100回目の『初恋』、君が知らない甘い嘘

屋上の冷たい床に膝をつく朔夜を、紬希は包み込むように抱きしめた。


伝わってくる体温は、かつての「白の世界」で感じた儚い揺らぎではなく、確かにこの世界で息づいている、力強く、生々しい熱だった。

「……信じられない。本当に、君が僕の腕の中にいる」

朔夜は紬希の肩に顔を埋め、子供のように肩を震わせた。


かつて彼は、一分一秒を「管理」し、彼女の死を避けるためにすべてを計算し尽くしていた。


けれど、今の彼には、目の前の少女が次にどんな言葉を口にするのかさえ分からない。


その「分からない」ということが、これほどまでに愛おしく、救いになるのだと、彼は初めて知った。

「ねえ、朔夜くん。……あなた、今の世界ではどんな生活をしているの?」

紬希は、彼の背中を優しく撫でながら問いかけた。


二人の記憶は、かつての「概念」としての時間を共有しているけれど、肉体としては、この新しい世界で別々の人生を歩んできたはずなのだ。

「……僕は、この街の少し外れにある古いアパートで、一人で暮らしているよ。……大学では物理学を専攻している。この世界の『理』がどう成り立っているのか、今度は壊すためじゃなく、理解するためにね」

彼は少しだけ顔を上げ、自嘲気味に笑った。


「君の姿をずっと探していた。……でも、無理に見つけようとはしなかった。僕たちがかつて世界そのものになって祈ったように、いつか必ず、運命が交差する瞬間が来ると信じていたから。……でも、毎日怖かったよ。もし、君が僕を忘れて、別の誰かと笑っていたら……って」

「……馬鹿ね。忘れるわけないじゃない」

紬希は、彼の頬を両手で挟み込み、自分の方へ向かせた。

「私だって、ずっと探してた。……街を歩いていて、あなたに似た背中を見るたびに心臓が跳ね上がって。……雨が降るたびに、あの壊れたビニール傘を思い出して。……私は、この世界であなたに再会するために、今日まで生きてきたんだよ」

紬希の言葉に、朔夜の瞳から再び涙が溢れた。

「……君は、100回分の僕の醜さを知っているのに。君の自由を奪い、君を壊し、独占しようとした……あんな僕を、どうして許せるんだ?」

「許すとか、許さないとかじゃないよ。……朔夜くん、あの時のあなたは、私を愛することに一生懸命すぎて、自分を愛することを忘れちゃってただけでしょ?」

彼女は、自分の胸元に下げていた小さなペンダントを彼に見せた。


そこには、かつて壊れたはずの懐中時計の「歯車」が、一つだけ、お守りのように埋め込まれていた。

「私ね、この世界で目覚めたとき、何も持ってなかった。家族も、友達も、以前とは少しずつ違う『新しい人』だった。……でも、心の中には、あなたがいた。あなたが私を想って泣いてくれた100回分の時間が、私の宝物だったの。……だから、今のあなたがどんなに不器用でも、どんなに臆病でも、私は全部ひっくるめて、あなたのことが大好きなんだよ」

夕闇が深まり、街の灯りが一つ、また一つと灯り始める。


それは、かつての朔夜がコントロールしていた「偽物の光」ではなく、名もなき人々がそれぞれの生活を営むための、温かな希望の光だった。

「……紬希。……僕に、もう一度だけチャンスをくれるかな」

朔夜は、彼女の手を握りしめ、その指先に誓いを立てるように唇を寄せた。

「今度は、時間を止めたりしない。……君が年老いていくのを、僕が隣で見守る。君が僕より先に逝ってしまうかもしれない未来も、もう恐れない。……ただ、明日という日が来ることを、君と一緒に喜びたいんだ」

「……ええ。……明日も、明後日も、10年後も。……今度は、早送りもお休みもなしで、ゆっくり進んでいこうね」

二人は、どちらからともなく顔を近づけた。


屋上の風が、二人の髪を一つに混ぜ合わせる。


触れ合う直前、紬希は悪戯っぽく微笑んで、耳元で囁いた。

「……ねえ、さっくん。今度デートするときは、絶対、私の好きなアイスクリーム屋さんを予約しちゃダメだよ。……偶然見つけて、二人で『ここ、美味しそうだね』って言いながら入るのが、私の夢なんだから」

「……ああ。……分かってるよ。……最高の『予定外』を、君に贈るよ」

重なり合った唇からは、もうノイズの味もしなかった。


ただ、春の夜の冷たさと、それを溶かすような、あまりにも甘い熱だけがあった。