さよならの記憶写真館

 瞼の奥でヒラヒラと舞った、記憶の欠片。
 言い表せないほどの幸せと罪悪感が、パラパラと降り注ぐ。
「今までありがとう」とか、「本当にごめんなさい」とか。悔いがないようにと想いを言葉にしてきたはずなのに、私の心は終えた命と相反して、まだ終焉を迎えていないみたい。

 己は三十二年しか生きられない運命だと神様からお告げを受けていたら、このような人生にはしなかった。
 そんな思いが、何百回、何千回と反芻した私の魂は、一軒の写真館へと誘われていた。
 ──記憶写真館。人生の悔いを写し出し、その写真に映し出された人生を修正してしまう、不思議な場所へと。



 目元に温かな感触がして、思わず瞼を開く。
 視界に入ってきたのは、黒くて、柔らかそうな毛並みをしていて、目を細めて「ニャア」と可愛らしい声を出す黒猫だった。

「あ……れ? し……」
 その後に続きそうな言葉を飲み込み改めて思うと、咄嗟に出た声は珍しく掠れていなくて、喉が詰まる感覚もない。
 猫が擦り付けてきた自身の頬はやたら軽く、常時付けていた酸素マスクがないことに違和感を覚える。視線を戻した先に広がるのはブラウン色の天井は、病院の白いものではない。
 ここはどこ、と眼球を仕切りに動かすも、六畳ほどと思われる部屋には間接照明となる木目の置き型ライトしかなく、私は暖色のソファで横になっているみたい。
 おそらく初めて来たのだろうけど、どうして私は知らない場所で眠っていたのだろう?

 まさかと思い体を起こすと、願っていた奇跡はあまりにも簡単に起きてくれた。
 これ、本当に私の体? そう思うぐらいにあまりにも軽く立ち上がれて、繋がる線はなくて、息が楽で。
 ……嬉しいはずなのに、どこか悲しさが襲ってきた。

 部屋は飴色に包まれた、昔ながらのレトロな雰囲気。
 間接照明により照らされた部屋は温かい印象で、あてもなく歩き回ると、不意に感じる視線。
 目の前には、化粧はしているけど明らかに不健康な顔付きに、お気に入りだった黒のワンピースは着ているのではなく、着せられている感を隠せていない女性が立っていた。姿見に映った、私だ。

 呆然と立ち尽くす私の足元で、黒猫が首輪の鈴を鳴らして柔らかな毛を押し付けてくる。
 颯爽と歩いていくのは閉ざされた木製のドア前で、手でコイコイとすれば扉がキィィと音を立てて開く。

「ニャア」
 まるで私を招き入れるように声を掛けてくれ、その後に付いて行って部屋を覗き込むと、広がるのは先ほどと同じ飴色の内装に壁中に貼られた額縁。
 そこに入っているのは写真で、そこには乳児期、幼児期、学齢期、青年期、成人期と続き、それはまるでアルバムの中身のようだった。

「これって……、私?」
 平時なら動揺し、この部屋より出ていくだろう。だけど心当たりがある私はただ溜息を吐き、部屋をぼんやりと眺める。

 これは猫ちゃんがくれた、最後のプレゼントなんだ。
 そんな思いで今までの人生を振り返るように、順番に写真を眺めていく。
 息遣いまで聞こえてきそうな鮮明な写真は生まれたてから写し出されていて、初七日、お食い初めに始まり、寝返り、腹這い、掴まり立ち、独歩と成長の記録が写し出されている。
 両親の優しい笑顔が辛くて、申し訳なくて、目を逸らすと、新たな希望がそこには写っていた。

 生まれて数日と思われる柔らかな乳児を、顔立ちが幼児になっている私が恐る恐る抱っこしている。当然ながらその後ろでは大きな手が赤ちゃんの首や体全体をしっかり支えていた。

「可愛いニャア」
「……あ、うん。この赤ちゃん、一つ下の妹なの。元気で、たくましくて、しっかり者だった。……私なんかと違ってね」
 私たちは二人姉妹で、子どもは一人だけじゃなかった。妹が居てくれて、本当に良かった。
 だって──。

 次の写真に目をやれば、二、三歳ぐらいの男の子と私が手を繋いでグスグスと泣いていて、そんな私たちを庇うように一番体が小さい女の子が前方で仁王立ちしている。幼児なのに凛とした目をしていて、砂場道具のスコップを握り締めていた。
「公園の砂場で遊んでいた時に、やんちゃな子にスコップ取られちゃって、妹が取り返してくれたの。本当、どっちが姉か分からないね?」
 眉を下げて戯けて笑い、自分の情けなさをごまかすことしか出来ない。
 年老いていく両親を思えば、必要なのは妹に決まっている。……だから、これで良かったんだよね。

「この男の子は誰ニャ?」
「……ああ。家が隣だった幼馴染の子で……。夫、かな?」
 別の写真に目を移せば、幼き頃の夫が白詰草で作った冠を私の頭に被せてくれ、また別の写真ではクレヨンで絵を描いている私の落書きを見つめている。
 その目は柔らかく穏やかな笑顔で、大人になった今も変わっていない。
 この表情が大好きだった。……私が病気になって、消えてしまったけど。
 互いの家でお泊まり会をして、三人並んで寝ていたり。保育園のお祭りで妹がボールすくいでボールに山盛り取って、夫と私がにこやかに拍手していたり。私が一足先に卒園するからと、夫と私が手を繋いで泣いているものまであった。
 ……一つ差だから、たった一年だけなのにね。でも子ども時代では、その一年は長く、重すぎる壁だった。

 学齢期に入った途端に写真の枚数は明らかに減り、三人で遊んでいるのはおそらく低学年ぐらいの三枚だけ。あとは登下校時の、同じアングルばかりだった。

 一つ年上の私に、同級生だった妹と夫。
 たった一年、されど一年。その距離感はどんどんと広がっていき、ここに飾られている写真の年数のように心の距離はどんどんと広がっていった。

 中央の壁に目を向けると、そこにはブカブカの学生服に身を包んだ中学生の男子に、セーラー服姿の女子が肩を並べて茜色の夕陽に照らされていて、小さな祠をバックに写っていた。
 ここは私たち三人の秘密基地で、祠を守るように一畳ほどの洞穴が掘られていて、雨が降った時の遊び場だった。
 今思うと何てバチ当たりなんだろうと申し訳なくなるけど、ここは成長していく私を守ってくれる温かな空間だった。
 学校で嫌なことがあったり、ダメな自分に落ち込んだ時、私はこの洞穴で膝を抱えていた。この日も一人でそうしていた……はずだった。

「この日ね、全てが嫌になって家に帰れなくなったの。でも、私が居なくなったと知った夫が、ここじゃないかと探しに来てくれた。嬉しかったな、ずっと関わりなかったのに探してくれて。ここに居ると分かってくれていて。……私、一人じゃないんだって」
 それを表すように額縁はまた増えていって、祠をバックにした写真が並んでいる。一見すると同じものだけど、私たちの制服は夏仕様のブラウスになり、また標準仕様に戻り、袖を折り曲げていた夫の学生服はいつも間にか腕がはみ出しており、私の身長なんて軽く越していた。
 こうして続いていく写真は僅かに変わっていき、私はセーラー服から紺のブレザーに変わっていた。別の学校の制服に身を包む私たちだったけど、夏服になって標準仕様に戻って。足元に桜の花びらが散る頃、私たちはまた同じ制服に身を包んでいた。
 夫が、私と同じ高校を受験し入学してきたからだった。

 バス通学だったから時間はいつも一緒で、自然と登下校を共にするようになっていた。
 並んでいく額縁には私服姿で写っていて、街の外れにある雑貨店や、電車を乗り継いで行ったショッピングモール、隣の県に立地されてある遊園地へと背景まで変わっていく。
 写真の私たちはどこまでも笑い合っていて、高校生同士の関わりというより、子どもが無邪気に遊んでいるようにしか見えなかった。

 高校卒業して絵について勉強したかった私は、実家から短大に通い、同じく地元の短大で介護の勉強をしていた夫とは、それからも隣人としてよく顔を合わせていた。
 その一方で。

 茶髪におしゃれショートヘアが似合う妹は目鼻立ちが良く、当時流行り服の一つだった体のラインをしっかり出す黒のニットがスタイルの良さを出している。
 その横には、変わらずの猫っ毛に柔らかな目元をした夫がいつの間にか大人の顔付きになっていて、ラフなTシャツに流行りの金属ネックレスが似合うようになっていた。
 そんな二人に反して、単調な黒髪を胸元まで伸ばしていて、妹みたいな美しさも華もない地味な私。
 妹が美容専門学校に通う為に上京することになったからと、三人で撮った写真だった。
 一人暮らしをしながら美容師の国家資格を取得した妹は、早く一人前になりたいからとお盆も正月も殆ど帰って来なかった。

 次に続く写真は、見慣れた内装に家具の配置。子どもの頃から馴染んでいた家。そこは夫の実家なのに、当たり前のように私が台所に立っている。
「結婚したの。まあ、そうは言っても、隣に引越ししただけなんだけどね。……おじさんは夫が社会人になってすぐ事故で、おばさんは私たちが結婚する一年前に病気で亡くなって、一人っ子だった夫が継いだからそのままね」
「ケーキないニャ」
 耳をペタンとさせた猫ちゃんは、尻尾までヘタリこんでしまった。
「ああ、ウエディングケーキのこと? ごめんね、ないんだ……」
 式もせず、結婚写真とかも撮らなかったから。でもね、一緒に居れたらそれで嬉しかったんだ。

 左の壁を見たら、そこには思わず口元が緩んでしまう写真。とにかくか弱くて、ふわふわと柔らかそうで、甘そうなミルクの香りがしてきそうで。
 結婚して三年、私たちは子宝に恵まれた。

「夫も私も、『どうしよう』の連続でね。娘が寝ないとか、泣き止まないとか、母乳を飲まないとか。今考えると赤ちゃんなんだから育児書通りに上手くいくわけないって分かるのにね」
 写真に写るのは夫がミルクを作って飲ませてくれている場面や、泣き喚く娘を一緒に泣きそうな顔をしながらあやす私の姿。
 こうやって、二人で乗り越えてきたんだったな。

 慌ただしい写真は少しずつ減っていき、娘が少しずつ物事を理解出来る二歳前。小さな手は私のお腹に当たっていてにこやかで、それを後ろから眺めている夫も同じ笑顔だった。
 第二子の妊娠が判明した。
「本当に嬉しくって、夫も喜んでくれて。娘に赤ちゃんが生まれるんだよって話すと、お世話するって張り切ってて。本当に幸せだったな」
 ……この時までは。

 それ以降の写真には夫の笑顔が消え、私は妊婦だというのにどんどんと痩せていった。
 第二子は帝王切開での出産となり、私はもう子どもが産めない体になった。
 生きる為だから仕方がない。何度自分にそう言い聞かせても、あの時の苦しみは今も残っていて、空っぽの下腹部に手を当てる。

 出産と同時に始まった、入院しての投薬治療。母乳は飲ませられるはずもなく絞って捨て、副作用で一日中嘔吐に苦しんだ。
 悪阻は我が子の為だと耐えれたけど、過酷な治療の先に何が待っているのか分からず、心は何度も折れた。
 母は私が苦しむ姿に病んでしまって体を壊し、父が世話をすることになった。
 そこで全てを担ってくれたのは、上京した妹だった。私の病気を聞いて、帰ってきてくれた。新たな仕事と両立させながらの二人の子どもの世話、母の世話をする父の手伝い、夫の精神的なケア。入退院を繰り返す私の世話までしてくれて、いっぱいいっぱいだっただろう。
 そんな生活になって二年。ようやく妹の負担を一つ減らせることが出来た。
 私が、人生の幕を下ろしたことによって。

「ふぅ……」
 瞼をゆっくり閉じると、焼きつくのは妹の姿。私の病気を理由に十年働き続けた美容室を辞めて田舎に戻ってきて、働きながら両親と私の子ども達の世話に追われている。
 妹は現在、三十一歳。いつか自分の美容室を持つことを夢に上京して、厳しい職種だと言われる美容業界で十年も修行を積んできたのに、私のせいで夢を叶えるどころではないだろう。

「ありがとう、猫ちゃん。私の思い出話を聞いてくれて……。喋れる動物が居て、こんな人生を表す写真があるということは、ここは死後の世界なんだよね?」

 その問いに返すようにキィィとドアが開く音がすれば、目の前には白いブラウスに黒のジョッキ、同色のズボン、ネクタイ姿の男性が姿勢良く佇んでいた。

吉永(よしなが)花梨(かりん)さん、初めまして。私は、この写真館の支配人です。三十二年と二ヶ月の人生、お疲れさまでした」
 手を前方で合わせたかと思えば、深々と頭を下げてくれた。
「……あ、ありがとうございます」
「幸せな人生、でしたか?」
 気にかけてくれる声が優しすぎて、私の胸はどんどんと熱いものが詰まっていく。

「はい、幸せ……でした。最期は家族に囲まれて、看取ってもらえて……」
 最後の写真はベッドで眠る私に、夫、娘二人、両親、妹、みんなに囲まれていた。
 力失くした私の手を握ってくれ、頭を撫でてくれ、声をかけ続けてくれた。
 その温かさも、優しさも、私の中で残っている。自分が死んだ時に泣いてくれる人がいてくれるなんて、人生で一番幸せなことだから。

「しかし、あなたには悔いがあるようですが……?」
 全てを見通した目はあまりにも真っ直ぐで、気付けば上げていた口角が下がり、力無く息が溢れていた。

「それは……。だってそれは、私にとっては幸せな終わり方だったけど、残された家族は? あの人はこれから一人親として責任を果たさないといけないし、椿(つばき)柚花(ゆずか)はまだ四歳と二歳で母親が必要な年頃。(みお)は責任感ある子だから自分の人生を投げ出し、これからも家族の為に生きてしまう。だから、それが……、苦しくって……」
 気付けば涙声になっていて、俯いた目からは熱いものが溢れてきて、強く目を閉じる。そんなこと言われても困るだろうと、しゃくり上げる息遣いを抑えて大きく息を吸って吐くも、喉の奥がどんどんと詰まっていく。

 さっき逸らしてしまった写真を直視すると、そこには俯き口元を抑えボロボロと泣くあの人に、そんな曲がった背中を摩ってくれている、細く長い手。その先には目を閉じ、唇を強く噛み締めている澪が写っていていた。
 私の前では絶対に涙を見せなかった、あの人。澪の前では泣いてたんだね。
 あの人を支えられるのは澪。これからを支えられるのも。でも、その形は……。

「それが、あなたの未練ですか?」
 あんな八つ当たりみたいな言い方してしまったのに、支配人さんはただ私の話を頷いて聞いてくれ、私の心に的確な言葉を返してくれる。
 だから私は、小さく頷くことが出来たのだろう。

「ここに収められているのは、あなたの記憶を現像化させた、『記憶写真』と呼ばれるものです。飾ってあるのは、あなたの未練に関連するものばかり。……ですから、過去に戻り記憶写真を修正する力をあなたに授けます」
「……過去に、戻れる……?」
「この記憶写真には不思議な力がありましてね、現世に矛盾がなきように配慮されながら、未来が上書きされます」
「えっ! あ、じゃあ、澪と、あの人を……」
 初めの威勢と反して、声はどんどん張りがなくなり萎んでしまう。
 この後に及んで、私は。
 閉じてしまった唇を噛めば、苦い血の味がした。

「ただ、過去を修正したことにより、どのような写真に変わるのか未知数です。場合によっては、あなたが願われた内容と相反する未来が訪れる可能性があります。ご説明、させてもらってよろしいですか?」
「お願い、します」
 震えた私の声に反応してくれたのか、猫ちゃんは私の足元まで来て、ペタンと座り込む。

「一つ目。記憶写真の中から、あなたが変えたい写真を一枚選んでもらいます。二つ目。誕生から、人生をやり直してもらいます」
「えっ、修正したい場面じゃないのですか?」
「写真は、あくまでその瞬間を切り取ったものです。それを見て過去の感情を思い起こすことが出来ても、全てが鮮明に蘇るものではありません。大人になった花梨さんには今現在の価値観もあるでしょうし、過去の自分を理解してあげられないのも当然だと思われます。だからこそ過去を振り返り、今どうしてこのような未来に繋がったのかそれを知る必要があります」
 これほどしっかりとした意思がある言葉なのに、何も受け止めることが出来ず、スルスルと私の前を通り抜けてしまう。
 どうして私には、澪のような理解力がないのだろう?

「子供の頃に見えた景色と、大人になってから見た景色は違うって話しニャ。だから過去の自分と向き合い、人生の修正するかを決めて欲しいニャア」
「過去の私……、と」
 並べられている記憶写真を巡ると、年頃を迎えた私は俯いてばかりで、辛かったあの頃を彷彿させてくる。
 まあ、死んでしまった今からすると、つまらないことだったんだけどね。
 ……いや、待って。これが見る景色が違うということ?

「では、三つ目の説明といきましょうか。過去を変えられるのは、記憶写真に写し出されている場面のみです。過去修正はこの未練に関してだけですので、それをお間違いないようにお願いします。続いて四つ目です。記憶写真を修正出来るのは、五枚までとなります。ですから慎重に吟味なさってください。五つ目。過去から未来は、現世と同じく一方通行となっております。つまり過去の修正が上手くいかなくても、もう一度時間を戻してやり直すことは出来ません。ですから、過去修正は慎重に。……それで、次は約束ごとの話になっていきますが、その前に。あなたの願いを、話してもらえませんか?」
 それを言葉にしたら、おそらくもう戻れないだろう。だけどこれは、ずっと願っていたことで。
 私はこの場所に導かれて、過去を変える機会をもらえた。だから。

「い、妹の澪と、夫の優太(ゆうた)が……、結婚する未来に、変えたい……です」
 私はようやく、決められた。三十二年間生きてきた人生を、捨てる覚悟を。

「……澪ちゃんの気持ち、気づいていたのかニャ?」
 そう呟いた猫ちゃんの視線の先には一枚の写真があって、布団で寝ている私に寄り添ってくれている夫に、その背中を見つめる端に写った澪の姿。
 その目があまりにも遠くて、切なくて。

「結婚報告した時に……ね。両親想いの澪が上京してからあまり実家に帰ってこなかったのは、これだったんだって。本当、無神経だった自分に呆れた……。澪はこれからも夫に気持ちを伝えず、義妹の立場を貫くと思うの。だから……。でも一つ、心配なことがあって。子どもたちの、存在が残るか。それはだけは絶対に、守りたくて……」
「ご心配無用です。記憶写真が一番の最善法を取り、上手く修正してくれます。……ただ、おそらくですが、澪さんと優太さんの結婚が確定した暁には、長女の椿さん、次女の柚花さんの母親は澪さんとなり、花梨さんの実子でなくなると思われます」

 乾いた目を閉じまた開くと、目の間には保育器に入った乳児の姿。柚花は椿の誕生時の半分以下の小ささで、口には人工呼吸器が固定され、体には多くの線が繋がっていた。
 私のせいで三ヶ月も早く生まれた柚花は自力で生きるには弱く、人工呼吸器と鼻から胃に繋がるチューブよりミルクを飲み、命を繋いでもらった。
 幸い、低体重児として生まれたことによる後遺症は出ず、発育も追い付くと主治医の先生に言われているが、そもそも私が母親じゃなかったら、リスクを負わせることもなかった。

 その横に貼られている写真には、柚花が無事に退院し、私の治療が一旦終わり自宅療養になった日に、澪が率先して撮ってくれた一枚。
 家のリビングソファで家族四人で座って、夫が椿を抱き上げ、私が柚花を縦抱きしている写真。
 これだけは実際のアルバムにもあり、私はスマホの待ち受け画面にしてずっとお守りとして持っていた。
 ……ここから私が消えて、おそらく澪が家族写真に写ることになる。

『おかあさん』
 私を母として認め、無性の愛をくれた娘たち。その関係も、なくなってしまうよね。

 だけど別の写真を眺めると食卓を囲む四人の姿があって、新たな家族が出来たようだった。

「……続きの、説明をお願いします」
 どうして死んでまで、こんな思いをしなければならないのだろう。……心の痛みなんて、もう必要ないのに。
 また八つ当たりみたいな感情が湧き出て、スウッと空気を吸い込むことしか出来なかった。

「約束して欲しいことが二つほどあります。一つ、過去の人物に寿命について話してはいけません。二つ、死の運命を変えることは自然の摂理に反する為、硬く禁じております。特に花梨さんは、進行性のご病気でしたので……」

 ……あと一年、早く病が見つかっていたら。あと半年、治療を早く始めていたら。おそらく私は可愛い盛りの娘を残して、この場に立っていることもなかっただろう。
 でも、その行動を取らなかったのは私。
 でも、その選択をしなかったのは私。
 後悔なんかしていない。……後悔、なんか。

 やはり目を向けてしまうのは夫が流す涙で、その理由が分かっているからこそ、私の胸はより締め付けられていく。

「重ねて申し上げますが、それらの約束を破ると過去修正の旅は終わり、魂は強制的に天界に送られていきます。どうか、くれぐれもお忘れなく」
「……はい」
 たった一つの失敗で全てが終わってしまう。本当に、人生みたい。

「最後に、これは一番重要なお話となっております。過去を修正するということは、当然ながら現世に歪みが生じることであり、その負担の全ては過去を変えた者にいくと決まっております。少々でしたら問題ありませんが、あまり大きく歴史を変えてしまうと魂に負担がかかり、極限を越えると魂は砕け散り、生まれ変わることが出来なくなります。……魂は一つ、あなたのこれからの人生は多数。それを踏まえて、新たな人生を生き直すのも選択肢の一つです。時間はあります。ゆっくり考えられたらどうでしょうか?」
「……いえ、考え直す時間など必要などありません。どうか、よろしくお願いします」
 頭を深く下げたのは、懇願の意味ともう一つ。歪んでしまいそうな顔を見られないように、だった。
「確かに、承りました。では準備をしてまいります」
 一礼をした支配人さんにはドアを開け、そっと部屋から出て行った。

「……ふぅ」
 戻れない。もう引き返せない。
 変わってしまうであろう記憶写真をただぼんやりと眺めるとチリンチリンと優しい音がして、振り向くとそこには背筋を伸ばした猫ちゃんがこちらを見据えていた。

「アタイは過去の世界を旅する魂の案内人、クロだニャ。花梨と共に行動し、過去修正をお手伝いする役目だニャ」
「クロ……ちゃん……?」
 心に沁みてくる、温かく懐かしい感じ。でもそんなはずはないよね? だって黒猫と面識なんてなかったはずだから。
「案内猫として問うニャ。花梨はどの記憶写真を修正するニャ?
「あ、そうだ。考えないとね。……五枚、だから……」
 しっかり考えないと。時間は一度しか戻せないのだから。

「やっぱり、これになるよね……」
 記憶写真を何度も巡り、行き着いた答えはやはり一つだった。
 祠前で写っている、制服姿の夫と私。
 クラスに馴染めなかった頃だから、時期をよく覚えてる。中学二年生の初夏で、柔らかな風に若葉が揺れて、茜色の夕陽が温かく照らしてくれて、隣にはあの人がいてくれて。
 そんな、宝物のような思い出。

 だけど、この日。夫と再会しなければ私たちの関係が戻ることがなかった。
 そうなれば元々仲が良かった同級生の澪と夫が、同じ時間を共にするようになっていただろう。
 だから私は、この記憶写真を修正する。

 戻ってきた支配人さんにより案内されたのは、部屋の真ん中である撮影場所。促されるまま、設備された赤い椅子に腰を掛ける。

「このカメラのフラッシュにより、花梨さんを過去の世界へお連れします」
 目の前には三脚で固定された支配人さんの顔より大きなカメラ機材で、本格的なものだと素人の私にも分かる。
 椅子にそっと体を預けると、柔らかく座り心地が良いのにも関わらず、どうにも体が浮いたように足底が落ち着いてくれない。

「では、行ってらっしゃいませ。良い旅を──」

 パシャ。
 全身を包み込むような大きく眩いフラッシュの光に、まるで取り込まれていくように意識が吸い込まれていく。
 頭の中で巡る、私の人生。それはどんどんと古い記憶へと戻っていく。

 こうして始まった、過去修正を目指した手探りの模索。未練を抱えた、哀れな魂の彷徨い。
 そして三十二年間の人生を否定する、虚無の旅が。