大学の卒業式。
三月特有の、少し湿った冷たい風が桜の蕾を揺らしている。
俺たちは、四年間通い慣れた学び舎の正門に立っていた。
手にした卒業証書の筒が、なんだか自分たちの「青春という名の猶予期間」が終わったことを告げているようで、少しだけ寂しくなった。
「……終わったな、悠真」
隣に立つ湊が、淡々とした声で言った。
紺色のスーツを完璧に着こなした湊は、今日という日にあっても、周囲の女子学生たちからの羨望の視線を集めている。
だが、あいつの視線は、今日も一瞬たりとも俺から逸れることはなかった。
「あぁ。……明日から、俺たち社会人なんだよな。実感が湧かないけど」
「俺はある。……お前を大学の雑多な連中から守り抜く必要がなくなると思うと、清々しい気分だ」
「最後までそれかよ」
俺が苦笑いしていると、向こうから「おーい! 主役カップル!」と、空気を読まない大きな声が聞こえてきた。
佐々木だ。
あいつは俺たちの元へ駆け寄ると、俺の肩をバシバシと叩いた。
「卒業おめでとう! いやー、一時はどうなるかと思ったけど、結局最後まで一緒にいな。……一ノ瀬、お前、会社に入っても悠真をストーキングすんなよ?」
「……善処する」
「善処すんな、否定しろよ!」
佐々木は笑いながら、最後に俺の目を見て、少しだけ真剣な顔をした。
「……悠真。お前、本当に幸せそうだな。……まぁ、一ノ瀬の愛が重すぎて潰れそうになったら、いつでも連絡しろ。飲み代くらいは出してやるからな」
「……ありがとな、佐々木。本当にお前には、感謝してる」
佐々木と握手を交わし、俺たちはそれぞれの未来へと歩き出した。
正門を出る時、俺は一度だけ振り返り、校舎を眺めた。
あの寝言から始まった俺たちの物語は、この場所で育まれ、今、新しい場所へと移ろうとしていた。
その日の午後。
俺たちは、四年間の思い出が詰まったあの「二LDK」の部屋にいた。
荷物の運び出しはすべて終わり、部屋の中はがらんとしていて、声がやけに響く。
仕切りのカーテンが外された窓枠には、もう隠すべき秘密なんて何も残っていなかった。
「……湊。……本当に、引っ越すんだな」
「あぁ。……新しい鍵は、もう持っている」
湊がポケットから取り出したのは、真新しいキーケース。
明日から俺たちが住むのは、湊が執念で見つけ出した、最新のセキュリティを誇る高層マンションの一室だ。
もう、お互いの気配を遮るものは何もない。
「……なぁ、湊。……ずっと、聞きたかったことがあるんだ」
「なんだ」
俺は空っぽになった部屋の中央で、湊に向き合った。
「……第1章の時さ。……一番最初のあの夜。……お前、なんであんな切ない声で、俺の名前を呼んでたんだ?」
湊は一瞬、驚いたように目を丸くしたが、やがて困ったように眉を下げて笑った。
あんなに不敵で独占欲の塊だった男が、今、ひどく純粋な少年のように見える。
「……お前が、俺を置いて、どこか遠いところへ行ってしまう夢を見ていたんだ」
「……遠いところ?」
「あぁ。お前が、俺の知らない誰かと笑って、俺の知らない人生を歩んでいる。……俺がどんなに手を伸ばしても、お前の指先にさえ触れられない。……そんな、絶望の中にいた」
湊は一歩、俺に近づき、俺の頬を熱い手のひらで包み込んだ。
「……だから、寝言で叫んでいたんだと思う。……『行かないでくれ、俺を見捨てないでくれ』と。……あの頃の俺にとって、お前は届かない星のようなものだったんだ」
俺は、言葉を失った。
あんなに自信満々に見えた湊が、そんな臆病な想いを抱えて俺の隣にいたなんて。
あの寝言は、あいつの魂の叫びだったのだ。
「……でも、今はもう、叫ぶ必要はないだろ?」
「あぁ。……お前は今、俺の腕の中にいる。……現実の、生身のお前がな」
湊は俺を引き寄せ、深く、静かなキスをした。
空っぽの部屋に、二人の呼吸の音だけが溶けていく。
カーテンのいらない朝。
隠し事のない、新しい生活。
俺たちは、もう「寝言」で呼び合う必要はない。
目を開ければ、そこには必ず愛する人がいるのだから。
「……行こうか、悠真。俺たちの、新しい家へ」
「……あぁ、行こう。……湊」
俺たちは手を繋ぎ、四年間の思い出が詰まった部屋の扉を閉めた。
カチリ、と鍵が閉まる音。
それは、過去への決別ではなく、永遠に続く未来への誓いの音だった。
三月特有の、少し湿った冷たい風が桜の蕾を揺らしている。
俺たちは、四年間通い慣れた学び舎の正門に立っていた。
手にした卒業証書の筒が、なんだか自分たちの「青春という名の猶予期間」が終わったことを告げているようで、少しだけ寂しくなった。
「……終わったな、悠真」
隣に立つ湊が、淡々とした声で言った。
紺色のスーツを完璧に着こなした湊は、今日という日にあっても、周囲の女子学生たちからの羨望の視線を集めている。
だが、あいつの視線は、今日も一瞬たりとも俺から逸れることはなかった。
「あぁ。……明日から、俺たち社会人なんだよな。実感が湧かないけど」
「俺はある。……お前を大学の雑多な連中から守り抜く必要がなくなると思うと、清々しい気分だ」
「最後までそれかよ」
俺が苦笑いしていると、向こうから「おーい! 主役カップル!」と、空気を読まない大きな声が聞こえてきた。
佐々木だ。
あいつは俺たちの元へ駆け寄ると、俺の肩をバシバシと叩いた。
「卒業おめでとう! いやー、一時はどうなるかと思ったけど、結局最後まで一緒にいな。……一ノ瀬、お前、会社に入っても悠真をストーキングすんなよ?」
「……善処する」
「善処すんな、否定しろよ!」
佐々木は笑いながら、最後に俺の目を見て、少しだけ真剣な顔をした。
「……悠真。お前、本当に幸せそうだな。……まぁ、一ノ瀬の愛が重すぎて潰れそうになったら、いつでも連絡しろ。飲み代くらいは出してやるからな」
「……ありがとな、佐々木。本当にお前には、感謝してる」
佐々木と握手を交わし、俺たちはそれぞれの未来へと歩き出した。
正門を出る時、俺は一度だけ振り返り、校舎を眺めた。
あの寝言から始まった俺たちの物語は、この場所で育まれ、今、新しい場所へと移ろうとしていた。
その日の午後。
俺たちは、四年間の思い出が詰まったあの「二LDK」の部屋にいた。
荷物の運び出しはすべて終わり、部屋の中はがらんとしていて、声がやけに響く。
仕切りのカーテンが外された窓枠には、もう隠すべき秘密なんて何も残っていなかった。
「……湊。……本当に、引っ越すんだな」
「あぁ。……新しい鍵は、もう持っている」
湊がポケットから取り出したのは、真新しいキーケース。
明日から俺たちが住むのは、湊が執念で見つけ出した、最新のセキュリティを誇る高層マンションの一室だ。
もう、お互いの気配を遮るものは何もない。
「……なぁ、湊。……ずっと、聞きたかったことがあるんだ」
「なんだ」
俺は空っぽになった部屋の中央で、湊に向き合った。
「……第1章の時さ。……一番最初のあの夜。……お前、なんであんな切ない声で、俺の名前を呼んでたんだ?」
湊は一瞬、驚いたように目を丸くしたが、やがて困ったように眉を下げて笑った。
あんなに不敵で独占欲の塊だった男が、今、ひどく純粋な少年のように見える。
「……お前が、俺を置いて、どこか遠いところへ行ってしまう夢を見ていたんだ」
「……遠いところ?」
「あぁ。お前が、俺の知らない誰かと笑って、俺の知らない人生を歩んでいる。……俺がどんなに手を伸ばしても、お前の指先にさえ触れられない。……そんな、絶望の中にいた」
湊は一歩、俺に近づき、俺の頬を熱い手のひらで包み込んだ。
「……だから、寝言で叫んでいたんだと思う。……『行かないでくれ、俺を見捨てないでくれ』と。……あの頃の俺にとって、お前は届かない星のようなものだったんだ」
俺は、言葉を失った。
あんなに自信満々に見えた湊が、そんな臆病な想いを抱えて俺の隣にいたなんて。
あの寝言は、あいつの魂の叫びだったのだ。
「……でも、今はもう、叫ぶ必要はないだろ?」
「あぁ。……お前は今、俺の腕の中にいる。……現実の、生身のお前がな」
湊は俺を引き寄せ、深く、静かなキスをした。
空っぽの部屋に、二人の呼吸の音だけが溶けていく。
カーテンのいらない朝。
隠し事のない、新しい生活。
俺たちは、もう「寝言」で呼び合う必要はない。
目を開ければ、そこには必ず愛する人がいるのだから。
「……行こうか、悠真。俺たちの、新しい家へ」
「……あぁ、行こう。……湊」
俺たちは手を繋ぎ、四年間の思い出が詰まった部屋の扉を閉めた。
カチリ、と鍵が閉まる音。
それは、過去への決別ではなく、永遠に続く未来への誓いの音だった。


