう」
「言葉どおりだ。椿は返さぬ」
霍成は動じなかった。
最早、一歩も引く気のない声音である。
「案ずるな。学びは此方で続けさせる。教育係の家庭教師も、こちらへ引き取る」
初めて、母の目にあからさまな動揺が走った。
怒りとも、狼狽とも、諦めとも付かぬものが、次々と浮かんでは消えた。
暫し、母は何も言えずにいた。
だが、それ以上言い募る力は、もう残っていないらしかった。
父の不在で空ろになった家の重み。
目の前の男の意志の固さ。
その二つを、母は黙って秤にかけていたのだろう。
やがて、漸く長い息を吐いた。
紬路は途中まで、何かを言いたげにしていた。
けれど、霍成の意志を聞いて安堵したのか、結局一言も発さなかった。
椿だけが、静かに波立つ思いを持て余していた。
欲しい、と。
家のために必要だと言われたことはある。
異能のために管理され、教育のために閉じ込められ、血筋のために守られてきたこともある。
けれど、椿そのものを指して、そう口にされたことはなかった気がした。
それが喜びなのか。
怖れなのか。
まだ自分でも判らなかった。
「ご次男でいらっしゃいますよね。佐伯家の方として、どちらの異能をお持ちなのですか」
ややあって、母が迷いを呑み込むように口を開いた。
先ほどまで狼狽に揺れていた顔に、旧家の奥方らしい冷静さが戻っている。
ただ椿を奪われるのを惜しんでいるのではない。
渡す相手が何者なのかを、この期に及んで見極めようとしているのだ。
異能とは、華族の血筋にのみ伝わる力である。
縁組とは家と家との結びつきであると同時に、血に宿る力の行く末を定めるものでもあった。
母が見ているのは、椿の幸福だけではない。
相手の家格、血筋、異能。
それらが娘を託すに足るものかどうかである。
霍成は母を見た。
正面から応じれば煩わしいと、既に悟っているのだろう。
その面には、面倒ごとを遠ざけたい気配が滲んでいた。
「佐伯は、大名華族の子爵家ではあるが――」
問いの意味を、わざと取り違えているのだ。
椿はそう思った。
異能は、易々と人の口に乗せるものではない。
家の内々に秘され、他人には伏せるのが常である。
「風神か、雷神か――と、お訊きしているのです」
母の声は、不思議なほど静かだった。
異能の家筋に生まれた者だけが知る、ぎりぎりの問いである。
力の強弱ではない。
性質を訊いているのだ。
継承を考えるなら、陰陽五行の組み合わせこそが問題になる。
霍成の性質を思うと、椿の脳裡には嵐の一文字が浮かんだ。
重く淀んだ空をひらき、籠った熱を洗い流し、ときに新しい季節を連れてくるもの。
「両方だ」
短い返答だった。
飾りも、虚勢もない。
ただ事実を置いただけの声音である。
母は再び黙した。
座敷に、妙な静けさが落ちる。
やがて、深く息をついた。
それは諦めのようでもあり、納得のようでもあった。
佐伯の家の力を借りて収めるのも、必ずしも悪手ではない。
そう判断が傾いたのかもしれない。
あるいは、それに縋る外、なかったのか。
「出ずる泉、天よりの天命」
恭しく言って、母は頭を垂れた。
だが次の瞬間、伏せていた顔がすいと上がる。
眼光が、硝子窓越しの光をはねて、鋭く閃いた。
「入婿になって頂きますよッ」
空気が、ぴしりと鳴った気がした。
かくして、椿の縁談は調った。



