100回目の『初恋』、君が知らない甘い嘘

屋上の鉄扉が開いたその瞬間、世界から一切の音が消えた。


いや、音が消えたのではない。すべての音が、彼女――紬希の鼓動と同期したのだ。

夕焼けの空は、燃えるような朱色から、深い群青へと溶け落ちる直前の、もっとも切ない色をしていた。


かつて、あの白の世界で自分たちが願った「色」が、今、目の前の現実に広がっている。

「……あ……」

紬希の唇から、こぼれ落ちたのは言葉にならない吐息だった。


目の前に立つ少年。 風に揺れる制服。


少し長めの前髪。


そして、100回の地獄を見てきたとは思えないほど、今はただ純粋に、自分だけを見つめている、あの瞳。

「……探したよ。ずっと、ずっと」

少年の声が響いた。


その声が空気に触れた瞬間、紬希の脳裏に、堰を切ったように映像が溢れ出した。


それは、彼女自身の記憶ではない。


第8章で、彼と一つに溶け合った時に共有した、朔夜としての100回分の絶望の感触。


彼が一人で、雨の歩道に立ち尽くしていたこと。


彼が、彼女の遺体を抱きしめて、喉が焼けるほど泣いた夜のこと。


彼が、自分の存在を消してでも彼女を救おうと決意した、あの孤独な決断。

「朔夜……くん……」

名前を呼んだ。 その瞬間、少年の肩がびくりと震えた。


この新しい世界では、彼は「朔夜」という名ではないかもしれない。


彼女もまた「紬希」ではないかもしれない。


けれど、魂に刻まれた名前は、どんな世界の法(ルール)も書き換えることはできなかった。

「……覚えているのか。僕のことを。あの、狂った100回の日々を」

少年――朔夜は、ふらふらと一歩、彼女に近づいた。


彼の手は震えていた。


かつて時間を支配し、神のように振る舞っていた傲慢な男の面影はどこにもない。


そこにいるのは、ただ、愛する人に拒絶されることを恐れる、臆病な一人の少年だった。

「忘れるわけないよ。……あなたが私にくれた、あの冷たいコーヒーの味も。図書室の窓から見た、不自然な紫色の空も。……あなたが、私を救うために捨てた、あなたの全部を」

紬希の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。


それは、今の彼女としての涙であり、同時に、これまでの100回の世界で一度も泣くことさえ許されずに消えていった、無数の「私」の涙でもあった。

「……ごめんね。ごめんね、朔夜くん。私を助けるために、あんなに独りぼっちにさせて」

「違う……謝らないでくれ。僕が勝手にやったことだ。僕が、君を失うのが怖くて、世界をめちゃくちゃにしたんだ」

朔夜は、彼女の目の前で膝をつくようにして、その場に崩れ落ちそうになった。


彼は、この再会を何十年も、あるいは概念としての気の遠くなるような時間の中で、待ち続けていたのだ。

「……でも、君は今、生きている。心臓が動いて、温かい涙を流して、こうして僕を呼んでくれている。……それだけで、僕の100回は、全部報われたんだ」

彼は、震える手で地面を掴んだ。


この屋上の床は、かつての崩壊する世界のようにノイズは走らない。


硬くて、冷たくて、確かな現実。


二人が、ようやく手に入れた「逃げなくてもいい場所」。


紬希は、膝をつく彼の前にしゃがみ込み、その細い指をそっと包み込んだ。

「……ううん、まだ終わってないよ。朔夜くん」

彼女は、彼の顔を覗き込み、精一杯の笑顔を作った。

「101回目のお話は、まだ始まったばかりだもん。……今度は、あなたが私を救うんじゃない。二人で、一緒に迷子になるの」

その言葉が、屋上の静寂に溶けていく。


空には、一番星が静かに瞬き始めていた。