100回目の『初恋』、君が知らない甘い嘘

プラネタリウムを出ると、外はすっかり濃紺の夜に包まれていた。
駅ビルの最上階へと向かうエレベーターの中、鏡張りの壁に映る二人の姿は、どこからどう見てもお似合いの恋人同士だった。

通されたのは、夜景を独り占めできる窓際の特等席。


目の前には宝石をぶちまけたような街の灯りが広がり、テーブルの上にはキャンドルの炎が静かに揺れている。

「わあ……すごい。予約、大変だったんじゃない?」

「つむぎの喜ぶ顔が見たかったから。それだけで、僕には十分すぎる報酬だよ」

朔夜くんはそう言って、椅子を引いて私をエスコートしてくれる。
その一挙手一投足に迷いがなく、まるで見えない台本があるかのように完璧だった。

運ばれてくる料理は、驚くほど私の好みに合致していた。


前菜のサーモンは私が一番好きなカルパッチョ仕立てで、添えられたハーブの種類まで完璧。
メインの肉料理に添えられた温野菜からは、私が苦手なパプリカだけが綺麗に除かれている。

「……ねえ、朔夜くん。どうして、私がパプリカ苦手だって知ってるの? まだ教えたこと、なかったはずなのに」

私がフォークを止めて尋ねると、彼はワイングラスを揺らし、琥珀色の液体越しに私を見つめた。

「……言っただろ? つむぎのことなら、なんでもわかるって。君が眉を寄せる瞬間も、一口食べて幸せそうに目を細める瞬間も……全部、僕の頭の中に焼き付いているんだ」

彼の声は、熱を帯びた蜜のように甘く、私の鼓動を狂わせる。
けれど、その瞳の奥には、反射する夜景の光さえも吸い込んでしまうような、深い「暗闇」が潜んでいた。

「……なんだか、時々怖くなるよ。朔夜くんは、私の知らない私まで知っているみたいで。まるでもう一度、この時間をやり直しているみたい」

冗談のつもりで言った言葉だった。


けれど、その瞬間。


カツン、と、彼がグラスを置く音が静まり返った席に響いた。

朔夜くんの表情から、一瞬だけ温度が消える。

「……やり直す、か。もし本当にそうだとしたら、つむぎはどう思う?」

「え……?」

「もし僕が、君を笑顔にするためだけに、何度も、何千回も、同じ時間を繰り返しているとしたら。……君は、僕を愛してくれる?」

彼の問いかけは、あまりに切実で、冗談として笑い飛ばすことを許さない重圧があった。
私は言葉に詰まり、彼の手元を見つめる。 その時だった。


彼がナプキンで口元を拭おうとした拍子に、ジャケットの内ポケットから、一枚の小さな紙片が滑り落ちた。


ひらひらと舞い、私の足元に落ちたそれを、私は無意識に拾い上げた。

「あ、落としたよ、朔夜く……」

差し出そうとした私の指先が、そこに記された文字を捉えた瞬間、凍りついた。

『100回目:成功。レストランでの会話、誤差なし。事故回避継続中。』

心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。


100回目? 誤差なし? 事故回避? まるで実験のレポートか何かのような、無機質な言葉の羅列。

「……つむぎ。それを、返してくれないかな」

低く、けれど逃げ場を奪うような声。


見上げると、そこにはさっきまでの優しい彼はいなかった。


眉間に深い皺を寄せ、獲物を逃さない獣のような、剥き出しの「執着」を瞳に宿した朔夜くんが、じっと私を見つめていた。

「朔夜くん、これ、……どういう意味? 100回目って、何?」

私が震える声で問うと、彼はゆっくりと立ち上がり、テーブルを回って私の隣に来た。


逃げようとした私の肩を、彼は折れそうなほど強く抱き寄せる。

「……返して。それは、僕が君を守るための、大切な『記録』なんだ」

「……っ、痛いよ、朔夜くん」

「ごめん。……でも、行かせないよ。ようやく、ここまで辿り着いたんだ。あんな思いは、もう二度とごめんだ」

彼は私の手から紙を奪い取ると、それを指先で粉々に引き裂いた。


散らばる白い破片。それは、彼が築き上げてきた「完璧な今日」が、ひび割れ始めた合図のようだった。

「……つむぎ。君は何も知らなくていい。ただ、僕が用意したこの幸福の中で、笑っていればいいんだ」

彼は私の耳たぶを甘噛みし、そのまま首筋に顔を埋めた。


彼の体温は信じられないほど熱いのに、私の背筋には、冷たい戦慄が走り続けていた。

夜景の光が、二人の影を残酷なほど鮮やかに窓に映し出している。


私はこの時、初めて気づいた。


目の前にいるこの人は、私の大好きな恋人であり、同時に、私を「運命」という籠に閉じ込めようとしている、孤独な観測者なのだと。