無愛想なルームメイトは、夢の中で俺に溺れている

手首を掴む湊の指先から、ドクドクと彼の鼓動が伝わってくる。  


あまりの近さに、頭の中が真っ白になった。
湊の吐息が頬をかすめ、夜の静寂の中に、二人の荒い呼吸だけが重なり合っている。

「……みな、と?」

かすれた声で呼ぶと、湊の瞳に一瞬だけ、鋭い光が宿った。  


だが、その光はすぐに困惑の色へと溶けていく。
彼は数秒間、俺を見下ろしたまま凝固していたが、やがて弾かれたように俺の手を離した。

「……あ、……悪い」

湊はよろけるように身を引き、ベッドの端に座り込んで顔を覆った。  


先ほどまでの熱い圧迫感が消え、冷たい夜気が俺たちの間に流れ込む。
俺は起き上がり、乱れたパジャマの襟元を整えながら、どう声をかけていいか分からず立ち尽くした。

「……夢、見てたのか?」

「……ああ。……最悪な夢だ」

湊の声は低く、ひどく疲弊しているように聞こえた。  


最悪な夢。
その夢の中で、あいつは俺を追いかけ、俺を組み敷いていたのか。  


俺はカーテンを閉めるのも忘れ、湊の震える背中をじっと見つめていた。

「湊、お前……」

「寝ろ、悠真。……もう、あっちへ行け」

突き放すような物言いに、昼間の「知らなくていい」という言葉がフラッシュバックする。  


いつもなら「なんだよその態度は」と言い返せるところだが、今夜ばかりは胸のざわつきが収まらない。
俺は何も言えず、自分のベッドに戻り、薄い仕切りのカーテンをゆっくりと閉めた。


結局、その夜も俺は一睡もできなかった。


翌朝。  


リビングには、昨日までとは明らかに違う「壁」が出来上がっていた。


湊は朝食を用意してくれていたが、一度も俺と目を合わせようとしない。
トーストを噛む音さえも、今の俺たちには気まずい騒音に思えた。

「……あのさ、昨日のことだけど」

「忘れてくれ」

俺が口を開きかけた瞬間、湊が食い気味に遮った。  


彼はコーヒーを一気に飲み干すと、まだ半分以上残っている俺の食事を横目に、立ち上がってカバンを肩にかけた。

「今日は一限からゼミだ。先に行く」

「あ、おい!……湊!」

返事はない。
玄関のドアが閉まる無機質な音だけが響いた。  


残されたのは、昨日よりもさらに冷え切った空気と、食べかけのパン。  


俺は椅子の背もたれに深く体重を預け、天井を仰いだ。

(忘れてくれって……あんなことされて、忘れられるわけないだろ……)

手首に残っている、あいつの指の感触。  


夢の延長だったとしても、あの時の湊の目は、確実に俺を見ていた。  


「逃げるな」と言ったあの声が、呪文のように頭の中で繰り返される。


大学へ行っても、俺の頭の中は湊のことでいっぱいだった。  


講義の内容なんて一文字も入ってこない。
気づけばノートの端に、昨日掴まれた自分の手首の絵を無意識に描いていて、慌てて消しゴムで消した。

「悠真ー! お前、魂抜けてるぞ」

背中を叩かれ、椅子から転げ落ちそうになる。  


そこに立っていたのは、同じ経済学部の友人、佐々木だった。

「なんだ、佐々木か……」

「なんだとは失礼な。お前、さっきからペン回ししたまま一点を見つめてたぞ。さては……恋の悩みか?」

「な、……っ、なわけねーだろ!」

図星を突かれたわけではない——はずなのに、過剰に反応してしまう。  


佐々木はニヤニヤしながら、俺の隣の席にどっかと座り込んだ。

「隠すなって。あ、そうだ。今日、この後のサークル顔出しの後、合コンあるんだけど来ないか? 文学部の女の子たちが、イケメンの一ノ瀬湊を連れてこいってうるさくてさ」

湊の名前が出た瞬間、俺の胸がズキリと痛んだ。

「湊は……あいつ、好きな奴がいるらしいから、そういうの行かないと思うぞ」

「えっ、マジで? あの鉄壁の一ノ瀬に好きな人? それ大ニュースじゃん。誰、誰?」

「……俺も知らない。教えてくれないんだ」

吐き出すと、少しだけ心が軽くなるかと思ったが、逆だった。  


言葉にすることで、「自分は湊の特別な相談相手ではない」という事実がより鮮明に浮き彫りになる。

「へぇ、一ノ瀬が隠し事ねぇ……。ま、あいつも男だしな。でもさ、悠真。お前らルームシェア始めたんだろ? 一番チャンスあるじゃん。夜中にこっそりスマホ見ちゃえば?」

「バカ言え、そんなことできるかよ」

笑い飛ばしながらも、俺の脳裏には昨夜の湊の姿が浮かんでいた。  


スマホを見る必要なんてない。
あいつの「秘密」は、夜な夜な寝言となって、俺の耳元まで漏れ出しているのだから。

(待てよ……。あいつの好きな人がもし、その『夢の中の相手』だとしたら)

だとしたら、昨日あいつが俺を押し倒したのは、俺を誰かと見間違えたからなのだろうか。  


湊が夢に見るほど焦がれている「悠真」という名前の……。


……いや。  


悠真、という名前は、俺の名前だ。  


他の誰でもない。


その可能性に思い至った瞬間、全身から血の気が引いて、代わりに顔が爆発しそうなほど熱くなった。

「……悠真? お前、顔真っ赤だぞ? 熱あんのか?」

「……ちょっと、保健室行ってくる!」

俺は教科書をひったくるようにカバンに詰め込み、逃げるように教室を飛び出した。

 
逃げ出した先は、構内の片隅にあるベンチだった。  


秋の冷たい空気を吸い込み、パニックに陥った脳を強制冷却する。

(落ち着け。自意識過剰すぎる。湊が俺を好きなんて、そんな漫画みたいな話があるわけない。あいつはもっと綺麗で、賢くて、完璧な相手に恋をするはずだ。俺みたいな、ただの友達じゃなくて……)

自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、昨夜の湊の「必死な顔」が鮮明に蘇る。  


あの時、湊は俺を見ていた。  


夢の続きだったのかもしれない。
だけど、俺を求めるあの指の力は、間違いなく本物だった。


ポケットの中でスマホが震えた。  


湊からのLINEだった。

『今日の夕飯、少し遅くなる。先に食っておいてくれ』

短く、無機質なメッセージ。  


昨日までの俺なら「了解」とスタンプ一つで返していただろう。  


だけど、今の俺にはその文字の裏側に、あいつの動揺が隠されているような気がしてならなかった。

(……逃げてるのは、俺だけじゃないのか?)

あいつも、俺と顔を合わせるのが怖いのかもしれない。  


そう思った瞬間、俺の中に不思議な勇気が湧いてきた。  


ただの友達として居心地のいい関係を続けるだけなら、昨夜のことは「忘れる」のが正解だ。  


だけど。

「……忘れられるかよ、あんな顔」

俺はスマホを握りしめ、湊への返信を打ち込んだ。

『わかった。でも、大事な話があるから、帰ってきたらちゃんと顔見て話そう』

送信ボタンを押す指が、微かに震えていた。  


これが、ルームシェアという名の安全地帯を自ら壊す行為になるかもしれないとも知らずに。