彼が去った後の廊下には、まだ彼の香水の匂いが微かに残っていた。
シトラスと、少しだけ冷たい朝の空気のような、彼らしい清潔感のある香り。
「紬希、また一ノ瀬くんに甘やかされてたでしょ」
親友の莉子が、茶化すように肩を並べてきた。
私は顔が熱くなるのを感じながら、苺のラテを大事に抱え直す。
「甘やかされてる、のかな。……でも、朔夜くんって本当にすごいの。私が昨日、寝る前に『明日はちょっと甘いものがいいな』って思ってたことまで、全部お見通しみたいで」
「それって愛じゃない? 紬希のこと、ずーっと見てるんだよ」
莉子は笑っていたけれど、私の胸の奥には、ほんの小さなさざ波が立っていた。
単なる偶然にしては、できすぎている。
授業中も、気づけば彼のことばかり考えていた。
ペンを走らせる音、先生の単調な声。
ふと窓の外を見ると、校門の近くに立つ彼の姿が見えた。
体育の授業だろうか。
彼はサッカーボールを鮮やかに操りながら、ふと、校舎の三階にある私の教室の方を見上げた。
視線がぶつかる。
距離があるはずなのに、彼が優しく目を細めて笑ったのがわかった。
心臓がトクン、と大きく跳ねる。
慌てて視線をノートに戻したけれど、心拍数は一向に下がってくれない。
放課後。
約束通り図書室へ向かうと、一番奥の、私がお気に入りの席に、すでに彼は座っていた。
「お疲れさま、つむぎ。……ほら、ここ、日が当たって暖かいよ」
彼は自分の隣の椅子を引いて、私を招き入れる。
机の上には、私が借りようと思っていた資料が、すでに一冊置かれていた。
「えっ、この本……」
「来週のレポート、これが必要になるって言ってただろう? 誰かに借りられる前に、僕がキープしておいた」
至れり尽くせりな彼の行動に、驚きを通り越して吐息が漏れる。
彼は私の隣に座ると、教科書を開く私の手に、自分の手をそっと重ねた。
「朔夜くん……?」
「……ごめん。少しだけ、こうしてていいかな。なんだか今日は、すごく君に触れたい気分なんだ」
彼の指が、私の指の隙間に滑り込んでくる。
恋人繋ぎ。
重なった手のひらから、彼の体温が伝わってくる。
けれど、その手は少しだけ震えているようにも見えた。
「朔夜くん、どこか具合悪いの?」
「……ううん。ただ、君がここにいてくれるのが、あまりに幸せで」
彼は私の肩に、こん、と頭を預けた。
長い睫毛に縁取られた瞳が、伏せられる。
「ときどき、怖くなるんだ。この幸せが、夢だったらどうしようって」
「夢じゃないよ。私、ここにいるもん」
私がそう言って笑うと、彼は顔を上げ、私の頬を包み込んだ。
そして、図書館の静寂の中で、誰にも聞こえないような囁き声を落とした。
「……そうだね。今は、僕の隣にいてくれる」
『今は』。
その言葉の選び方に、喉の奥がチリりと焼けるような感覚があった。
まるで、いつか私がいなくなる未来を知っているかのような。
「ねえ、つむぎ。明日も、明後日も、一年後も。……ずっと、僕のそばにいて。絶対だよ」
彼の瞳の奥に、吸い込まれそうなほどの切実な光を見た。
私は吸い寄せられるように、彼の唇が近づいてくるのを、ただ目を閉じて待っていた。
苺のラテの甘い香りが、二人を包み込む。
それが、終わりへ向かうカウントダウンの始まりだとも知らずに、私はただ、彼の腕の中に身を委ねていた。
シトラスと、少しだけ冷たい朝の空気のような、彼らしい清潔感のある香り。
「紬希、また一ノ瀬くんに甘やかされてたでしょ」
親友の莉子が、茶化すように肩を並べてきた。
私は顔が熱くなるのを感じながら、苺のラテを大事に抱え直す。
「甘やかされてる、のかな。……でも、朔夜くんって本当にすごいの。私が昨日、寝る前に『明日はちょっと甘いものがいいな』って思ってたことまで、全部お見通しみたいで」
「それって愛じゃない? 紬希のこと、ずーっと見てるんだよ」
莉子は笑っていたけれど、私の胸の奥には、ほんの小さなさざ波が立っていた。
単なる偶然にしては、できすぎている。
授業中も、気づけば彼のことばかり考えていた。
ペンを走らせる音、先生の単調な声。
ふと窓の外を見ると、校門の近くに立つ彼の姿が見えた。
体育の授業だろうか。
彼はサッカーボールを鮮やかに操りながら、ふと、校舎の三階にある私の教室の方を見上げた。
視線がぶつかる。
距離があるはずなのに、彼が優しく目を細めて笑ったのがわかった。
心臓がトクン、と大きく跳ねる。
慌てて視線をノートに戻したけれど、心拍数は一向に下がってくれない。
放課後。
約束通り図書室へ向かうと、一番奥の、私がお気に入りの席に、すでに彼は座っていた。
「お疲れさま、つむぎ。……ほら、ここ、日が当たって暖かいよ」
彼は自分の隣の椅子を引いて、私を招き入れる。
机の上には、私が借りようと思っていた資料が、すでに一冊置かれていた。
「えっ、この本……」
「来週のレポート、これが必要になるって言ってただろう? 誰かに借りられる前に、僕がキープしておいた」
至れり尽くせりな彼の行動に、驚きを通り越して吐息が漏れる。
彼は私の隣に座ると、教科書を開く私の手に、自分の手をそっと重ねた。
「朔夜くん……?」
「……ごめん。少しだけ、こうしてていいかな。なんだか今日は、すごく君に触れたい気分なんだ」
彼の指が、私の指の隙間に滑り込んでくる。
恋人繋ぎ。
重なった手のひらから、彼の体温が伝わってくる。
けれど、その手は少しだけ震えているようにも見えた。
「朔夜くん、どこか具合悪いの?」
「……ううん。ただ、君がここにいてくれるのが、あまりに幸せで」
彼は私の肩に、こん、と頭を預けた。
長い睫毛に縁取られた瞳が、伏せられる。
「ときどき、怖くなるんだ。この幸せが、夢だったらどうしようって」
「夢じゃないよ。私、ここにいるもん」
私がそう言って笑うと、彼は顔を上げ、私の頬を包み込んだ。
そして、図書館の静寂の中で、誰にも聞こえないような囁き声を落とした。
「……そうだね。今は、僕の隣にいてくれる」
『今は』。
その言葉の選び方に、喉の奥がチリりと焼けるような感覚があった。
まるで、いつか私がいなくなる未来を知っているかのような。
「ねえ、つむぎ。明日も、明後日も、一年後も。……ずっと、僕のそばにいて。絶対だよ」
彼の瞳の奥に、吸い込まれそうなほどの切実な光を見た。
私は吸い寄せられるように、彼の唇が近づいてくるのを、ただ目を閉じて待っていた。
苺のラテの甘い香りが、二人を包み込む。
それが、終わりへ向かうカウントダウンの始まりだとも知らずに、私はただ、彼の腕の中に身を委ねていた。



