100回目の『初恋』、君が知らない甘い嘘

重なり合った唇が離れたとき、世界はもはや「箱庭」でも「物語」でもなくなっていた。


そこにあるのは、ただどこまでも深く、どこまでも静かな、等身大の夜だった。

「……行こうか、紬希」

朔夜が差し出した手。


その掌は、かつての傲慢な支配者のものではなく、ただ一人の少女の隣を歩きたいと願う、一人の少年のものとしてそこにあった。
紬希はその手を、指を絡めるようにして強く握り返した。

「うん。……ねえ、朔夜くん。今、何時か分かる?」

「……時計は持っていないよ。でも、きっともうすぐ、僕たちが知らなかった『本当の明日』が来る時間だ」

二人は、鉄の扉を閉め、屋上を後にした。


校舎の階段を下りる足音が、静まり返った廊下に心地よく響く。


一段、また一段と下りるたびに、100回分の重い記憶が、過去という名の深い地層へと沈んでいくのを感じた。


それは忘却ではない。


すべてを飲み込んだ上での、健やかな決別だった。


校門を抜けると、そこには夜の街が広がっていた。


ヘッドライトの光、家々の窓から漏れる生活の灯、そして、どこかで誰かが笑っている気配。

「……見て、朔夜くん。踏切の音が聞こえる」

商店街へ続く道。踏切の警報機がカンカンと鳴り、遮断機が下りる。


かつての朔夜にとって、それは紬希を死へと追いやる「死神の鐘」だった。
けれど今、二人の前を通り過ぎていく電車の窓には、家路を急ぐ普通の人々の、平凡で尊い日常が映っていた。

「……怖くないんだね。もう、あの音が」

朔夜が呟いた。
彼は、通り過ぎる電車の風を、逃げることなく真っ向から受け止めていた。

「ええ。……あれは、誰かが誰かの待つ場所に帰るための合図だもん。……ねえ、朔夜くん。今度、あの電車に乗って、どこか遠くへ行こうよ。あなたがまだ見たことのない、綺麗な景色を、私がたくさん教えてあげる」

「……ああ。約束するよ。君が行きたい場所なら、地の果てまで付き合う」

商店街のアーケードを抜けると、以前の記憶にはない新しい公園があった。


ベンチに座り、二人はしばらく、何も言わずに夜空を見上げた。


街の光に紛れて、星はまばらにしか見えない。
けれど、その不完全さが、今の二人には何よりも美しく感じられた。


「……朔夜くん」

紬希が、彼の肩に頭を預けながら、静かに口を開いた。

「100回、あなたは私に『愛してる』って言ってくれたよね。……でも、今の私は、一度もあなたに返せてない」

朔夜は、繋いだ手に少しだけ力を込めた。

「いいんだ。言葉がなくても、君がここにいてくれるだけで、僕は……」

「……ううん。ちゃんと言わせて」

紬希は体を起こし、彼の瞳をまっすぐに見つめた。


その瞳には、かつて彼が独占しようとした「作られた輝き」ではなく、自らの意志で彼を選んだ、強く、澄んだ光が宿っていた。

「朔夜くん。……100回、私を諦めないでいてくれて、ありがとう。……100回、私を愛してくれて、ありがとう」

彼女は、少しだけ背伸びをして、彼の耳元で、この世界で一番優しい声で囁いた。

「……大好きだよ、朔夜。……101回目のこの人生を、あなたに捧げるわ。……今度こそ、一緒に、おじいちゃんとおばあちゃんになるまで、生きていこうね」

それは、神様も運命も介入できない、ただ二人の人間としての、真実の契約だった。

朔夜の目から、最後の一滴の涙がこぼれ落ちた。


それは、彼を縛り続けてきた100回分の呪縛が、完全に解けた証だった。

「……ああ。……僕も、愛している。……昨日よりも、さっきよりも。……そして明日、目が覚めたときには、今よりもっと、君を愛しているよ」

夜風が、二人の周りを祝福するように吹き抜けた。


どこかで、新しい一日を告げる準備が始まる。


物語のページは、ここで一度閉じられる。


けれど、彼らの人生は、ここから白紙のページに新しく綴られていく。


そこにはもう、特殊な能力も、劇的な悲劇も必要ない。


明日、寝坊して二人で駅まで走ること。


コンビニの新作スイーツを半分こにすること。


夕暮れの帰り道、影が重なるのを眺めて笑い合うこと。

そんな、ありふれた、けれど何物にも代えがたい「予定外の幸せ」が、彼らの101回目を彩っていく。

空が、かすかに白み始めた。


世界は、今日もまた、誰の演出もなしに、ただ美しく回っていた。


東の地平線から、新しい太陽が顔を出す。


二人は、繋いだ手を離さないまま、朝焼けに染まる街へと歩き出した。


その背中に、かつての悲劇の面影はもう、どこにもなかった。


――100回の絶望を越えて、二人はようやく、「普通」という名の奇跡に辿り着いた。

(完)