路地裏の静寂が、私たちの吐息だけで塗り潰されていく。
夕闇のなかで、朔夜くんの瞳だけが異常なほどの光を宿していた。
彼は私の背中に回した腕をさらに強く締め上げ、まるで私を自分の体の一部として同化させようとしているかのようだった。
「……ねえ、つむぎ。この世界が、どれほど脆いか見せてあげるよ」
彼はそう言うと、私の手を引き、路地裏の片隅に置かれた古い姿見の前へと連れて行った。
不法投棄されたものだろうか、縁が欠けたその鏡には、怯える私と、私を背後から抱きしめる彼が映っている。
「よく見ていて」
朔夜くんが、空いている方の手で鏡の表面に軽く触れた。
その瞬間、私の背筋に、今まで感じたことのない異様な寒気が走った。
鏡に映る私たちの姿が、まるで水面に投げ込まれた石のように、ゆらりと歪んだのだ。
私の制服のリボンの色が、一瞬だけ赤から青へ変わり、背後のビルの壁に貼られたポスターの文字が、見たこともない言語に書き換わる.
そして次の瞬間には、何事もなかったかのように元の景色に戻っていた。
「……今、何が起きたの?」
「世界の『同期』がズレ始めてるんだ。100回分の記憶が、この場所に、この瞬間に重なり合おうとして、弾き出されている。……僕が何度もやり直したせいで、この世界はもう、一つの正解を維持できなくなっているんだよ」
彼は鏡越しに私を見つめ、その不気味なほど整った唇を歪めた。
「ねえ、つむぎ。ある世界での君は、僕に告白される前に事故に遭った。別の世界では、僕たちは付き合えたけれど、花火大会の帰りに君が倒れた。また別の世界では……君は僕のことなんて、大嫌いだった」
彼の言葉が、ナイフのように私の胸を抉る。
私にとっては「今」がすべてなのに、彼にとっては、無数の「私」が重なり合った積層。
その重みに、彼はたった一人で耐えてきたのだ。
「僕が愛しているのは、どの世界の君だと思う? ……答えはね、全部だよ。君が僕を罵倒した時の冷たい目も、君が死ぬ間際に僕の名前を呼んだ時の震える声も。……そのすべてを繋ぎ止めておきたくて、僕は世界を壊した」
彼は鏡から手を離し、私を正面から抱き直した。
彼の鼓動が、驚くほど速く、激しく、私の胸に伝わってくる。
「つむぎ。君が今感じている既視感は、過去の君たちが僕に遺してくれた『遺言』なんだ。……あの子たちが、僕に、君を託したんだよ。だから、君だけは、……この100回目の君だけは、僕が最後まで守り抜かなきゃいけない」
「朔夜くん……もういいよ、もう、十分だよ……」
私は彼の胸に顔を埋め、泣きじゃくった。
彼が守ろうとしているのは私なのか、それとも、100回分の絶望の果てに見つけた自分の「正解」なのか。
もう、どちらでも良かった。
この路地裏から一歩外に出れば、また「完璧な彼氏」を演じる彼がいて、私は「幸せな彼女」を演じなければならない。
この歪んだ愛の檻から出る鍵は、もうどこにも落ちていないのだ。
「……帰ろう、つむぎ。冷えてきた」
彼は私の涙を親指で丁寧に拭い、自分のマフラーを私の首に巻きつけた。
彼の体温が残るマフラーは、心地よい暖かさと、逃げられない束縛の感触が混ざり合っていた。
路地を抜けて大通りに出ると、街は相変わらずの賑わいを見せていた。
人々が笑い、車が走り、信号機が機械的に色を変える。
けれど私には、そのすべてが、朔夜くんが作った精密なジオラマのようにしか見えなかった。
「……ねえ、朔夜くん」
「なに?」
「明日の朝、私がもし『おはよう』って言わなかったら……また、やり直すの?」
朔夜くんは足を止めず、私の手を強く握ったまま、前を見据えて答えた。
「言わせるよ。何度でも、何千回でも。君が僕に笑いかけるまで、僕は世界を止めない。……それが、僕が君に誓った、唯一の愛の形だから」
夜風が、私たちの間を通り抜けていく。
繋がれた手は、離れることを許されないほど強く、永遠に続く呪いのように絡み合っていた。
夕闇のなかで、朔夜くんの瞳だけが異常なほどの光を宿していた。
彼は私の背中に回した腕をさらに強く締め上げ、まるで私を自分の体の一部として同化させようとしているかのようだった。
「……ねえ、つむぎ。この世界が、どれほど脆いか見せてあげるよ」
彼はそう言うと、私の手を引き、路地裏の片隅に置かれた古い姿見の前へと連れて行った。
不法投棄されたものだろうか、縁が欠けたその鏡には、怯える私と、私を背後から抱きしめる彼が映っている。
「よく見ていて」
朔夜くんが、空いている方の手で鏡の表面に軽く触れた。
その瞬間、私の背筋に、今まで感じたことのない異様な寒気が走った。
鏡に映る私たちの姿が、まるで水面に投げ込まれた石のように、ゆらりと歪んだのだ。
私の制服のリボンの色が、一瞬だけ赤から青へ変わり、背後のビルの壁に貼られたポスターの文字が、見たこともない言語に書き換わる.
そして次の瞬間には、何事もなかったかのように元の景色に戻っていた。
「……今、何が起きたの?」
「世界の『同期』がズレ始めてるんだ。100回分の記憶が、この場所に、この瞬間に重なり合おうとして、弾き出されている。……僕が何度もやり直したせいで、この世界はもう、一つの正解を維持できなくなっているんだよ」
彼は鏡越しに私を見つめ、その不気味なほど整った唇を歪めた。
「ねえ、つむぎ。ある世界での君は、僕に告白される前に事故に遭った。別の世界では、僕たちは付き合えたけれど、花火大会の帰りに君が倒れた。また別の世界では……君は僕のことなんて、大嫌いだった」
彼の言葉が、ナイフのように私の胸を抉る。
私にとっては「今」がすべてなのに、彼にとっては、無数の「私」が重なり合った積層。
その重みに、彼はたった一人で耐えてきたのだ。
「僕が愛しているのは、どの世界の君だと思う? ……答えはね、全部だよ。君が僕を罵倒した時の冷たい目も、君が死ぬ間際に僕の名前を呼んだ時の震える声も。……そのすべてを繋ぎ止めておきたくて、僕は世界を壊した」
彼は鏡から手を離し、私を正面から抱き直した。
彼の鼓動が、驚くほど速く、激しく、私の胸に伝わってくる。
「つむぎ。君が今感じている既視感は、過去の君たちが僕に遺してくれた『遺言』なんだ。……あの子たちが、僕に、君を託したんだよ。だから、君だけは、……この100回目の君だけは、僕が最後まで守り抜かなきゃいけない」
「朔夜くん……もういいよ、もう、十分だよ……」
私は彼の胸に顔を埋め、泣きじゃくった。
彼が守ろうとしているのは私なのか、それとも、100回分の絶望の果てに見つけた自分の「正解」なのか。
もう、どちらでも良かった。
この路地裏から一歩外に出れば、また「完璧な彼氏」を演じる彼がいて、私は「幸せな彼女」を演じなければならない。
この歪んだ愛の檻から出る鍵は、もうどこにも落ちていないのだ。
「……帰ろう、つむぎ。冷えてきた」
彼は私の涙を親指で丁寧に拭い、自分のマフラーを私の首に巻きつけた。
彼の体温が残るマフラーは、心地よい暖かさと、逃げられない束縛の感触が混ざり合っていた。
路地を抜けて大通りに出ると、街は相変わらずの賑わいを見せていた。
人々が笑い、車が走り、信号機が機械的に色を変える。
けれど私には、そのすべてが、朔夜くんが作った精密なジオラマのようにしか見えなかった。
「……ねえ、朔夜くん」
「なに?」
「明日の朝、私がもし『おはよう』って言わなかったら……また、やり直すの?」
朔夜くんは足を止めず、私の手を強く握ったまま、前を見据えて答えた。
「言わせるよ。何度でも、何千回でも。君が僕に笑いかけるまで、僕は世界を止めない。……それが、僕が君に誓った、唯一の愛の形だから」
夜風が、私たちの間を通り抜けていく。
繋がれた手は、離れることを許されないほど強く、永遠に続く呪いのように絡み合っていた。



