無愛想なルームメイトは、夢の中で俺に溺れている

ルームシェア開始から三日目の朝。  


まぶたの裏に届く柔らかな陽光と、鼻先をくすぐる淹れたてのコーヒーの香りで、俺は意識を浮上させた。

「……ん、……ふわぁ」

大きなあくびをして身体を伸ばそうとしたところで、右手に心地よい「重み」を感じて動きが止まる。  


視線を落とせば、そこには俺の手をしっかりと握りしめたまま、隣のベッドで眠る湊の姿があった。

「…………っ!」

一瞬で、昨夜の記憶が奔流のように脳内を駆け巡る。  


告白。
キス。
カーテンを開けたまま眠ったこと。
そして、指を絡めて眠りについたこと。  


すべては夢じゃなかった。  


俺は、あの完璧超人・一ノ瀬湊と、付き合い始めたんだ。

(……マジかよ。これ、現実だよな?)

そっと空いている方の手で自分の頬をつねってみる。
痛い。
現実だ。  


隣で眠る湊は、シーツに半ば顔を埋めるようにして、穏やかな寝息を立てている。  


整いすぎた睫毛が、朝の光を浴びて淡い影を作っていた。
昼間の無愛想な仮面を脱ぎ捨てた今のあいつは、驚くほど無防備で、そして——どうしようもなく、愛おしい。

「……いつまで見てるんだ。……変態か?」

不意に聞こえた低い声に、俺は心臓が口から飛び出しそうになった。

「っ、お、起きてたのかよ!」

「今、起きた。……お前の視線が熱すぎてな」

湊はゆっくりと目を開けると、握っていた俺の手にさらに力を込め、ぐいっと自分の方へ引き寄せた。  


不意を突かれた俺は、湊のベッドの上へ前のめりに倒れ込む。

「わっ、……ちょ、湊、近いって!」

「……おはよう、悠真」

至近距離で、湊がふわりと微笑んだ。  


普段、めったに見せない「無自覚な破壊力」を持つ笑顔。  


俺の心臓は朝一から過回転を起こし、顔が爆発しそうなほど熱くなる。  


あいつはそのまま、俺の額に優しく唇を落とした。

「……っ、なっ、……!」

「朝の挨拶だ。文句あるか?」

「文句……はないけど、慣れないんだよ! 昨日の今日で、キャラ変しすぎだろお前……」

俺は必死で顔を背けながら、逃げるようにベッドから這い出した。  


リビングへ逃げ込むと、テーブルの上にはすでに朝食のトーストとサラダが並んでいる。  


湊は、俺よりずっと早く起きて準備を済ませ、それからまた俺の隣に戻ってきて手を握って寝たのかと思うと、胸の奥が熱くてたまらなくなった。


朝食の間、俺たちは昨日までとは全く違う沈黙の中にいた。  


気まずいけれど、温かい。  


時折目が合うたびに、湊が「何だ?」とでも言うように口角を上げるのが、たまらなくむず痒い。

「……なぁ、湊。……大学では、どうするんだ?」

「どうする、とは?」

「いや、その……俺たち、付き合ってるわけだろ? でも、周りには言えないし……」

大学という場所は、噂の宝庫だ。  


特に一ノ瀬湊という超有名人が、ただの友人であるはずの俺と「付き合っている」なんて知られたら、それこそキャンパス中が大騒ぎになるだろう。

「……お前は、隠したいのか?」

湊が、サラダを運ぶ箸を止めて俺をじっと見た。  


その瞳に、微かな不安の色が混じっている。
あいつは、俺が自分を恥じているのではないかと疑っているのかもしれない。

「違う! 隠したいっていうか……お前に迷惑がかかるんじゃないかと思って」

「俺は構わない。誰にどう思われようと、俺が好きなお前が隣にいればいい」

さらりと言ってのける。
この男のこういう潔いところが、昔から羨ましくて、かっこいいと思っていた。

「だけど、お前が窮屈な思いをするのは嫌だ。……当分は、今まで通り『仲のいいルームメイト』で通せばいい。……ただし」

「ただし?」

「二人きりの時は、我慢しない。……いいな?」

湊は俺の唇についたパンくずを、親指でそっと拭った。  


その指先の熱に、俺はまたしても「……わかったよ」と小さく答えるのが精一杯だった。


大学の講義棟。  


俺たちは「いつも通り」並んで歩いていた。  


だけど、すれ違う女子学生たちの視線を受けるたびに、俺の心境は昨日までと一変していた。

「あ、一ノ瀬くんだ! おはよう!」

「……おはよう」

湊はいつものクールな対応で会釈する。  


今までは「湊はモテるなぁ」と他人事のように思っていたけれど、今は違う。  


彼女たちの向ける憧れの視線が、なんだか自分の宝物を狙われているような、奇妙な焦燥感を呼び起こす。

(……これって、嫉妬か? 俺が?)

自分がそんな独占欲の強い人間だとは思わなかった。  


ふと横を見ると、湊が少し不機嫌そうに眉を寄せ、俺の袖をクイッと引いた。

「……悠真、何ニヤニヤしてる。気持ち悪いぞ」

「ニヤニヤなんてしてねーよ! ちょっと考え事してただけだ」

「……あいつらを見てたろ。……俺以外を見るな」

小声で耳元に囁かれた言葉に、俺は足がもつれそうになった。  


束縛。
独占。  


湊の放つ熱量は、付き合い始めたことでさらに濃度を増していた。


講義室に入り、一番後ろの席に陣取る。  


隣に座った湊は、ノートを取り出しながら、机の下でこっそりと俺の膝に自分の手を置いた。

「……おい、湊! 誰かに見られたら……」

「机の下だ。見えない」

あいつは涼しい顔で教授の方を向いているが、膝に置かれた手は、ジーンズ越しに俺の肌をじりじりと焼くように熱い。  


湊の指が、俺の指の間に割り込むようにして、恋人繋ぎの形を作る。


九十分の講義中、俺の頭には教授の言葉なんて一単語も入ってこなかった。  


ただ、隣から伝わってくる湊の体温と、時折強く握り直される手の力に、息が苦しくなるほど意識を支配されていた。

(……これ、四年間も続けられるのか?)

嬉しいけれど、あまりに心臓に悪すぎる。  


俺たちのルームシェア生活は、まだ始まったばかりだ。  


「友達」という境界線を踏み越えた先にあるのは、底なしの甘い沼だった。


講義が終わるチャイムが鳴る。  


湊は手を離すと、何事もなかったかのように立ち上がり、「食堂へ行くぞ」と言った。  


俺は赤くなった手を隠すようにカバンを掴み、あいつの背中を追いかける。


その時。  


背後から、聞き覚えのない女子の声がした。

「あの……一ノ瀬くん! これ、……よかったら読んでください!」

差し出されたのは、水色の封筒。  


ラブレターだ。  


俺は足を止め、思わず湊の反応を固唾を飲んで見守った。


湊は、その封筒を一瞥すると、冷淡な声で短く告げた。

「受け取れない。……俺には、世界で一番大切な奴が、もう隣にいるから」

そう言って、湊は俺の肩を抱き寄せ、立ち尽くす女の子を置いて歩き出した。  


俺の心臓は、今日何度目かの限界突破を迎えた。