新しいマンションの空気は、まだどこかよそよそしく、新築特有の建材の匂いが鼻をつく。
けれど、その無機質な空間を埋めていくのは、段ボールを一つ開けるたびに溢れ出す、俺たちのこれまでの四年間だった。
「……なぁ、湊。このボロボロになったマグカップ、新調しようって言ったのに、なんでまた持ってきたんだよ」
俺は、引っ越し作業の途中で出てきた、大学一年の時に100円ショップで買ったペアのマグカップを掲げて見せた。
「捨てられるわけがないだろう。……それは、お前が初めて俺の部屋——いや、俺たちの部屋に来た日に、一緒に選んだものだ。俺にとっては、どんなブランドの食器よりも価値がある」
湊は真顔でそう言い切り、俺の手から奪い取るようにして、それをキッチンの最前列に並べた。
この男は、たまにこういう「想い出」に対して、俺以上に執着を見せる。
完璧主義で、常に前だけを見て歩いているように見える湊だが、その実、俺との時間は一秒たりとも過去に流したくないと思っているのかもしれない。
作業が一段落し、俺たちは広いリビングの床に直接座り込んで、デリバリーのピザを囲んだ。
まだカーテンもついていない大きな窓からは、都会の夜景が宝石をぶちまけたように輝いて見える。かつて住んでいたあの部屋の、電車の音がうるさかったベランダからの景色とは、比べるべくもない贅沢な眺めだ。
「……変な感じだな。こんな綺麗な場所に、俺たちが住むなんて」
「これからはこれが『普通』になるんだ。悠真、お前にはこれから、最高の環境を与えたい。……俺の横にいることで、お前が何かを諦めるようなことがあってはならないんだ」
湊の声は静かだが、そこには並々ならぬ決意が込められていた。
社会に出る。
それは、俺たちのような関係にとって、決して楽な道ではないだろう。
会社の同僚に「彼女はいないの?」と聞かれるたびに、嘘をつかなければならないかもしれない。
結婚して家庭を持つことが「当たり前」とされる世界で、俺たちは静かに、だけど力強く、この手を握り合い続けなければならない。
「……湊。俺、諦めることなんて何もないよ。……むしろ、お前と一緒にいられるなら、他のものが全部なくなってもいいって、本気で思ってる」
俺がピザを頬張りながらさらりと言うと、湊は食べる手を止め、俺をじっと見つめた。
その瞳の奥に、言葉にできないほどの激しい熱が宿るのを俺は知っている。
「……悠真。お前、自分が何を言ったか分かっているのか?」
「分かってるよ。……お前が俺を独占したいみたいに、俺だって、お前を独り占めしたいんだ。……俺たちのこの『檻』は、お前だけが作ったものじゃない。俺も一緒に、中から鍵をかけてるんだよ」
湊が喉の奥で、ひどく愛おしそうな、それでいて苦しそうな声を漏らした。
彼は吸い寄せられるように俺の顔に近づき、額を俺の額に押し当てた。
「……本当にお前は、俺を狂わせる天才だ。……あの日、お前が俺の寝言に気づいてくれたことに、一生感謝し続けなければならないな」
夜が更け、俺たちは新しい寝室へと向かった。
そこには、湊がこだわり抜いて選んだ、大きなキングサイズのベッドが鎮座している。
シーツに身体を沈めると、隣に滑り込んできた湊が、迷うことなく俺を腕の中に閉じ込めた。
かつてのような「シングルベッド二つ」の間にあった物理的な溝は、もうどこにもない。
ただ、お互いの鼓動と、熱い肌の感触だけがそこにあった。
「……ゆうま。……聞こえるか」
「ん……? 何が」
湊は俺の耳元で、囁くように言った。
「……俺の心臓の音だ。……四年前、寝言でお前の名前を呼んでいた時から、この音はお前のためにだけ刻まれている」
俺は湊の胸に耳を当てた。
規則正しく、けれど力強く響くその音は、俺に「ここが居場所だ」と教えてくれているようだった。 俺の名前を呼ぶ声も、俺を抱きしめる腕の強さも、すべてが真実。
もう、夢の中で彼を一人にすることはない。
「……俺もだよ、湊。……愛してる。……おやすみ」
俺がそう告げると、湊は満足げに俺の髪にキスを落とし、電気を消した。
暗闇の中、俺たちは完全に一つになった。
数時間後。
深い眠りの中で、微かな声がした。
「……幸せだ、……悠真……」
それは、もう切ない叫びではない。
満ち足りた、幸福な魂の独白。
俺は夢の中で、その声に答えるように、彼の指をさらに強く握りしめた。
カーテンも、壁も、境界線も。
今の俺たちには、もう何も必要ない。
目を開ければ、そこには必ず愛する人がいる。
それだけで、俺たちの人生は、完璧だった。
けれど、その無機質な空間を埋めていくのは、段ボールを一つ開けるたびに溢れ出す、俺たちのこれまでの四年間だった。
「……なぁ、湊。このボロボロになったマグカップ、新調しようって言ったのに、なんでまた持ってきたんだよ」
俺は、引っ越し作業の途中で出てきた、大学一年の時に100円ショップで買ったペアのマグカップを掲げて見せた。
「捨てられるわけがないだろう。……それは、お前が初めて俺の部屋——いや、俺たちの部屋に来た日に、一緒に選んだものだ。俺にとっては、どんなブランドの食器よりも価値がある」
湊は真顔でそう言い切り、俺の手から奪い取るようにして、それをキッチンの最前列に並べた。
この男は、たまにこういう「想い出」に対して、俺以上に執着を見せる。
完璧主義で、常に前だけを見て歩いているように見える湊だが、その実、俺との時間は一秒たりとも過去に流したくないと思っているのかもしれない。
作業が一段落し、俺たちは広いリビングの床に直接座り込んで、デリバリーのピザを囲んだ。
まだカーテンもついていない大きな窓からは、都会の夜景が宝石をぶちまけたように輝いて見える。かつて住んでいたあの部屋の、電車の音がうるさかったベランダからの景色とは、比べるべくもない贅沢な眺めだ。
「……変な感じだな。こんな綺麗な場所に、俺たちが住むなんて」
「これからはこれが『普通』になるんだ。悠真、お前にはこれから、最高の環境を与えたい。……俺の横にいることで、お前が何かを諦めるようなことがあってはならないんだ」
湊の声は静かだが、そこには並々ならぬ決意が込められていた。
社会に出る。
それは、俺たちのような関係にとって、決して楽な道ではないだろう。
会社の同僚に「彼女はいないの?」と聞かれるたびに、嘘をつかなければならないかもしれない。
結婚して家庭を持つことが「当たり前」とされる世界で、俺たちは静かに、だけど力強く、この手を握り合い続けなければならない。
「……湊。俺、諦めることなんて何もないよ。……むしろ、お前と一緒にいられるなら、他のものが全部なくなってもいいって、本気で思ってる」
俺がピザを頬張りながらさらりと言うと、湊は食べる手を止め、俺をじっと見つめた。
その瞳の奥に、言葉にできないほどの激しい熱が宿るのを俺は知っている。
「……悠真。お前、自分が何を言ったか分かっているのか?」
「分かってるよ。……お前が俺を独占したいみたいに、俺だって、お前を独り占めしたいんだ。……俺たちのこの『檻』は、お前だけが作ったものじゃない。俺も一緒に、中から鍵をかけてるんだよ」
湊が喉の奥で、ひどく愛おしそうな、それでいて苦しそうな声を漏らした。
彼は吸い寄せられるように俺の顔に近づき、額を俺の額に押し当てた。
「……本当にお前は、俺を狂わせる天才だ。……あの日、お前が俺の寝言に気づいてくれたことに、一生感謝し続けなければならないな」
夜が更け、俺たちは新しい寝室へと向かった。
そこには、湊がこだわり抜いて選んだ、大きなキングサイズのベッドが鎮座している。
シーツに身体を沈めると、隣に滑り込んできた湊が、迷うことなく俺を腕の中に閉じ込めた。
かつてのような「シングルベッド二つ」の間にあった物理的な溝は、もうどこにもない。
ただ、お互いの鼓動と、熱い肌の感触だけがそこにあった。
「……ゆうま。……聞こえるか」
「ん……? 何が」
湊は俺の耳元で、囁くように言った。
「……俺の心臓の音だ。……四年前、寝言でお前の名前を呼んでいた時から、この音はお前のためにだけ刻まれている」
俺は湊の胸に耳を当てた。
規則正しく、けれど力強く響くその音は、俺に「ここが居場所だ」と教えてくれているようだった。 俺の名前を呼ぶ声も、俺を抱きしめる腕の強さも、すべてが真実。
もう、夢の中で彼を一人にすることはない。
「……俺もだよ、湊。……愛してる。……おやすみ」
俺がそう告げると、湊は満足げに俺の髪にキスを落とし、電気を消した。
暗闇の中、俺たちは完全に一つになった。
数時間後。
深い眠りの中で、微かな声がした。
「……幸せだ、……悠真……」
それは、もう切ない叫びではない。
満ち足りた、幸福な魂の独白。
俺は夢の中で、その声に答えるように、彼の指をさらに強く握りしめた。
カーテンも、壁も、境界線も。
今の俺たちには、もう何も必要ない。
目を開ければ、そこには必ず愛する人がいる。
それだけで、俺たちの人生は、完璧だった。


