雨は上がり始めているというのに、私の心にはさらに重く、冷たい霧が立ち込めていた。
屋上のフェンス越しに見える街並みは、雨上がりの陽光を反射して輝いているけれど、その輝きさえもどこか彩度が高すぎて、人工的な映画のセットのように見えてしまう。
「……ねえ、朔夜くん。私、さっき屋上に来る途中で、莉子の……親友の、死ぬ間際の顔を見たの」
私は、自分の声が他人のもののように遠く響くのを感じていた。
「彼女、笑ってたのよ。……『紬希、よかったね』って。その世界でも、私は朔夜くんと一緒にいたの? 莉子を犠牲にしてまで、私はあなたと幸せになっていたの?」
朔夜くんは、掴んでいた私の手をさらに強く握りしめた。
その強さは、答えたくないという拒絶のようでもあり、あるいは私を現実に繋ぎ止めておこうとする必死の抵抗のようでもあった。
「……忘れていい。それはもう、終わった世界のことだ。今の莉子は生きている。僕が、彼女が死なないルートを選び取ったからだ」
「選ぶ?……そんなの、誰が許可したの? あなたは、神様にでもなったつもりなの!?」
私は彼の胸を叩いた。
濡れたシャツ越しに伝わる彼の鼓動は、激しく、そして酷く乱れている。
彼は抵抗せず、ただ私の怒りを受け止めていた。
「神様なんかじゃない! 僕はただ、君を失いたくなかっただけの、臆病者だ……!」
彼が叫ぶように言ったその瞬間、世界が激しく明滅した。
一瞬だけ、屋上の床が消え、私たちは真っ暗な宇宙の中に放り出されたような感覚に陥る。
コンクリートの感触が足元から消え、冷たい風の代わりに、音のない静寂が耳を塞ぐ。
「――つむぎ、離れるな!!」
朔夜くんが私の腰を抱き寄せ、強引に自分の方へ引き寄せた。
次の瞬間、視界は元の「雨上がりの屋上」に戻っていた。
けれど、そこは何かが決定的に違っていた。
フェンスに結ばれていたはずの青いリボンが、いつの間にか色褪せた黄色に変わっている。
校庭にある大きな銀杏の木が、一瞬で秋のような黄金色に染まり、そしてまた緑に戻った。
「……今のは、何? 世界が、壊れたの……?」
「修正が追いつかなくなっているんだ。……君が僕を拒絶し、僕たちの『運命』に疑問を抱くたび、この世界の整合性が失われていく。僕が無理やり繋ぎ止めてきた100回分の時間が、今のこの瞬間に一気に押し寄せようとしているんだ」
彼は私の肩に顔を埋め、震える声で囁いた。
「つむぎ、お願いだ。僕を責めてもいい、憎んでもいい。でも、僕のそばにいることだけは、否定しないでくれ。君が僕を否定すれば、この世界は本当に、粉々に砕けてしまう」
彼のその言葉は、愛の告白というよりも、心中を迫る者の断末魔のようだった。
愛されている。それは間違いない。
でも、その愛の代償として、世界中の人々の運命が、彼の指先一つで書き換えられ、弄ばれている。 その恐ろしい事実に、私の愛はもう、純粋なままではいられなかった。
「……朔夜くん。私は、あなたが好きだよ。でも、……今の私は、あなたが愛してくれた『紬希』と同じ私なの?」
「……何、言ってるんだ」
「100回も繰り返して、その度に違う私を見てきたんでしょ? 泣いている私、笑っている私、あなたを拒む私。……あなたは、その全部を切り貼りして、自分の理想の『つむぎ』を作ろうとしているだけじゃないの?」
私の言葉に、朔夜くんの体が目に見えて硬直した。
彼はゆっくりと顔を上げ、濡れた長い睫毛を震わせながら、私を深く見つめた。
その瞳に宿っていたのは、激しい怒りでもなく、悲しみでもなく――ただ、底の見えない「虚無」だった。
「……そうかもしれないね。僕は、ただの収集家になってしまったのかもしれない。君という美しくて、愛しい奇跡の欠片を集めるだけの、哀れな収集家に」
彼は自嘲するように笑い、私の頬を冷たい指でなぞった。
「でも、それでもいい。たとえ君が、僕の作った偽物の人形だったとしても、僕はその人形を抱きしめて、地獄まで堕ちる覚悟ができているんだ」
雨上がりの空に、大きな虹がかかった。
けれどその虹は、七色ではなく、毒々しい紫や黒が混じった、不気味な輝きを放っている。
「行こう、つむぎ。世界が完全に壊れる前に、君に最高の食事と、最高の景色を見せてあげたい。……それが、僕にできる唯一の、罪滅ぼしだから」
彼は私の手を引き、屋上の扉へと向かった。
繋がれた手のひらは、汗と雨水で滑りそうだったけれど、彼はそれを許さなかった。
まるで、死んでも離さないという、強固な呪いのように。
校舎を降りる途中、すれ違う生徒たちの顔が、時折ノイズが走ったように歪む。
けれど私は、もう叫ばなかった。
ただ、彼の隣で、死へと向かって加速するこの美しい偽物の世界を、最後まで見届けることだけを決めた。
屋上のフェンス越しに見える街並みは、雨上がりの陽光を反射して輝いているけれど、その輝きさえもどこか彩度が高すぎて、人工的な映画のセットのように見えてしまう。
「……ねえ、朔夜くん。私、さっき屋上に来る途中で、莉子の……親友の、死ぬ間際の顔を見たの」
私は、自分の声が他人のもののように遠く響くのを感じていた。
「彼女、笑ってたのよ。……『紬希、よかったね』って。その世界でも、私は朔夜くんと一緒にいたの? 莉子を犠牲にしてまで、私はあなたと幸せになっていたの?」
朔夜くんは、掴んでいた私の手をさらに強く握りしめた。
その強さは、答えたくないという拒絶のようでもあり、あるいは私を現実に繋ぎ止めておこうとする必死の抵抗のようでもあった。
「……忘れていい。それはもう、終わった世界のことだ。今の莉子は生きている。僕が、彼女が死なないルートを選び取ったからだ」
「選ぶ?……そんなの、誰が許可したの? あなたは、神様にでもなったつもりなの!?」
私は彼の胸を叩いた。
濡れたシャツ越しに伝わる彼の鼓動は、激しく、そして酷く乱れている。
彼は抵抗せず、ただ私の怒りを受け止めていた。
「神様なんかじゃない! 僕はただ、君を失いたくなかっただけの、臆病者だ……!」
彼が叫ぶように言ったその瞬間、世界が激しく明滅した。
一瞬だけ、屋上の床が消え、私たちは真っ暗な宇宙の中に放り出されたような感覚に陥る。
コンクリートの感触が足元から消え、冷たい風の代わりに、音のない静寂が耳を塞ぐ。
「――つむぎ、離れるな!!」
朔夜くんが私の腰を抱き寄せ、強引に自分の方へ引き寄せた。
次の瞬間、視界は元の「雨上がりの屋上」に戻っていた。
けれど、そこは何かが決定的に違っていた。
フェンスに結ばれていたはずの青いリボンが、いつの間にか色褪せた黄色に変わっている。
校庭にある大きな銀杏の木が、一瞬で秋のような黄金色に染まり、そしてまた緑に戻った。
「……今のは、何? 世界が、壊れたの……?」
「修正が追いつかなくなっているんだ。……君が僕を拒絶し、僕たちの『運命』に疑問を抱くたび、この世界の整合性が失われていく。僕が無理やり繋ぎ止めてきた100回分の時間が、今のこの瞬間に一気に押し寄せようとしているんだ」
彼は私の肩に顔を埋め、震える声で囁いた。
「つむぎ、お願いだ。僕を責めてもいい、憎んでもいい。でも、僕のそばにいることだけは、否定しないでくれ。君が僕を否定すれば、この世界は本当に、粉々に砕けてしまう」
彼のその言葉は、愛の告白というよりも、心中を迫る者の断末魔のようだった。
愛されている。それは間違いない。
でも、その愛の代償として、世界中の人々の運命が、彼の指先一つで書き換えられ、弄ばれている。 その恐ろしい事実に、私の愛はもう、純粋なままではいられなかった。
「……朔夜くん。私は、あなたが好きだよ。でも、……今の私は、あなたが愛してくれた『紬希』と同じ私なの?」
「……何、言ってるんだ」
「100回も繰り返して、その度に違う私を見てきたんでしょ? 泣いている私、笑っている私、あなたを拒む私。……あなたは、その全部を切り貼りして、自分の理想の『つむぎ』を作ろうとしているだけじゃないの?」
私の言葉に、朔夜くんの体が目に見えて硬直した。
彼はゆっくりと顔を上げ、濡れた長い睫毛を震わせながら、私を深く見つめた。
その瞳に宿っていたのは、激しい怒りでもなく、悲しみでもなく――ただ、底の見えない「虚無」だった。
「……そうかもしれないね。僕は、ただの収集家になってしまったのかもしれない。君という美しくて、愛しい奇跡の欠片を集めるだけの、哀れな収集家に」
彼は自嘲するように笑い、私の頬を冷たい指でなぞった。
「でも、それでもいい。たとえ君が、僕の作った偽物の人形だったとしても、僕はその人形を抱きしめて、地獄まで堕ちる覚悟ができているんだ」
雨上がりの空に、大きな虹がかかった。
けれどその虹は、七色ではなく、毒々しい紫や黒が混じった、不気味な輝きを放っている。
「行こう、つむぎ。世界が完全に壊れる前に、君に最高の食事と、最高の景色を見せてあげたい。……それが、僕にできる唯一の、罪滅ぼしだから」
彼は私の手を引き、屋上の扉へと向かった。
繋がれた手のひらは、汗と雨水で滑りそうだったけれど、彼はそれを許さなかった。
まるで、死んでも離さないという、強固な呪いのように。
校舎を降りる途中、すれ違う生徒たちの顔が、時折ノイズが走ったように歪む。
けれど私は、もう叫ばなかった。
ただ、彼の隣で、死へと向かって加速するこの美しい偽物の世界を、最後まで見届けることだけを決めた。



