唇が触れ合った瞬間、世界から音が消えた。
柔らかいけれど、確かな熱。
湊の唇から伝わる微かな震えが、あいつの抱えていた不安の深さを物語っているようで、俺は無意識に湊のシャツを握る手に力を込めた。
どれくらいの時間が経ったのか。
数秒にも、数分にも感じられた沈黙の後、湊がゆっくりと顔を離した。
至近距離で見つめ合う。
湊の瞳は、潤んでいるようにも、燃えているようにも見えた。
「……悠真、お前。……今の、意味わかってるのか?」
「……馬鹿にすんなよ。……意味、くらい分かる」
顔が熱い。
耳まで火がついたみたいだ。
自分でも驚くほど心臓が速い鐘を打っている。
湊は、呆然とした顔のまま、今度は俺の肩に額を預けて深く吐息をついた。
「……信じられない。……お前は、一生俺の気持ちなんて気づかないで、平気な顔で『いつか彼女作りたいな』なんて言うんだと思ってた」
「……そんなこと、思ってねーよ。……ただ、お前があまりに完璧に見えるから。俺なんかとじゃ、釣り合わないって勝手に思ってただけだ」
湊の身体から、ふっと力が抜ける。
そのまま彼は俺を包み込むように、大きな腕で抱きしめてきた。
昼間のクールな湊からは想像もできない、執着にも似た強い抱擁。
あいつの首筋の匂いが鼻腔をくすぐり、俺は逃げ場のない甘い眩暈に襲われた。
「……釣り合わないのは、俺の方だ。……お前を、こんなに汚い独占欲で塗りつぶしたいと思ってる俺の方が、よっぽど酷い」
「……汚くないよ。……湊は、ずっと俺を大事にしてくれてたろ。……高校の時も、今も」
抱きしめられたまま、俺は湊の背中に手を回した。
広い背中。
今まで何度も見てきたはずなのに、こうして触れると、彼が自分と同じ「男」であることを嫌というほど突きつけられる。
しばらくの間、俺たちはキッチンで、言葉もなく抱きしめ合っていた。
新居のダイニングライトが、二人の重なった影を床に長く伸ばしている。
「……湊」
「なんだ」
「……お腹、空かない?」
俺の唐突な一言に、湊が小さく噴き出した。
肩が揺れる。
抱き合っているから、その振動がダイレクトに伝わってきて、なんだかむず痒い。
「……お前、こんな時にまで飯かよ」
「しょうがないだろ、夕飯まだなんだから。……湊も、ろくに食べてないんだろ?」
湊は俺を離すと、少しだけ赤くなった顔を背けて、苦笑いした。
いつもの「無愛想な湊」の仮面が剥がれ落ちた、年相応の少年のような表情。
俺はそれを見て、ようやく肩の力が抜けるのを感じた。
温め直した肉じゃがと、スーパーの惣菜。
リビングのテーブルに並んだ食事は、さっきまでの劇的な展開とは裏腹に、驚くほど日常的だった。 だけど、向かい合って座る俺たちの間には、間違いなく昨日までとは違う空気が流れている。
「……なぁ、湊。……一つ聞いていいか?」
「なんだ」
「……寝言の相手、本当に俺だったんだな?」
湊が飲んでいた味噌汁を吹き出しそうになり、咳き込んだ。
「……蒸し返すな。……死ぬほど恥ずかしい」
「いや、だって気になるだろ。夢の中で俺、何してたんだよ。追いかけっこ? それとも格闘?」
「……そんな、可愛いもんじゃない」
湊は耳まで真っ赤にして、視線を泳がせた。
「……お前が、誰か知らない女と一緒に歩いてたり……俺の知らないところへ、一人で行こうとしたり。……それを、俺が必死で止める夢だ。……お前はいつだって、ふらっとどこかへ行っちまいそうだから」
意外だった。
俺はいつも湊に頼りっぱなしで、むしろ追いかけているのは俺の方だと思っていたのに。
湊にとっての俺は、そんなに危うい存在だったんだろうか。
「行かねーよ。……ルームシェア、始めたんだし。……それに、さっき言っただろ。……もう逃げるなって言ったのは、俺の方だ」
俺は照れ隠しに、大きめの肉を口に放り込んだ。
湊はそんな俺を、眩しいものを見るような、愛おしくてたまらないといった眼差しで見つめている。 昼間まで俺を苦しめていた「好きな人」への嫉妬が、霧のように晴れていく。
こいつの好きな人は、俺だった。
あまりに出来すぎた真実に、まだふわふわとした現実感のなさが残っているけれど。
「……悠真」
「ん?」
「……今日は、カーテン開けて寝るか」
不意に投げかけられた言葉に、俺は思い切り咽せた。
「……っ、げほっ! な、……っ、何言って——」
「勘違いするな。……顔が見えないと、また変な夢を見そうだからだ」
湊は、いたずらっぽく、だけど真剣な瞳で笑った。
その笑顔があまりにかっこよくて、俺は「……勝手にしろ」としか言えなかった。
深夜。
二つのベッドの間にあった仕切りのカーテンは、端に寄せられている。
月明かりが差し込む寝室。
すぐ隣で、湊の静かな寝息が聞こえる。
俺は横向きになり、隣のベッドで眠る湊の顔を眺めた。
昼間、あんなに強気で俺を抱きしめた男が、今は穏やかに眠っている。
すると、湊の手がゆっくりと伸びてきて、迷うように俺のシーツの上を彷徨った。
俺がそっと自分の手を重ねると、湊の指がそれをぎゅっと絡めとる。
「……ゆうま……」
また、寝言。
だけど今夜の声は、昨日までの悲痛な響きではなく、どこか幸せそうに、優しく俺の名前を呼んでいた。
俺は絡められた指先の熱を感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
ルームシェア三日目からの生活は、きっと、想像もつかないほど甘くて、忙しくなるだろう。
「……おやすみ、湊」
俺は、今度こそ深い眠りへと落ちていった。
夢の中で、きっとまた、あいつに捕まることを願いながら。
柔らかいけれど、確かな熱。
湊の唇から伝わる微かな震えが、あいつの抱えていた不安の深さを物語っているようで、俺は無意識に湊のシャツを握る手に力を込めた。
どれくらいの時間が経ったのか。
数秒にも、数分にも感じられた沈黙の後、湊がゆっくりと顔を離した。
至近距離で見つめ合う。
湊の瞳は、潤んでいるようにも、燃えているようにも見えた。
「……悠真、お前。……今の、意味わかってるのか?」
「……馬鹿にすんなよ。……意味、くらい分かる」
顔が熱い。
耳まで火がついたみたいだ。
自分でも驚くほど心臓が速い鐘を打っている。
湊は、呆然とした顔のまま、今度は俺の肩に額を預けて深く吐息をついた。
「……信じられない。……お前は、一生俺の気持ちなんて気づかないで、平気な顔で『いつか彼女作りたいな』なんて言うんだと思ってた」
「……そんなこと、思ってねーよ。……ただ、お前があまりに完璧に見えるから。俺なんかとじゃ、釣り合わないって勝手に思ってただけだ」
湊の身体から、ふっと力が抜ける。
そのまま彼は俺を包み込むように、大きな腕で抱きしめてきた。
昼間のクールな湊からは想像もできない、執着にも似た強い抱擁。
あいつの首筋の匂いが鼻腔をくすぐり、俺は逃げ場のない甘い眩暈に襲われた。
「……釣り合わないのは、俺の方だ。……お前を、こんなに汚い独占欲で塗りつぶしたいと思ってる俺の方が、よっぽど酷い」
「……汚くないよ。……湊は、ずっと俺を大事にしてくれてたろ。……高校の時も、今も」
抱きしめられたまま、俺は湊の背中に手を回した。
広い背中。
今まで何度も見てきたはずなのに、こうして触れると、彼が自分と同じ「男」であることを嫌というほど突きつけられる。
しばらくの間、俺たちはキッチンで、言葉もなく抱きしめ合っていた。
新居のダイニングライトが、二人の重なった影を床に長く伸ばしている。
「……湊」
「なんだ」
「……お腹、空かない?」
俺の唐突な一言に、湊が小さく噴き出した。
肩が揺れる。
抱き合っているから、その振動がダイレクトに伝わってきて、なんだかむず痒い。
「……お前、こんな時にまで飯かよ」
「しょうがないだろ、夕飯まだなんだから。……湊も、ろくに食べてないんだろ?」
湊は俺を離すと、少しだけ赤くなった顔を背けて、苦笑いした。
いつもの「無愛想な湊」の仮面が剥がれ落ちた、年相応の少年のような表情。
俺はそれを見て、ようやく肩の力が抜けるのを感じた。
温め直した肉じゃがと、スーパーの惣菜。
リビングのテーブルに並んだ食事は、さっきまでの劇的な展開とは裏腹に、驚くほど日常的だった。 だけど、向かい合って座る俺たちの間には、間違いなく昨日までとは違う空気が流れている。
「……なぁ、湊。……一つ聞いていいか?」
「なんだ」
「……寝言の相手、本当に俺だったんだな?」
湊が飲んでいた味噌汁を吹き出しそうになり、咳き込んだ。
「……蒸し返すな。……死ぬほど恥ずかしい」
「いや、だって気になるだろ。夢の中で俺、何してたんだよ。追いかけっこ? それとも格闘?」
「……そんな、可愛いもんじゃない」
湊は耳まで真っ赤にして、視線を泳がせた。
「……お前が、誰か知らない女と一緒に歩いてたり……俺の知らないところへ、一人で行こうとしたり。……それを、俺が必死で止める夢だ。……お前はいつだって、ふらっとどこかへ行っちまいそうだから」
意外だった。
俺はいつも湊に頼りっぱなしで、むしろ追いかけているのは俺の方だと思っていたのに。
湊にとっての俺は、そんなに危うい存在だったんだろうか。
「行かねーよ。……ルームシェア、始めたんだし。……それに、さっき言っただろ。……もう逃げるなって言ったのは、俺の方だ」
俺は照れ隠しに、大きめの肉を口に放り込んだ。
湊はそんな俺を、眩しいものを見るような、愛おしくてたまらないといった眼差しで見つめている。 昼間まで俺を苦しめていた「好きな人」への嫉妬が、霧のように晴れていく。
こいつの好きな人は、俺だった。
あまりに出来すぎた真実に、まだふわふわとした現実感のなさが残っているけれど。
「……悠真」
「ん?」
「……今日は、カーテン開けて寝るか」
不意に投げかけられた言葉に、俺は思い切り咽せた。
「……っ、げほっ! な、……っ、何言って——」
「勘違いするな。……顔が見えないと、また変な夢を見そうだからだ」
湊は、いたずらっぽく、だけど真剣な瞳で笑った。
その笑顔があまりにかっこよくて、俺は「……勝手にしろ」としか言えなかった。
深夜。
二つのベッドの間にあった仕切りのカーテンは、端に寄せられている。
月明かりが差し込む寝室。
すぐ隣で、湊の静かな寝息が聞こえる。
俺は横向きになり、隣のベッドで眠る湊の顔を眺めた。
昼間、あんなに強気で俺を抱きしめた男が、今は穏やかに眠っている。
すると、湊の手がゆっくりと伸びてきて、迷うように俺のシーツの上を彷徨った。
俺がそっと自分の手を重ねると、湊の指がそれをぎゅっと絡めとる。
「……ゆうま……」
また、寝言。
だけど今夜の声は、昨日までの悲痛な響きではなく、どこか幸せそうに、優しく俺の名前を呼んでいた。
俺は絡められた指先の熱を感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
ルームシェア三日目からの生活は、きっと、想像もつかないほど甘くて、忙しくなるだろう。
「……おやすみ、湊」
俺は、今度こそ深い眠りへと落ちていった。
夢の中で、きっとまた、あいつに捕まることを願いながら。


