「……お前は、知らなくていい」
突き放すような湊の言葉が、秋の冷たい風に乗って俺の耳を通り過ぎていった。
歩き出した背中は、いつも通り真っ直ぐで、隙がない。
だけど、その歩幅がいつもより少しだけ速いのは、俺に何かを追求させないための拒絶に思えた。
(知らなくていい、か……)
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
高校からの付き合いで、何でも知っているつもりだった。
湊がコーヒーはブラック派なことも、ホラー映画が苦手なことも、意外と動物好きなことも。
なのに、一番肝心な「好きな人」のことは、教えてもらえない。
ルームシェアなんて始めたのに、俺はまだ、あいつの外側に立たされているような気がして、言いようのない孤独感がこみ上げてきた。
三限の講義が終わり、俺たちは学食へと足を運んだ。
昼食時の学食は、戦場さながらの混雑だ。
湊は「先に席を取っておけ」と言い残し、食券機の列に並びに行った。
ようやく見つけた四人掛けのテーブルの端に座り、ぼんやりと湊の姿を探す。
背が高く、どこにいても目立つあいつは、唐揚げ定食のトレイを持って人混みを縫うようにこちらへ歩いてきた。
その所作一つひとつに、女子学生たちの視線が吸い寄せられている。
「……お待たせ。悠真、お前の分も買っておいたぞ」
そう言って俺の前に置かれたのは、俺が一番好きな『和風おろしハンバーグ定食』だった。
「あ、ありがと……。食券、代金後で払うわ」
「いい。昨日の引っ越しで俺の重い本棚を運んだ手間賃だ」
「それくらい、友達なんだから当然だろ」
友達。
その言葉を口にした瞬間、湊の箸がピクリと止まった。
「……そうだな。友達、だからな」
湊は低く呟き、無心に米を口に運び始めた。
気まずい。
午前中の「好きな人」発言以来、俺たちの間には、透明な壁のようなものが立ちはだかっている。 この沈黙を破りたくて、俺はわざと明るい声を出した。
「なあ、湊。その……好きな人って、うちの大学の子?」
「……しつこいぞ、悠真」
「いいじゃん、少しぐらい教えてくれたって。俺たち、これから一緒に住むんだぜ? もし家に連れてくる予定があるなら、俺だって気を遣ってバイト入れるなりして空けるしさ」
俺の言葉に、湊がガタンと激しく椅子を鳴らして顔を上げた。
その瞳には、明らかな「怒り」と、それ以上に深い「失望」のような色が混ざっている。
「……お前を追い出してまで、誰かを家に呼ぶわけないだろ」
「えっ、あ、いや……普通はそうかなって……」
「お前は、何もわかってない」
湊は吐き捨てるように言うと、残りの唐揚げを一気に口に押し込んだ。
そのまま、俺が何かを言う隙も与えず、彼はトレイを持って立ち上がった。
「午後、サークルの顔出しがあるから先に行く。……夕飯は家で食うから、勝手に外食するなよ」
そう言い残して、湊は去っていった。
残されたのは、半分も減っていない俺のハンバーグ定食と、周囲のザワザワとした喧騒だけだ。
(……わかってないって、何をだよ……)
箸を置くと、急に食欲が失せた。
あいつが怒った理由が、どうしてもわからない。
気を利かせて席を外すと言ったのが、そんなに不快だったんだろうか。
それとも、あいつにとって俺は「恋愛の話を共有するほど深い仲」ではないということだろうか。
一人称の視界は、湊がいないだけで、ひどく色褪せて見えた。
その夜。
気まずさを抱えたまま、俺は新居に帰宅した。
玄関を開けると、ふわりと出汁のいい香りが漂ってきた。
「……ただいま」
「……おかえり。手、洗ってこい。すぐできる」
キッチンには、ネイビーのエプロンをつけた湊が立っていた。
昼間のトゲトゲした雰囲気は影を潜め、淡々と肉じゃがを小鉢に分けている。
俺は言われるままに手を洗い、食卓についた。
気まずい夕飯になるかと思いきや、湊は意外にも普通だった。
「この肉、スーパーの特売だったんだ」とか「明日の燃えるゴミ、お前の担当だからな」とか、他愛もないルームシェアの会話が続く。
だけど、俺の心にはずっと、あの「寝言」と「好きな人」のことが、澱(おり)のように溜まっていた。
夜も更け、それぞれの就寝準備を終える。
カーテンを閉め、お互いの気配だけが届く距離。
「……湊」
「なんだ」
「……いや。おやすみ」
「……ああ、おやすみ」
電気を消し、暗闇が部屋を満たす。
昨夜のことがあったから、俺は寝返りを打つのも慎重になった。
数十分が経過した頃だろうか。
隣のベッドから、衣擦れの音と共に、あの声が聞こえてきた。
「……ゆ、うま……っ、行かないで……」
心臓がドクリと跳ねる。
まただ。
昨夜よりも、もっと切実で、今にも壊れそうな声。
「……どうして、わかってくれないんだ……悠真……っ」
俺の名前を呼ぶ声に、微かな震えが混ざっている。
俺はたまらなくなって、暗闇の中で身体を起こした。
気づけば、手が勝手にカーテンに伸びていた。
見てはいけない。
そう思えば思うほど、夢の中の湊が、俺に何を求めているのか、確かめずにはいられなかった。
シャッ、と小さな音を立てて、カーテンを開ける。
月明かりに照らされた湊の寝顔は、昼間よりもずっと幼く、そして苦しそうに歪んでいた。
眉間に皺を寄せ、シーツをぎゅっと握りしめているその手。
「……湊?」
小さな声で呼んでみる。
すると、湊がゆっくりと目を開けた。
焦点が合っていない。夢と現実の狭間にいるような、潤んだ瞳。
次の瞬間、俺は腕を強く引かれ、湊のベッドの上へと押し倒されていた。
「……わっ、湊、お前——」
覆い被さってきた湊の身体は、驚くほど熱い。
彼の長い睫毛が触れそうなほど近くにあり、心臓の音が重なる。
湊は、俺の手首を両手でガッチリと固定し、低く、掠れた声で囁いた。
「……逃げるなと言っただろ。……お前は、俺のそばにいろ」
その瞳は、もう、寝惚けているようには見えなかった。
熱く、激しく、俺を捕らえて離さない。
ルームシェア二日目。
俺たちの関係は、「友達」という名前の堤防を越えて、一気に溢れ出そうとしていた。
突き放すような湊の言葉が、秋の冷たい風に乗って俺の耳を通り過ぎていった。
歩き出した背中は、いつも通り真っ直ぐで、隙がない。
だけど、その歩幅がいつもより少しだけ速いのは、俺に何かを追求させないための拒絶に思えた。
(知らなくていい、か……)
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
高校からの付き合いで、何でも知っているつもりだった。
湊がコーヒーはブラック派なことも、ホラー映画が苦手なことも、意外と動物好きなことも。
なのに、一番肝心な「好きな人」のことは、教えてもらえない。
ルームシェアなんて始めたのに、俺はまだ、あいつの外側に立たされているような気がして、言いようのない孤独感がこみ上げてきた。
三限の講義が終わり、俺たちは学食へと足を運んだ。
昼食時の学食は、戦場さながらの混雑だ。
湊は「先に席を取っておけ」と言い残し、食券機の列に並びに行った。
ようやく見つけた四人掛けのテーブルの端に座り、ぼんやりと湊の姿を探す。
背が高く、どこにいても目立つあいつは、唐揚げ定食のトレイを持って人混みを縫うようにこちらへ歩いてきた。
その所作一つひとつに、女子学生たちの視線が吸い寄せられている。
「……お待たせ。悠真、お前の分も買っておいたぞ」
そう言って俺の前に置かれたのは、俺が一番好きな『和風おろしハンバーグ定食』だった。
「あ、ありがと……。食券、代金後で払うわ」
「いい。昨日の引っ越しで俺の重い本棚を運んだ手間賃だ」
「それくらい、友達なんだから当然だろ」
友達。
その言葉を口にした瞬間、湊の箸がピクリと止まった。
「……そうだな。友達、だからな」
湊は低く呟き、無心に米を口に運び始めた。
気まずい。
午前中の「好きな人」発言以来、俺たちの間には、透明な壁のようなものが立ちはだかっている。 この沈黙を破りたくて、俺はわざと明るい声を出した。
「なあ、湊。その……好きな人って、うちの大学の子?」
「……しつこいぞ、悠真」
「いいじゃん、少しぐらい教えてくれたって。俺たち、これから一緒に住むんだぜ? もし家に連れてくる予定があるなら、俺だって気を遣ってバイト入れるなりして空けるしさ」
俺の言葉に、湊がガタンと激しく椅子を鳴らして顔を上げた。
その瞳には、明らかな「怒り」と、それ以上に深い「失望」のような色が混ざっている。
「……お前を追い出してまで、誰かを家に呼ぶわけないだろ」
「えっ、あ、いや……普通はそうかなって……」
「お前は、何もわかってない」
湊は吐き捨てるように言うと、残りの唐揚げを一気に口に押し込んだ。
そのまま、俺が何かを言う隙も与えず、彼はトレイを持って立ち上がった。
「午後、サークルの顔出しがあるから先に行く。……夕飯は家で食うから、勝手に外食するなよ」
そう言い残して、湊は去っていった。
残されたのは、半分も減っていない俺のハンバーグ定食と、周囲のザワザワとした喧騒だけだ。
(……わかってないって、何をだよ……)
箸を置くと、急に食欲が失せた。
あいつが怒った理由が、どうしてもわからない。
気を利かせて席を外すと言ったのが、そんなに不快だったんだろうか。
それとも、あいつにとって俺は「恋愛の話を共有するほど深い仲」ではないということだろうか。
一人称の視界は、湊がいないだけで、ひどく色褪せて見えた。
その夜。
気まずさを抱えたまま、俺は新居に帰宅した。
玄関を開けると、ふわりと出汁のいい香りが漂ってきた。
「……ただいま」
「……おかえり。手、洗ってこい。すぐできる」
キッチンには、ネイビーのエプロンをつけた湊が立っていた。
昼間のトゲトゲした雰囲気は影を潜め、淡々と肉じゃがを小鉢に分けている。
俺は言われるままに手を洗い、食卓についた。
気まずい夕飯になるかと思いきや、湊は意外にも普通だった。
「この肉、スーパーの特売だったんだ」とか「明日の燃えるゴミ、お前の担当だからな」とか、他愛もないルームシェアの会話が続く。
だけど、俺の心にはずっと、あの「寝言」と「好きな人」のことが、澱(おり)のように溜まっていた。
夜も更け、それぞれの就寝準備を終える。
カーテンを閉め、お互いの気配だけが届く距離。
「……湊」
「なんだ」
「……いや。おやすみ」
「……ああ、おやすみ」
電気を消し、暗闇が部屋を満たす。
昨夜のことがあったから、俺は寝返りを打つのも慎重になった。
数十分が経過した頃だろうか。
隣のベッドから、衣擦れの音と共に、あの声が聞こえてきた。
「……ゆ、うま……っ、行かないで……」
心臓がドクリと跳ねる。
まただ。
昨夜よりも、もっと切実で、今にも壊れそうな声。
「……どうして、わかってくれないんだ……悠真……っ」
俺の名前を呼ぶ声に、微かな震えが混ざっている。
俺はたまらなくなって、暗闇の中で身体を起こした。
気づけば、手が勝手にカーテンに伸びていた。
見てはいけない。
そう思えば思うほど、夢の中の湊が、俺に何を求めているのか、確かめずにはいられなかった。
シャッ、と小さな音を立てて、カーテンを開ける。
月明かりに照らされた湊の寝顔は、昼間よりもずっと幼く、そして苦しそうに歪んでいた。
眉間に皺を寄せ、シーツをぎゅっと握りしめているその手。
「……湊?」
小さな声で呼んでみる。
すると、湊がゆっくりと目を開けた。
焦点が合っていない。夢と現実の狭間にいるような、潤んだ瞳。
次の瞬間、俺は腕を強く引かれ、湊のベッドの上へと押し倒されていた。
「……わっ、湊、お前——」
覆い被さってきた湊の身体は、驚くほど熱い。
彼の長い睫毛が触れそうなほど近くにあり、心臓の音が重なる。
湊は、俺の手首を両手でガッチリと固定し、低く、掠れた声で囁いた。
「……逃げるなと言っただろ。……お前は、俺のそばにいろ」
その瞳は、もう、寝惚けているようには見えなかった。
熱く、激しく、俺を捕らえて離さない。
ルームシェア二日目。
俺たちの関係は、「友達」という名前の堤防を越えて、一気に溢れ出そうとしていた。


