懐中時計の銀色のケースが、私の掌の熱を吸い取っていく。
窓の外では、マンションの非常階段が飴細工のようにぐにゃりと曲がり、階下の喧騒がピタリと止んでいた。
時が止まったのではない。
音が、存在そのものが、闇に飲み込まれて消えたのだ。
「……どうして、そんな選択をさせるの?」
私は震える声で、彼に問いかけた。
「私に、あなたを殺せって言うの? 私が生き残るために、100回も私を助けてくれたあなたを、この手で消せっていうの……!?」
「殺すんじゃない。……君を、解放するんだ」
朔夜くんは、私の手の上にある懐中時計を、自分の大きな手で包み込んだ。
「よく見て、つむぎ。この部屋にある写真も、日記も、全部僕が勝手に集めた『過去』だ。君は、僕が作ったシナリオの上で、僕が喜ぶセリフを言わされていたに過ぎない。……そんなの、本当の恋じゃないだろう?」
彼の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ち、私の頬に触れた。
その涙は、驚くほど冷たかった。
「僕は、君の自由を奪ったんだ。君が誰かと出会い、誰かを好きになり、時には傷つき、そしていつか寿命を全うする……そんな当たり前の、残酷で美しい『生』を、僕のエゴで奪い続けてきた。……君を救うという名目の、独占欲で」
「……違うよ」
私は首を振った。
目の前に並ぶ膨大な写真。
その中の一枚、私が高校の屋上で、誰にも見せずに泣いていた時の写真があった。
あの日、私は確かに孤独だった。
でも、この写真の中の私は、どこか遠くを見つめていた。
彼は、その孤独さえも拾い上げて、私に「幸せ」という名の砂糖菓子を与え続けてくれたのだ。
「朔夜くん、あなたは……私のために、自分の人生を全部捨てたんでしょ? 私を救うためだけに、100回も地獄を見てきたんでしょ……。それを、独占欲なんて言葉で片付けないでよ!」
私は彼の胸に顔を埋め、叫んだ。
外では、ついにリビングの壁が崩れ始め、闇が室内に侵入してきた。
床に散らばった写真たちが、闇に触れた瞬間、パチパチと音を立てて火花のように消えていく。
「つむぎ、時間がない。……時計を見て」
懐中時計の文字盤が、不気味な紫色の光を放ち始めていた。
針はもう、数字のない場所を指している。
「これを壊せば、すべてが再構成される。……君はあの日の朝、駅のホームで目が覚める。僕のことは、もう覚えていない。……でも、莉子も、君の両親も、みんなが笑っている世界だ。君を突き落とすはずだった人間も、僕がリープのエネルギーを使って、別の場所へ遠ざけておく。……君は、死なない。絶対に」
「……あなたは? あなたはどうなるの?」
「僕は……『紬希を救いたい』という概念そのものになるだけだ。……風になって君の髪を揺らし、光になって君の行く先を照らす。……形を失うだけで、僕はいつだって、君のそばにいるよ」
彼は、私の指を時計の竜頭(りゅうず)に添えさせた。
「さあ、壊して。……僕を、終わらせてくれ」
その時、闇が私たちの足元まで迫り、私の足が感覚を失い始めた。
崩壊が、止まらない。
私は、涙で視界を滲ませながら、彼を見上げた。
「……ねえ、朔夜くん。1回目。一番最初、私たちはどうやって出会ったの?」
朔夜くんは、一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから、これまでで一番、少年のような純粋な笑みを浮かべた。
「……雨の日だった。傘を持っていなかった僕に、君が『これ、使ってください』って、半分壊れたビニール傘を貸してくれたんだ。……君は、僕の顔なんて見ていなかった。ただ、濡れている僕を放っておけなかっただけ。……その瞬間、僕は、この人を守るために生きていこうって決めたんだ」
「……そう。……じゃあ、私も、あなたに贈るわ。最後の、100回目のお返しを」
私は力を込めた。 時計を壊すためではない。
彼を、闇から引き寄せるために。
「……つむぎ!?」
「壊さない。……私は、あなたを忘れて生きる世界なんて、いらない!」
私は懐中時計を床に叩きつけた。
ガシャン、という音と共に、時計が砕ける――。
けれど、それは朔夜くんが望んだ「解放」の音ではなかった。
私は、時計の中にある「ゼンマイ」と「歯車」が、私の心臓の鼓動と同期するのを感じた。
私が彼を拒絶するのではなく、彼の「執着」ごと、私の中に受け入れたのだ。
部屋中の写真が、一気に渦を巻いて私たちを包み込む。
100回分の時間が、激しい光となって爆発した。
「……愛してるよ、朔夜くん。……地獄でも、箱庭でもいい。……私を、離さないで」
光の中で、彼の絶叫が聞こえた気がした。
そして、私の意識は深い、深い闇の底へと沈んでいった。
窓の外では、マンションの非常階段が飴細工のようにぐにゃりと曲がり、階下の喧騒がピタリと止んでいた。
時が止まったのではない。
音が、存在そのものが、闇に飲み込まれて消えたのだ。
「……どうして、そんな選択をさせるの?」
私は震える声で、彼に問いかけた。
「私に、あなたを殺せって言うの? 私が生き残るために、100回も私を助けてくれたあなたを、この手で消せっていうの……!?」
「殺すんじゃない。……君を、解放するんだ」
朔夜くんは、私の手の上にある懐中時計を、自分の大きな手で包み込んだ。
「よく見て、つむぎ。この部屋にある写真も、日記も、全部僕が勝手に集めた『過去』だ。君は、僕が作ったシナリオの上で、僕が喜ぶセリフを言わされていたに過ぎない。……そんなの、本当の恋じゃないだろう?」
彼の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ち、私の頬に触れた。
その涙は、驚くほど冷たかった。
「僕は、君の自由を奪ったんだ。君が誰かと出会い、誰かを好きになり、時には傷つき、そしていつか寿命を全うする……そんな当たり前の、残酷で美しい『生』を、僕のエゴで奪い続けてきた。……君を救うという名目の、独占欲で」
「……違うよ」
私は首を振った。
目の前に並ぶ膨大な写真。
その中の一枚、私が高校の屋上で、誰にも見せずに泣いていた時の写真があった。
あの日、私は確かに孤独だった。
でも、この写真の中の私は、どこか遠くを見つめていた。
彼は、その孤独さえも拾い上げて、私に「幸せ」という名の砂糖菓子を与え続けてくれたのだ。
「朔夜くん、あなたは……私のために、自分の人生を全部捨てたんでしょ? 私を救うためだけに、100回も地獄を見てきたんでしょ……。それを、独占欲なんて言葉で片付けないでよ!」
私は彼の胸に顔を埋め、叫んだ。
外では、ついにリビングの壁が崩れ始め、闇が室内に侵入してきた。
床に散らばった写真たちが、闇に触れた瞬間、パチパチと音を立てて火花のように消えていく。
「つむぎ、時間がない。……時計を見て」
懐中時計の文字盤が、不気味な紫色の光を放ち始めていた。
針はもう、数字のない場所を指している。
「これを壊せば、すべてが再構成される。……君はあの日の朝、駅のホームで目が覚める。僕のことは、もう覚えていない。……でも、莉子も、君の両親も、みんなが笑っている世界だ。君を突き落とすはずだった人間も、僕がリープのエネルギーを使って、別の場所へ遠ざけておく。……君は、死なない。絶対に」
「……あなたは? あなたはどうなるの?」
「僕は……『紬希を救いたい』という概念そのものになるだけだ。……風になって君の髪を揺らし、光になって君の行く先を照らす。……形を失うだけで、僕はいつだって、君のそばにいるよ」
彼は、私の指を時計の竜頭(りゅうず)に添えさせた。
「さあ、壊して。……僕を、終わらせてくれ」
その時、闇が私たちの足元まで迫り、私の足が感覚を失い始めた。
崩壊が、止まらない。
私は、涙で視界を滲ませながら、彼を見上げた。
「……ねえ、朔夜くん。1回目。一番最初、私たちはどうやって出会ったの?」
朔夜くんは、一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから、これまでで一番、少年のような純粋な笑みを浮かべた。
「……雨の日だった。傘を持っていなかった僕に、君が『これ、使ってください』って、半分壊れたビニール傘を貸してくれたんだ。……君は、僕の顔なんて見ていなかった。ただ、濡れている僕を放っておけなかっただけ。……その瞬間、僕は、この人を守るために生きていこうって決めたんだ」
「……そう。……じゃあ、私も、あなたに贈るわ。最後の、100回目のお返しを」
私は力を込めた。 時計を壊すためではない。
彼を、闇から引き寄せるために。
「……つむぎ!?」
「壊さない。……私は、あなたを忘れて生きる世界なんて、いらない!」
私は懐中時計を床に叩きつけた。
ガシャン、という音と共に、時計が砕ける――。
けれど、それは朔夜くんが望んだ「解放」の音ではなかった。
私は、時計の中にある「ゼンマイ」と「歯車」が、私の心臓の鼓動と同期するのを感じた。
私が彼を拒絶するのではなく、彼の「執着」ごと、私の中に受け入れたのだ。
部屋中の写真が、一気に渦を巻いて私たちを包み込む。
100回分の時間が、激しい光となって爆発した。
「……愛してるよ、朔夜くん。……地獄でも、箱庭でもいい。……私を、離さないで」
光の中で、彼の絶叫が聞こえた気がした。
そして、私の意識は深い、深い闇の底へと沈んでいった。



