翌朝、目が覚めると、世界は灰色に塗り潰されていた。
窓の外では、地面を叩きつけるような激しい雨が降っている。
予報では晴れだったはずなのに、空はまるで見通せない深い霧に包まれているようだった。
「……また、ズレてるんだ」
私はベッドの中で、自分の指先を見つめた。
昨日、朔夜くんが鏡で見せてくれたあの「歪み」が、今度は世界全体を覆い始めている。
学校へ向かう道すがら、私は何度も立ち止まりそうになった。
すれ違う人の傘の色が、一瞬目を離した隙に赤から黄色に変わる。
信号機が、ありえないリズムで点滅を繰り返す。
世界のあちこちで、誰かが消しゴムで消し損ねたような、不自然な「綻び」が目につくのだ。
「つむぎ!」
校門の前で、大きな黒い傘を差した朔夜くんが待っていた。
激しい雨の中でも、彼の靴の先は一つも汚れていない。
まるであらかじめ、水溜まりがどこにできるかを知り尽くしているかのように。
「……朔夜くん。雨、すごいね」
「予定より少し早いな。……でも大丈夫。この雨は、僕たちが放課後になる頃には上がるはずだから。それまでは、僕のそばにいて」
彼は私の肩を抱き寄せ、自分の傘の中に招き入れた。
傘に当たる雨音が、まるで世界が崩れていく音のように聞こえて、私は彼の腕をぎゅっと掴んだ。
授業中、激しい頭痛が私を襲った。
ノートを取ろうとしても、ペンを持つ手が震える。
(……あ、私、知ってる。この後の数学のテスト、三問目がすごく難しくて、莉子が泣きそうになるんだ)
まだ配られてもいないテストの内容が、映像として脳裏に流れ込んでくる。
それは「既視感」という生ぬるいものではなかった。
かつて、別の時間軸で私が確かに体験した「記憶」の断片が、今の私の意識を侵食し始めているのだ。
「紬希、大丈夫? 顔、真っ白だよ」
隣の席の莉子が心配そうに覗き込んでくる。
その莉子の顔に、一瞬だけ、別の映像が重なった。
――血だらけで倒れている莉子。
――泣きながら私を責める莉子。
――卒業式の日に、知らない誰かと笑っている莉子。
「……っ、やめて!」
私は叫びながら耳を塞いだ。
教室中の視線が私に集まる。
先生が怪訝そうな顔をする。
私は震える足で教室を飛び出した。
背後で朔夜くんが立ち上がる気配がしたけれど、私は構わず、雨の降りしきる屋上へと階段を駆け上がった。
重い鉄の扉を押し開けると、冷たい雨が全身を打った。
制服が瞬く間に張り付き、体温を奪っていく。
けれど、この痛みだけが、今、私が「ここ」にいる唯一の証明のように感じられた。
「つむぎ! どうしてこんなところに!」
追ってきた朔夜くんが、びしょ濡れになりながら私の手を掴んだ。
彼の端正な顔が、苦痛に歪んでいる。
「……朔夜くん、もう限界だよ。私の頭の中に、知らない私がたくさんいるの。……莉子が死ぬところも、私があなたに別れを告げるところも……全部、全部流れてくるんだよ!」
「……それは、副作用だ。リープの回数が増えすぎて、君の魂が多重化してしまっているんだ」
「そんなの、もう『私』じゃない! 私はどの私なの? 100回も繰り返して、今の私は、一体何番目の『ゴミ箱』なの!?」
雨の中で、私は彼に泣きながらぶつかった。
彼は無言で私を受け止め、冷たくなった私の体を強く抱きしめた。
「……ゴミ箱なんかじゃない。君は、僕が見つけた唯一の『光』なんだ。……ごめん、つむぎ。僕が君を愛しすぎたせいで、君の心を壊してしまった」
彼の声が、雨音に混じって震えている。
見上げると、彼は泣いていた。
完璧で、全能で、私のすべてをコントロールしていたあの朔夜くんが、雨に打たれながら、ボロボロと涙を流している。
「……ねえ、つむぎ。約束しよう。……もし、次のリープが必要になったら、僕はもう、僕自身の『存在』を代償にする。君の記憶をこれ以上汚さないために、僕がこの世界から消えてもいい」
「……消える? 嫌だよ、そんなの!」
「いいんだ。君が、君として生きていける世界。……僕がいなくても、君が雨の日に一人で笑える世界。それを、最後のリープで作る。それが、僕の本当の『100回目の告白』なんだ」
雨は次第に弱まり、雲の隙間から不自然に明るい光が差し込み始めた。
彼が言った通り、雨は上がろうとしている。
けれど、その光に照らされた朔夜くんの輪郭は、今にも空気に溶けてしまいそうなほど、淡く透き通っていた。
「……行こう。放課後のパン屋さんは、まだ開いてるはずだ」
彼は無理に作ったような微笑みを浮かべ、私の濡れた手を引いた。
その手の温もりが、いつか失われることを予感させるほど、切なく、そして甘かった。
窓の外では、地面を叩きつけるような激しい雨が降っている。
予報では晴れだったはずなのに、空はまるで見通せない深い霧に包まれているようだった。
「……また、ズレてるんだ」
私はベッドの中で、自分の指先を見つめた。
昨日、朔夜くんが鏡で見せてくれたあの「歪み」が、今度は世界全体を覆い始めている。
学校へ向かう道すがら、私は何度も立ち止まりそうになった。
すれ違う人の傘の色が、一瞬目を離した隙に赤から黄色に変わる。
信号機が、ありえないリズムで点滅を繰り返す。
世界のあちこちで、誰かが消しゴムで消し損ねたような、不自然な「綻び」が目につくのだ。
「つむぎ!」
校門の前で、大きな黒い傘を差した朔夜くんが待っていた。
激しい雨の中でも、彼の靴の先は一つも汚れていない。
まるであらかじめ、水溜まりがどこにできるかを知り尽くしているかのように。
「……朔夜くん。雨、すごいね」
「予定より少し早いな。……でも大丈夫。この雨は、僕たちが放課後になる頃には上がるはずだから。それまでは、僕のそばにいて」
彼は私の肩を抱き寄せ、自分の傘の中に招き入れた。
傘に当たる雨音が、まるで世界が崩れていく音のように聞こえて、私は彼の腕をぎゅっと掴んだ。
授業中、激しい頭痛が私を襲った。
ノートを取ろうとしても、ペンを持つ手が震える。
(……あ、私、知ってる。この後の数学のテスト、三問目がすごく難しくて、莉子が泣きそうになるんだ)
まだ配られてもいないテストの内容が、映像として脳裏に流れ込んでくる。
それは「既視感」という生ぬるいものではなかった。
かつて、別の時間軸で私が確かに体験した「記憶」の断片が、今の私の意識を侵食し始めているのだ。
「紬希、大丈夫? 顔、真っ白だよ」
隣の席の莉子が心配そうに覗き込んでくる。
その莉子の顔に、一瞬だけ、別の映像が重なった。
――血だらけで倒れている莉子。
――泣きながら私を責める莉子。
――卒業式の日に、知らない誰かと笑っている莉子。
「……っ、やめて!」
私は叫びながら耳を塞いだ。
教室中の視線が私に集まる。
先生が怪訝そうな顔をする。
私は震える足で教室を飛び出した。
背後で朔夜くんが立ち上がる気配がしたけれど、私は構わず、雨の降りしきる屋上へと階段を駆け上がった。
重い鉄の扉を押し開けると、冷たい雨が全身を打った。
制服が瞬く間に張り付き、体温を奪っていく。
けれど、この痛みだけが、今、私が「ここ」にいる唯一の証明のように感じられた。
「つむぎ! どうしてこんなところに!」
追ってきた朔夜くんが、びしょ濡れになりながら私の手を掴んだ。
彼の端正な顔が、苦痛に歪んでいる。
「……朔夜くん、もう限界だよ。私の頭の中に、知らない私がたくさんいるの。……莉子が死ぬところも、私があなたに別れを告げるところも……全部、全部流れてくるんだよ!」
「……それは、副作用だ。リープの回数が増えすぎて、君の魂が多重化してしまっているんだ」
「そんなの、もう『私』じゃない! 私はどの私なの? 100回も繰り返して、今の私は、一体何番目の『ゴミ箱』なの!?」
雨の中で、私は彼に泣きながらぶつかった。
彼は無言で私を受け止め、冷たくなった私の体を強く抱きしめた。
「……ゴミ箱なんかじゃない。君は、僕が見つけた唯一の『光』なんだ。……ごめん、つむぎ。僕が君を愛しすぎたせいで、君の心を壊してしまった」
彼の声が、雨音に混じって震えている。
見上げると、彼は泣いていた。
完璧で、全能で、私のすべてをコントロールしていたあの朔夜くんが、雨に打たれながら、ボロボロと涙を流している。
「……ねえ、つむぎ。約束しよう。……もし、次のリープが必要になったら、僕はもう、僕自身の『存在』を代償にする。君の記憶をこれ以上汚さないために、僕がこの世界から消えてもいい」
「……消える? 嫌だよ、そんなの!」
「いいんだ。君が、君として生きていける世界。……僕がいなくても、君が雨の日に一人で笑える世界。それを、最後のリープで作る。それが、僕の本当の『100回目の告白』なんだ」
雨は次第に弱まり、雲の隙間から不自然に明るい光が差し込み始めた。
彼が言った通り、雨は上がろうとしている。
けれど、その光に照らされた朔夜くんの輪郭は、今にも空気に溶けてしまいそうなほど、淡く透き通っていた。
「……行こう。放課後のパン屋さんは、まだ開いてるはずだ」
彼は無理に作ったような微笑みを浮かべ、私の濡れた手を引いた。
その手の温もりが、いつか失われることを予感させるほど、切なく、そして甘かった。



