100回目の『初恋』、君が知らない甘い嘘

意識が完全に溶け合い、個としての「紬希」と「朔夜」が消滅する直前――。


その極限の境界線で、私たちは一つの巨大な、そしてあまりにも鮮烈な「もしも(if)」の光景を共有した。

それは、100回のループのどこにも存在しなかった、けれど、私たちが心の底で一番強く渇望していた、何の変哲もない日常の風景。


そこは、夕焼けの図書室でも、崩壊する路地裏でもなかった。


どこにでもある普通の、春の昼休み。


屋上へと続く階段の踊り場で、私はお弁当を広げ、朔夜くんは隣で数学の参考書を開いている。

『ねえ、さっくん。その問題、さっきからずっと同じページじゃない?』

『……うるさいな。紬希が横で卵焼きを美味しそうに食べるから、集中できないんだ』

そんな、取るに足らない会話。


そこにあるのは、時間を巻き戻す能力も、血塗られた執着も、100回分の絶望もない世界。


朔夜くんはただの、少し勉強熱心で、不器用で、私を少しだけ特別に思ってくれている、クラスメイトの男の子。


私はただの、お弁当の卵焼きが上手に焼けて喜んでいるだけの、どこにでもいる女の子。

二人で一つのイヤホンを分け合って、最近流行っている曲を聴く。


ふとした瞬間に手が触れて、どちらからともなく顔を赤らめる。


放課後のチャイムが鳴ったら、一緒に駅前のクレープ屋さんに寄ろうと約束する。

『……ああ、そうか。僕が本当に欲しかったのは、世界を支配する力なんかじゃなかった。ただ、こんな風に、君と同じ速さで流れる時間の中に、いたかっただけなんだ』

溶け合う意識の中で、朔夜くんが震えるように呟いた。


その「もしも」の世界の彼は、とても幼く、とても幸せそうな顔をして笑っていた。


けれど、その幸せな幻影も、私たちの融合が進むにつれて薄れていく。


「私」という輪郭が霧散し、彼の記憶と私の感情がマーブル模様のように混ざり合い、ついには一つの純粋な「光の塊」へと凝縮された。

今の私たちは、一陣の風。


新しい世界で、恋に悩む誰かの背中をそっと押す。


今の私たちは、一粒の雨。 乾いた大地を潤し、新しい芽を育む。


もはや、指を絡めることも、唇を重ねることもできない。


けれど、これほどまでに深く、誰かと繋がれる方法を、私は他に知らない。


私たちは、この世界のあらゆる場所に同時に存在し、あらゆる瞬間に共に息づいている。

「ねえ、朔夜。……寂しくないわ」

『ああ。僕もだよ。……君が、僕の一部になったからじゃない。僕たちが、この世界の「愛」そのものになったからだ』

不意に、世界の底から、かつてないほど清らかな旋律が聞こえてきた。


それは、私たちが作り変えた新しい運命が、初めて刻むリズム。


100回、悲劇で終わった物語が、ようやくその最終ページを破り捨て、名前のない新しい序章を書き始めたのだ。

「……見て。あそこに、誰かがいるわ」

意識の地平線に、小さな光が見えた。


それは、私たちが消えた後の世界で、新しく生を受けようとしている、誰かの「魂」。


私たちはその小さな命のゆりかごを包むように、最後の一滴の自我を使い、祝福の光を注ぎ込んだ。


やがて、思考すらも停止する時が訪れた。


深い、深い、凪のような静寂。 暗闇でも光でもない、すべての色が混ざり合って無色透明になった世界。

『つむぎ……愛して……』

彼の最後の思念が、私の魂の芯に触れた。


それは「愛している」という言葉の形すら保てないほどの、純粋なエネルギー。


私もまた、言葉にならない感謝と祈りを込めて、彼に寄り添った。


私たちは、消滅したのではない。


ただ、すべてになったのだ。


空に浮かぶ二つの月が、静かに重なり合う。


その瞬間、第8章の幕は閉じ、物語は形を失った二人が見守る「再生の地」へと舞台を移していく。