100回目の『初恋』、君が知らない甘い嘘

屋上の重い鉄扉が、背後で「ガタン」と、世界を閉ざすような音を立てて閉まった。


雨上がりの光は、目に痛いほど鋭く、それでいて現実味を欠いている。


校舎の階段を下りる足音が、やけに大きく響く。


私たちは無言だった。
朔夜くんの手は、私の指の骨が軋むほど強く握られたままで、その熱だけが、この狂った世界で唯一の「本物」だと主張しているようだった。

「……ねあ、つむぎ。そんなに震えないで」

階段の踊り場で、彼はふと立ち止まり、私を壁の方へと優しく追い詰めた。


彼の体温が、冷え切った私の肌に突き刺さる。

「君が不安になるのは、僕の力が足りないせいだね。ごめん。……でも、大丈夫。あのアナウンスも、レストランの予約も、全部君が一番喜ぶタイミングに調整した。次は、君がずっと前から欲しがっていた、あのアンティークショップの指輪を買いに行こう。店主が『奇跡的に入荷した』って言うはずだよ。……僕が、そうなるように仕組んだから」

「……朔夜くん、もう、いいの。そんなことしなくていい」

私は、彼の胸元に手を当てて、静かに首を振った。

「奇跡を仕組むなんて、悲しすぎるよ。私は、偶然あなたに出会って、偶然雨が降って、偶然立ち寄ったお店で何かを見つける……そんな、予定外の毎日が生きたかった」

「予定外の毎日なんて、リスクでしかない!」

朔夜くんの声が、階段の吹き抜けに鋭く反響した。


彼は私の両肩を掴み、その指先に力を込める。
彼の瞳の奥で、何かが壊れたように激しく揺れていた。

「予定外の出来事は、いつか必ず君を僕から奪っていく。階段から落ちるのも、病気が見つかるのも、全部『予定外』なんだ。……僕はそれを100回も見てきた! 君が僕の前で、何の予告もなく光を失っていくのを! ……あんな地獄、二度と繰り返させない」

「……でも、今の私は、あなたのせいでゆっくり壊れていってるよ」

私の言葉に、彼は息を呑んだ。


掴まれていた肩の力が、ふっと抜ける。


窓の外では、また空の色が不自然に明滅していた。
一瞬だけ真っ赤な夕焼けになり、次の瞬間には真夜中のような闇が訪れ、そしてまた昼間の光に戻る。

「……見て、朔夜くん。世界が泣いてるよ。あなたが無理をさせるから、世界がもう、どうしていいか分からなくなってる」

「……それでもいい」

彼は、絞り出すような声で呟いた。

「たとえこの世界が崩壊して、僕たちの体が消えてなくなっても……その最後の瞬間まで、君が僕の隣で笑っていられるなら。……僕にとって、世界なんて、君を守るための器(うつわ)に過ぎないんだから」

彼は私の額に、慈しむように自分の額を合わせた。


その瞳には、狂気と、それ以上の、底なしの孤独が湛えられていた。

「……行こう。放課後はまだ始まったばかりだ。僕が作った、最高の『今日』は、まだ終わらせない」

私たちは再び歩き出した。


すれ違う先生たちの顔が、一瞬だけノイズのように「別の誰か」の顔に入れ替わる。


廊下の掲示板の文字が、見たこともない図形に書き換わっていく。


それでも、朔夜くんは前だけを見ていた。

校門を出た瞬間、街の景色が、まるでカメラのピントが合わなくなったようにぼやけた。 人々の話し声が、逆再生のテープのように聞こえる。

「……怖い、朔夜くん」

「僕の手を離さないで。……いいかい、つむぎ。僕だけを見ていればいい。他のものは全部、ただの背景だ」

彼は私の腰を引き寄せ、守るように抱き抱えながら、歪んだ街の中へと踏み出した。


それは、幸福へと向かうデートなどではなかった。


崩れゆく砂の城の中で、二人だけで最期を待つための、逃避行だった。

「……ねえ、朔夜くん。101回目は、あるの?」

私がそう尋ねると、彼は一瞬だけ、悲しそうに目を細めて笑った。

「……ないよ。これが、最後の『僕たち』だ」

その言葉が、雨上がりの湿った空気の中に溶けて消えた。


空には、ありもしない二つ目の月が、うっすらと浮かび始めていた。