無愛想なルームメイトは、夢の中で俺に溺れている

メッセージを送った直後から、俺の心臓は全力疾走を始めたような騒ぎだった。
既読がつくのが怖い。
けれど、つかないのはもっと怖い。
結局、その日の講義は何一つ頭に入らず、気づけば俺はスーパーで半額になった惣菜をいくつか買い込み、逃げるように「家」へと戻っていた。

二人の名前が並んだ表札。
真新しい鍵を差し込み、ドアを開ける。

「ただいま……」

当然、返事はない。
部屋の中はしんと静まり返っていて、湊が朝、慌てて出ていった形跡だけが残っていた。
洗面所に残された、湊の歯ブラシ。脱ぎっぱなしのルームウェア。
それらを見ているだけで、昨夜の熱が指先から這い上がってくるような気がして、俺は逃げるようにキッチンへ向かった。

時計の針が午後九時を回った頃。
ガチャリ、と玄関の鍵が開く音がした。


俺はソファから飛び起き、背筋を伸ばした。
まるで抜き打ちテストを待つ受験生のような気分だ。

「……起きてたのか」

入ってきた湊は、どこかやつれた顔をしていた。
白シャツの襟元は少し乱れ、いつも完璧なはずの髪も少しだけ崩れている。
俺の送ったメッセージのせいで、あいつも一日中落ち着かなかったんだろうか。

「……おう。話があるって、言っただろ」

「……」

湊は無言でカバンを置くと、俺から視線を逸らしてキッチンへ向かい、冷水を喉に流し込んだ。
コップが置かれるカツンという音が、静かな部屋に重く響く。

「……話ってなんだ。手短に頼む。疲れてるんだ」

「湊、お前……昨日の夜のこと、本当に覚えてないのか?」

俺の問いに、湊の肩が微かに跳ねた。


それでもあいつは振り返らず、背中を向けたまま答える。

「……言っただろ、夢を見てたんだ。寝ぼけてお前に迷惑をかけたなら謝る。……悪かった。これでいいか?」

「よくない!」

気づけば、俺は立ち上がって湊の背中に詰め寄っていた。

「謝って済む話じゃないだろ。あんな……あんな必死な顔して。俺の名前、何度も呼んで。……湊、お前、さっきの夢だけじゃないだろ?」

「……何の話だ」

「昨日だけじゃない。一昨日の夜も、その前の夜もだ。お前、ずっと寝言で俺の名前呼んでるんだよ。……『行かないで』とか、『どこ行くんだ』とか……あんな切ない声で」

湊の身体が、目に見えて硬直した。
握りしめられた彼の拳が、白くなるほど震えている。

「……聞いてたのか」

「聞こえるよ。カーテン一枚なんだから。……なぁ、湊。お前の言ってた『好きな人』って……」

俺がその先を口にしようとした瞬間。
湊が猛然と振り向き、俺の言葉を強引に遮った。

「……だったら、どうするんだよ!」

弾けるような怒号。
いつも沈着冷静な湊が、剥き出しの感情を俺にぶつけてきた。


その瞳は、怒りと、それ以上の絶望で濡れているように見えた。

「聞いてたなら、放っておいてくれればよかっただろ。……忘れてくれって言ったのは、俺の最後の情けだ。これ以上、俺を惨めにするな」

「惨めって……俺は、ただ……」

「お前は、何もわかってない! ずっと隣にいて、友達のツラして、ヘラヘラ笑ってるお前を見てる俺が、どんな気持ちか……っ!」

湊の呼吸が荒くなる。
彼は自分の胸元を強く掴み、絞り出すような声で続けた。

「毎晩、夢を見るんだ。お前と笑い合って、お前に触れて……だけど、目が覚めれば隣にはカーテン一枚の壁があって、お前は俺を『ただの親友』としてしか見てない。……このルームシェアだって、お前のそばにいたいっていう俺の身勝手な執念だ。……最低だろ? 気持ち悪いだろ?」

「……湊……」

「……もういい。全部言った。……これで満足か? 明日、俺が出ていく。解約の手続きは俺がやるから、お前はそのままここに——」

「勝手に決めるなよ!」

今度は俺が叫び返していた。


自分でも驚くほどの大きな声。湊が呆然として目を見開く。

「……誰が気持ち悪いなんて言ったよ。誰が出ていけなんて言ったんだよ!」

「……え?」

「俺が聞きたかったのは、そんなことじゃない。……俺の名前を呼んでたあの声が、本当に俺に向けられたものなのか、それを知りたかっただけだ」

俺は一歩、湊に近づいた。
あんなにかっこよくて、完璧だと思っていた湊が、今は今にも泣き出しそうな子供のように見える。 その「脆さ」の原因が、全部俺にあるのだとしたら。

「……俺も、昨日からずっと考えてた。……お前に押し倒されたとき、嫌じゃなかったんだ。……むしろ、心臓が壊れそうなぐらいドキドキして。……それが『友達』としてなのかどうか、俺もまだうまく答えは出せないけど」

俺は震える手を伸ばし、湊のシャツの袖をぎゅっと掴んだ。

「……逃げるなよ。好きな奴がいるなら、本人に直接言えよ。……寝言じゃなくてさ」

部屋の中に、長い沈黙が流れる。


カチカチという時計の音だけが、二人の時間を刻んでいく。


やがて、湊がゆっくりと手を伸ばし、俺の頬を包み込んだ。


その指先は、驚くほど冷たくて、だけど俺の肌を焼くほどに熱かった。

「……悠真。……本気で言ってるのか」

「……本気じゃなきゃ、こんな恥ずかしいこと言えないって……」

湊の顔が、ゆっくりと近づいてくる。


俺は目を閉じることができなかった。
あいつの瞳に映る、情熱と独占欲。


それは、夢の中で俺を追いかけていた「一ノ瀬湊」そのものだった。

「……後悔しても、もう離さないからな」

囁かれた言葉が耳に触れた瞬間。
俺たちの唇が、ルームシェア二日目の終わりの合図のように、重なった。