100回目の『初恋』、君が知らない甘い嘘

私という意識は、もう明確な境界を持っていなかった。


かつて「紬希」と呼ばれた私は、今では新しく芽吹いた森の葉を揺らす風であり、透明な川底で光る小石を撫でる水。


そして、そのすぐ隣には、同じように世界の一部となった「朔夜」の気配が、熱のような揺らぎとなって寄り添っている。

ここは、私たちが100回分の絶望を注ぎ込み、そして最後に「愛」で塗り替えた、再生の世界。


世界には再び、生命の営みが戻っていた。


人々は、かつて世界が一度崩壊したことなど露(つゆ)知らず、今日という日を懸命に生きている。 けれど、この世界のあちこちには、私たちの「執念」が遺した、目に見えない綻びが宝石のように散らばっていた。

例えば、誰もいない放課後の図書室。


窓から差し込む夕陽が、特定の机だけを特別に照らすとき。
そこに座った生徒は、なぜか理由のない懐かしさに襲われ、不意に涙をこぼす。


例えば、雨の日の駅のホーム。


傘を忘れて立ち尽くす少女の隣に、ふわりと温かい風が吹くとき。
少女は、誰かに守られているような安堵感に包まれ、微笑んで雨の中を歩き出す。

「……ねえ、朔夜。私たちの『想い』は、ちゃんと届いているみたいね」

言葉にはならない。
けれど、世界のあちこちで生まれる小さな幸せの波紋が、私という意識を優しく震わせる。

『ああ。……僕が100回かけてやり直したかったのは、僕自身が君を救うことじゃなかったんだ。君が、どんな運命の中でも、誰かに愛されていると信じられる世界を作ることだったんだね』

彼の意識は、かつての刺々しさを失い、深い湖のような静けさを湛えていた。


彼はもう、時間を操る神ではない。


ただ、この世界を愛おしむ、透明な守護者だった。


その時、世界の深層で、一つの「光」が激しく明滅した。


それは、私たちが最後に見守った、新しい魂のゆりかご。

その魂は、他の誰とも違っていた。


何万、何億という魂の中で、その光だけが、私たちと同じ「色」をしていた。


半分壊れたビニール傘のような、淡い青。


そして、夕焼けに染まる図書室のような、深い金。

「……朔夜、あれは……」

『ああ。……僕たちの「残り香」だ。世界と同化しきれなかった、僕たちの最後のエゴが、新しい命となって芽吹こうとしている』

その光は、ゆっくりと、けれど確かな意志を持って、一人の赤ん坊としてこの世界に降り立った。 街の小さな産婦人科。
朝もやの中で産声を上げたその子は、驚くほど澄んだ瞳をしていた。

その子は、私たちの生まれ変わりではない。


けれど、私たちが100回のループの中で紡いできた、すべての「好き」と「ごめんね」と「ありがとう」を、その小さな胸に詰め込んだ、希望の結晶だった。


私たちは、その子の枕元にそっと寄り添った。


風となって頬を撫で、光となって夢を彩る。

『つむぎ。……この子は、僕たちが辿り着けなかった「普通の明日」を歩いていく。……事故に遭うことも、時間を奪われることもない、残酷で、けれど自由な世界を』

「ええ。……私たちはもう、彼女の人生を操作することはできない。でも、彼女が転びそうになったら、風になって支えることはできる。彼女が道に迷ったら、星になって導くことはできる」

赤ん坊が、空を掴むように小さな手を伸ばした。


その指先が、目に見えない私たちの「意志」に触れた気がした。


瞬間、私たちの記憶の残滓が、温かい雫となって世界に溶け落ちる。


100回の悲劇は、この一瞬の「産声」のためにあった。


私たちが形を失ったのは、この子が形を得るためだった。


世界は、美しい。


たとえ、そこに私たちの名前を呼ぶ者がいなくなっても。


たとえ、私たちの物語を誰も覚えていなくても。


この子が吸い込む空気の中に、私たちが愛した証が、永遠に混ざり合っているのだから。

「……いってらっしゃい。私たちの、101回目の物語」

私たちは、透明なゆりかごを揺らす優しい風となって、どこまでも続く新しい朝の中へと溶け込んでいった。