無愛想なルームメイトは、夢の中で俺に溺れている

「……受け取れない。俺には、世界で一番大切な奴が、もう隣にいるから」

湊の声は、騒がしい講義室の中でも驚くほど鮮明に響いた。  


ラブレターを差し出した女の子が、弾かれたように顔を上げる。
彼女の顔がみるみるうちに赤くなり、それから真っ青に変わっていくのを、俺はただ呆然と見つめることしかできなかった。

「あ……ご、ごめんなさい! 彼女さんがいたなんて知らなくて……っ!」

女の子は脱兎のごとく逃げ出していった。
周囲でそのやり取りを見ていた学生たちが、「えっ、一ノ瀬に彼女!?」「マジで?」「誰だよ、その『隣にいる』って……」と、蜂の巣をつついたような騒ぎになる。

(いや、……隣にいるのは俺だよ!)

湊に肩を抱かれたまま、俺は心の中で絶叫した。  


確かに物理的には俺が隣にいるけれど、普通は「彼女は今ここにはいないけど、心は隣にある」的な比喩表現だと思うだろう。……いや、そう思ってくれなきゃ困る。


俺は湊の腕を振り解くようにして、足早に人気(ひとけ)のない中庭へと連れ出した。

「おい、湊! お前、何考えてんだよ!」

「何って、告白を断っただけだ。嘘は言っていないだろう」

「嘘じゃないけど! 言い方があるだろ! 『世界で一番大切な奴』なんて……あんなの、宣言してるようなもんだろ」

「宣言したんだ。もう俺に構うな、と。……それとも何か、悠真。お前は俺が他の女から手紙を受け取った方が良かったのか?」

湊は立ち止まり、俺をじっと見つめてきた。
その瞳には、冗談めかした色は微塵もなく、ひどく真剣で、どこか独占欲に濁った熱が宿っている。  そんな目で見られたら、「良くない」なんて言えるはずがない。

「……良くはないけど。でも、お前があんなこと言うから、大学中が大騒ぎになっちゃうだろ。俺だって……その、居心地が悪いっていうか」

「お前はただ、俺の隣で笑っていればいい。余計な雑音は俺が全部シャットアウトする」

そう言って、湊は俺の頭を少し乱暴に、だけど愛おしそうに撫でた。  


この男の愛は、重い。  


高校時代から「過保護だな」とは思っていたけれど、付き合い始めた途端、その重力は一気に増していた。


学食の隅、一番目立たない席に座っても、湊の放った「爆弾」の影響は続いていた。  


カレーを口に運んでいる間も、遠巻きにこちらを伺う視線を感じる。

「……なぁ、湊。さっきの『大切な奴』って、女子だと思われてるよな?」

「だろうな。……まあ、そう思わせておけばお前に実害はない」

「実害はあるよ! 佐々木たちが『誰なんだよ! 紹介しろよ!』って、絶対俺に詰め寄ってくるに決まってるだろ」

その予感は、数分後に的中した。

「よぉ、一ノ瀬! お前、ついに年貢の納め時か!?」

騒がしい足音と共に、佐々木たちがトレイを持って押し寄せてきた。

「聞いたぞ、ラブレターの件! 『世界で一番大切な奴』って、どこの大学? モデル? それともまさか、幼馴染とか?」

佐々木が俺の肩を組み、ニヤニヤしながら湊に食い下がる。
俺は心臓が口から出そうになりながら、必死にカレーを飲み込んだ。

「……関係ないだろ。お前らに教えるつもりはない」  

湊は氷のような冷たさで一蹴する。

「冷てぇなー! 悠真、お前は知ってるんだろ? 隠し事すんなよ、ルームメイトだろ?」

矛先が俺に向いた。

「えっ、あ、いや……俺も、その……詳しくは……」

「嘘つけ! お前、さっき一ノ瀬と一緒にいただろ。一ノ瀬がそんなこと言うなんて、よっぽどの相手だ。なぁ、どんな子なんだよ。可愛い系? 美人系?」

詰め寄る佐々木に、俺は冷や汗が止まらない。

(可愛い系でも美人系でもなくて……今、お前の横で冷や汗かいてる『男』だよ……!)  

言えるわけがない。俺は助けを求めるように湊を見た。

湊はゆっくりと箸を置くと、佐々木の腕を俺の肩から静かに、だけど拒絶を込めて外した。

「……あまり悠真を困らせるな。こいつは嘘が下手なんだ」

「お、おう……。なんだよ、一ノ瀬。悠真のことガードしすぎだろ」

「ルームメイトのプライバシーを守るのは当然だ。……行くぞ、悠真。次の講義の資料をコピーしなきゃならない」

湊は俺の腕を掴むと、半分以上残っている自分の食事を放り出して立ち上がった。  


逃げるように学食を出て、図書館の影に隠れる。

「……あー、死ぬかと思った……」  

俺は壁に背中を預け、大きく息を吐いた。

「すまない。……お前を巻き込むのは、俺の本意じゃないんだが」

「本意じゃないなら、あんな目立つこと言うなよ……」

文句を言いながら湊の顔を見ると、あいつはひどく複雑そうな顔をして俺を見つめていた。

「……悠真。……俺が他の奴に名前を呼ばれるのが、そんなに嫌か?」

「えっ?」

「お前を隠しておきたい気持ちと、お前が俺の所有物だと世界中に叫びたい気持ちが、俺の中で喧嘩してるんだ。……自分でも、制御が効かないくらいに」

湊の手が、壁についている俺の手のすぐ横に置かれた。  


いわゆる『壁ドン』の形。
図書館の裏、人通りはないけれど、誰が来るかわからない場所でのその行為に、俺の心拍数は再び跳ね上がる。

「お前が俺の『友達』だと言われるたびに、……あいつらが気安くお前に触れるたびに、……俺は、叫び出しそうになるんだ」

「……湊……」

あいつの瞳は、昼間の光の下で見ると、昨夜よりもずっと濃い色をしていた。  


独占欲。
嫉妬。
そして、狂おしいほどの愛情。  


完璧だと思っていた一ノ瀬湊が、俺という存在のせいで、こんなにもボロボロに崩れている。

「……分かってるよ。……俺だって、あいつらが湊に告白するの見て、モヤモヤしたし。……自分でも、変な感じなんだ。……今まで平気だったことが、全部、平気じゃなくなってる」

俺は俯きながら、湊のシャツの裾をぎゅっと掴んだ。

「……だから、そんな顔すんな。……俺は、ここにいるだろ。お前の隣に、ずっと」

湊が喉の奥で小さく呻くような音を立てた。  


次の瞬間、俺は湊の広い胸の中に閉じ込められていた。  

「……あ……湊、ここ、外……っ」

「分かってる。……少しだけ、このままでいさせてくれ」

湊の心臓の音が、俺の背中にまで響いてくる。  


トクトクと速いそのリズムは、俺の鼓動と完全に同調していた。


世界で一番大切な奴。  


その言葉の重みが、ようやく俺の心にすとんと落ちてきた。  


俺たちは、もうただの「仲のいいルームメイト」には戻れない。  


この熱を抱えたまま、この危うい境界線を渡り続けるしかないんだ。

「……今夜。……昨日の続き、してもいいか?」

耳元で囁かれた低くて甘い声。  


俺は顔が燃え上がるのを感じながらも、あいつの背中に腕を回し、小さく頷いた。


ルームシェア三日目。  


大学という公共の場での「仮面」は、夜の静寂の中で、再び甘く剥がれ落ちようとしていた。