夕焼けに染まる無人の商店街。
私たちは、自分たちの魂を削りながら作り上げたこの「記憶の街」を、一歩ずつ噛み締めるように歩き続けた。
「……ねえ、朔夜くん。あの喫茶店、入ってみようよ」
指差したのは、木目調のドアに真鍮の取っ手がついた、こじんまりとした店だった。
かつて現実の世界で、私が行きたいと言いながら、結局一度も行けなかった場所。
彼が100回やり直した世界の中でも、一度も「正解」として選ばれなかった、ささやかな未完の約束。
カランコロン、と乾いた鐘の音が響き、店内には香ばしいコーヒーの匂いが立ち込めていた。
店員はいない。
けれど、カウンターの上には、私たちが座るのを待っていたかのように、湯気を立てる二つのカップが置かれている。
「……僕が淹れたかったコーヒーだ。君がいつも、少しだけ砂糖を多めに入れるのを、僕は知っていたから」
朔夜くんは、カウンター越しに椅子を引き、私をエスコートした。
彼の指先は、今や西日の光を通すほどに薄くなっている。
実体を持つことが、彼にとってどれほどの負担になっているか。
それでも彼は、痛みを見せる代わりに、この世で最も甘美な微笑みを私に向けていた。
「美味しい。……本当に、朔夜くんが淹れたみたい」
「……みたいじゃない。これは、僕の意志そのものなんだよ、つむぎ。この店の空気も、椅子に伝わる温もりも……全部、僕が君を愛しているという証明を、形に変えたものなんだ」
彼は私の向かいに座り、自分のカップには手をつけず、ただ私の飲む姿をじっと見つめていた。
その瞳には、かつて私を支配しようとした時のぎらついた光はなく、ただ深い慈愛だけが湛えられている。
「……つむぎ。世界を再構築してみて、分かったことがある」
「なあに?」
「僕は、100回もリープを繰り返して、完璧な君を作ろうとしていた。でも、今のこの瞬間……少しだけ冷めたコーヒーを飲んで、美味しいって笑う、予定外の君の姿が、どんなシナリオよりも美しい。……僕は、一番大切なものを見落としていたんだ」
彼の告白は、静かに私の心に染み渡った。
支配でも執着でもない、ただ一人の人間が、一人の人間を尊重する。
その当たり前の愛に、彼は100回の絶望を経て、ようやく辿り着いたのだ。
その時、喫茶店の窓ガラスが、不自然な音を立ててパリンと割れた。
破片が飛び散るわけではない。割れた箇所から、またあの「真っ白な無」が侵入し、店内の壁を、床を、少しずつ侵食し始めていた。
「……エネルギーが、尽きかけているのね」
「……ああ。僕たちの存在を世界に変換するスピードが、崩壊の速度に追いつかなくなっている。……つむぎ。この喫茶店を出る頃には、僕たちの『姿』は、もう保てなくなっているかもしれない」
朔夜くんは立ち上がり、私に手を差し出した。
その手は、触れようとすると霧のように透け、私の手のひらを通り抜けそうになる。
私は、消えゆく彼の存在を必死に繋ぎ止めるように、その輪郭を強く、強く握りしめた。
「怖くないよ。……あなたが風になるなら、私も風になればいい。この世界が消えても、私たちの『想い』がこの場所に残るなら、それは永遠に消えない物語になる」
私たちは店を出た。
街は、さらに激しく崩れ始めていた。
商店街のアーケードは光の糸となって空へ舞い上がり、アスファルトの道は再び真っ白な地平線へと戻っていく。
けれど、その崩壊の光さえも、今の私たちには祝祭の光のように見えた。
「……つむぎ。最後に一つだけ、聞いていいかな」
崩れゆく夕焼けの中で、朔夜くんが立ち止まった。
彼の体は、もう腰から下が透明な光に変わっている。
「101回目のこの旅で、君は幸せだった?」
「……ええ。最高の幸せよ。100回助けてもらった恩返しもできたし、何より、あなたの本当の笑顔が見られたもの」
私は彼の首に腕を回し、消えゆくその存在を全身で抱きしめた。
「愛してる、朔夜くん。……ずっと、ずっと、一緒よ」
「……ああ。……愛してる、つむぎ」
私たちの姿は、激しい光の中に溶け込んでいった。
街が消え、記憶が消え、個体としての意識が薄れていく。
けれど、最後に残ったのは、絶望ではなく、満たされた充足感だった。
真っ白に戻った世界に、二人の笑い声だけがいつまでも響き渡り、やがてそれは、新しい世界の「鼓動」へと変わっていった。
私たちは、自分たちの魂を削りながら作り上げたこの「記憶の街」を、一歩ずつ噛み締めるように歩き続けた。
「……ねえ、朔夜くん。あの喫茶店、入ってみようよ」
指差したのは、木目調のドアに真鍮の取っ手がついた、こじんまりとした店だった。
かつて現実の世界で、私が行きたいと言いながら、結局一度も行けなかった場所。
彼が100回やり直した世界の中でも、一度も「正解」として選ばれなかった、ささやかな未完の約束。
カランコロン、と乾いた鐘の音が響き、店内には香ばしいコーヒーの匂いが立ち込めていた。
店員はいない。
けれど、カウンターの上には、私たちが座るのを待っていたかのように、湯気を立てる二つのカップが置かれている。
「……僕が淹れたかったコーヒーだ。君がいつも、少しだけ砂糖を多めに入れるのを、僕は知っていたから」
朔夜くんは、カウンター越しに椅子を引き、私をエスコートした。
彼の指先は、今や西日の光を通すほどに薄くなっている。
実体を持つことが、彼にとってどれほどの負担になっているか。
それでも彼は、痛みを見せる代わりに、この世で最も甘美な微笑みを私に向けていた。
「美味しい。……本当に、朔夜くんが淹れたみたい」
「……みたいじゃない。これは、僕の意志そのものなんだよ、つむぎ。この店の空気も、椅子に伝わる温もりも……全部、僕が君を愛しているという証明を、形に変えたものなんだ」
彼は私の向かいに座り、自分のカップには手をつけず、ただ私の飲む姿をじっと見つめていた。
その瞳には、かつて私を支配しようとした時のぎらついた光はなく、ただ深い慈愛だけが湛えられている。
「……つむぎ。世界を再構築してみて、分かったことがある」
「なあに?」
「僕は、100回もリープを繰り返して、完璧な君を作ろうとしていた。でも、今のこの瞬間……少しだけ冷めたコーヒーを飲んで、美味しいって笑う、予定外の君の姿が、どんなシナリオよりも美しい。……僕は、一番大切なものを見落としていたんだ」
彼の告白は、静かに私の心に染み渡った。
支配でも執着でもない、ただ一人の人間が、一人の人間を尊重する。
その当たり前の愛に、彼は100回の絶望を経て、ようやく辿り着いたのだ。
その時、喫茶店の窓ガラスが、不自然な音を立ててパリンと割れた。
破片が飛び散るわけではない。割れた箇所から、またあの「真っ白な無」が侵入し、店内の壁を、床を、少しずつ侵食し始めていた。
「……エネルギーが、尽きかけているのね」
「……ああ。僕たちの存在を世界に変換するスピードが、崩壊の速度に追いつかなくなっている。……つむぎ。この喫茶店を出る頃には、僕たちの『姿』は、もう保てなくなっているかもしれない」
朔夜くんは立ち上がり、私に手を差し出した。
その手は、触れようとすると霧のように透け、私の手のひらを通り抜けそうになる。
私は、消えゆく彼の存在を必死に繋ぎ止めるように、その輪郭を強く、強く握りしめた。
「怖くないよ。……あなたが風になるなら、私も風になればいい。この世界が消えても、私たちの『想い』がこの場所に残るなら、それは永遠に消えない物語になる」
私たちは店を出た。
街は、さらに激しく崩れ始めていた。
商店街のアーケードは光の糸となって空へ舞い上がり、アスファルトの道は再び真っ白な地平線へと戻っていく。
けれど、その崩壊の光さえも、今の私たちには祝祭の光のように見えた。
「……つむぎ。最後に一つだけ、聞いていいかな」
崩れゆく夕焼けの中で、朔夜くんが立ち止まった。
彼の体は、もう腰から下が透明な光に変わっている。
「101回目のこの旅で、君は幸せだった?」
「……ええ。最高の幸せよ。100回助けてもらった恩返しもできたし、何より、あなたの本当の笑顔が見られたもの」
私は彼の首に腕を回し、消えゆくその存在を全身で抱きしめた。
「愛してる、朔夜くん。……ずっと、ずっと、一緒よ」
「……ああ。……愛してる、つむぎ」
私たちの姿は、激しい光の中に溶け込んでいった。
街が消え、記憶が消え、個体としての意識が薄れていく。
けれど、最後に残ったのは、絶望ではなく、満たされた充足感だった。
真っ白に戻った世界に、二人の笑い声だけがいつまでも響き渡り、やがてそれは、新しい世界の「鼓動」へと変わっていった。



